「グレアム尊士の好き勝手放題」

      

 

      

『ストーカー プロジェクト・ケルベロス』

第二話 「セット・カウント」

 

 

 

 

 

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 その日は激しい雨が降っていた。

 軍倉庫地区北東、フリーダムの前哨基地。

 ここはCNPP(チェルノブイリ原子力発電所)を囲む森林地帯、通称<赤い森>へと道が続いている。

 CNPPへと続く赤い森へのルートの安全確保は、ゾーンを猟場とするストーカー達にとっては永年の悲願だった。なぜならストーカー達にとって、すべての始まりの地であるCNPPは膨大な量のアーティファクトが埋蔵されている宝の山と信じられており、CNPPへと到達することがすべてのストーカーにとっての最終目標だったからである。

 しかし未だかつて、CNPPに到達して無事に帰還できたストーカーはいない。

 突然変異によって凶暴化したミュータントの群れ、数々の強力なアノマリー、CNPPへと向かおうとする者を無差別に攻撃する謎の組織<モノリス教団>の存在、そして人間の脳を破壊し理性をなくしたゾンビへと変貌させる電磁波<ブレイン・スコーチャー(脳髄焦がし)>の存在…

 CNPPに到達するために越えなければならない障害はあまりに多く、しかも、それらゾーンの脅威は時間の経過とともに活動範囲を拡大し続けている。

 いまとなってはその脅威を食い止めることが最優先事項となっており、とてもじゃないがCNPPに到達することなどできはしない。それ以前に、魑魅魍魎の徘徊する魔境と化した赤い森に侵入することこそ自殺行為以外の何物でもなかった。

 そういう理由から、ゾーンに幾つか存在する武装勢力の一つであるフリーダムが、この赤い森へと続く道を封鎖しているのだった。

「つまりはそういうことだよな。デューティのクソ野郎どもがどんなに高説ぶったところで、けっきょく、ゾーンの脅威から紙の差一枚で世界を守ってるのは俺たちってことさ」

 軍用払い下げ品のレインコートに身を包んだフリーダムの兵士が、となりで見張りに立っている同志に向かって話しかけた。

 デューティ、というのは、ここゾーンでも五本の指に入る一大勢力の一つだ(もちろん、フリーダムもとなりの指に勘定される)。もとはゾーンに派遣されたウクライナ正規軍偵察部隊の初期メンバーが独立して生まれた組織で、ゾーンの存在そのものを危険視し、ゾーンの完全破壊を最終目標としている。

 同時にゾーン特有の技術(アーティファクト等)が外部に流出するのを防ぐために活動しており、そのためゾーンの技術を外部に拡散させるために行動するフリーダムとは敵対関係にある。

「本当にゾーンが危険なものなら…というか、政府がゾーンを危険視して壊滅させたがってるなら、とっくに核をぶち込んでるさ。そうしないのは、ゾーンが必要とされているからだろう?」

「それがわからないから、あいつら、正規軍から独立してデューティなんて組織を作ったんじゃねぇか。誰かに頼まれたわけじゃないのに、自警団気取って調子こくとか、きちがいじゃないのか、連中…」

 ガスマスクのレンズにしたたる水滴をしきりに掌で拭いながら、フリーダムの兵士たちは世間話を続ける。

 彼らの話は半分は真実で、もう半分は嘘っぱち…とまではいかずとも、正確な情報ではなかった。

 誰にも頼まれたわけじゃない、という部分だ。たしかにデューティ設立当初は孤立無援だったが、もしその状態が長く続いていたとしたら、ゾーン下で一大勢力に数えられるほどの成長はなかったはずである。

 もちろん現地でデューティの信義に感化された有志の数は多い。しかしそれ以上にデューティを強力な組織たらしめているのは、ゾーンの外部に多数存在する後援者たちの存在だった。

 デューティの創設には、ウクライナ軍の将校も関わっていた。彼は自らのコネを駆使し、志を同じくする軍や政府の高官、資産家などから資金を集め、組織の拡大と強化に努めた。

 同様に、フリーダムにも後援者がいる。こちらはアーティファクトと引き換えに武器弾薬や資金の提供を受けており、軍や政府の研究機関のみならず犯罪組織にもアーティファクトを横流しするなど、取引先を選ばないことが「無軌道な技術拡散を助長する」と非難される原因になっている。

 とはいえ公的機関もフリーダムのような無政府組織と表立って取り引きできるわけではなく、あくまで秘密裏にアーティファクトを買い取っているため、アーティファクトの第三世界への流出に関しては黙認せざるを得ないのが現状だ。

「需要と供給ってやつさ。それに俺たちを非難すれば、俺たちの活動を黙認するかわりに甘い汁を吸ってきたお偉方の首が幾つか吹っ飛ぶことになる。どれだけいるのかは検討がつかんがね…時間が経つ毎に数が増えてるのはたしかだな」

「もし俺たちを口封じしたくなっても、そいつは無理ってもんだ。なんたって、俺たちはゾーンにいるんだからな。シマウマを狩るためにライオンの群れに裸で突っ込むようなもんさ。そう考えると笑えるよな、俺たち向きに対策を立てようとしても、もう手遅れなんだぜ」

 そう言って、フリーダムの兵士は「はっはっはっ!」と笑い声を上げた。

「それに、娑婆でアーティファクトが悪用されようと、そんなのは俺たちの知ったことじゃねぇ」

「銃が人を殺すんじゃない、人が銃で殺すんだ…という、アレか。自己責任論みたいなもんだな」

 もちろん、それだけじゃないが…フリーダムの兵士は稜線の向こうに垂れこめる暗雲を眺め、ため息をついた。

「…なぁ。ゾーンの外でも、空はおなじように見えると思うか?」

「さあな。娑婆が恋しいのか?」

「そんなことはない…と言いたいところだが、正直、たまに娑婆にいた頃の夢を見るよ。しがらみは多いが、平和だった。道を歩くのにアノーマリーを警戒してボルトを投げる必要もないし、コンビニに行けば、金さえ出せば欲しい物がなんでも買えた。公園を散歩してると、ペットを連れた女が歩いててさ。もちろん、犬が人間を襲って喰い散らかすこともない」

 そう言うフリーダムの兵士の声は次第に抑揚をなくし、精彩を欠いていった。

「女。料理。ガスコンロ…笑っちまうよな。ガスコンロが使えるのが当たり前だったんだぜ。家にはちゃんと屋根があって、ベッドには清潔なシーツとふかふかの布団が敷かれてて、好きなときにシャワーを浴びれた。ここじゃあ水すらマトモに手に入らねえ。女も子供もいない。人間以外の動物はみんな敵だ。挙句、人間同士で殺し合いまでして…」

 そこまで言ったところで、フリーダムの兵士の言葉が途切れた。彼の目はすでに相方を見てはいなかった。どんよりと濁った灰色の空を見つめる彼がガスマスク越しにどんな表情をしているのか、相方には見当もつかなかった。

 だいたい、ゾーンはまともな人間が足を踏み入れるような土地ではない。一攫千金を夢見る馬鹿者か、娑婆にいられなくなった犯罪者、あるいは特殊な事情を持つ何某か。

 そんなわけだから、娑婆がどんなだったかなど、普段は考えもしないのだが…相方は気遣うように尋ねた。

「帰りたいと思うか?娑婆に」

「…いや。いいや」

 フリーダムの兵士は自分に言い聞かせるように、もう一度「いいや」と言うと、今度はきちんと相方に向き直って、言った。

「もう忘れたよ。あそこに俺の居場所は、ない。そうさ、娑婆がどうなろうと、知ったことか」

 つい先刻とおなじ言葉を、今度は若干異なるニュアンスで、つぶやく。

「そうさ。俺の知ったことか…」

 吐き捨てるようにそう言ったとき、検問所のゲートの向こう…赤い森の方面から、雷鳴とは違う低音が断続的に聞こえてきた。

 地鳴り…ではない。<エミッション(放射能の嵐)>かと思い身を固くしたが、どうやらそれも違うようだ。

「…エンジン音?」

 それも、乗用車やジープではない。

 バックパックのサイドポケットに突っ込んである携帯用の無線機に手を伸ばすと、フリーダムの兵士は監視塔にいる同志に話しかけた。

「妙な音が聞こえるんだが、そっちから何か見えないか?」

[[いま確認した。トラックだ!兵隊を乗せている]]

「あー、くそっ」

 厄介な…フリーダムの兵士は毒づき、さらに質問する。

「モノリス教団の連中か?」

[[わからん。外套で全身を覆ってるから装備で判別できん…あっ、まずいな、スピードを上げたぞ!]]

 その言葉を聞いた直後に、フリーダムの兵士からも見える位置までトラックが近づいてきていた。軍用の兵員輸送トラックが、猛スピードで直進してきている。

[[警告する、止まれ!止まらない場合は発砲も辞さない、いますぐに停止して所属と目的を述べよ!繰り返す、いますぐに止まれ!]]

 検問所に備えつけてある拡声器から、前哨基地の指揮官の怒鳴り声が響く。

 しかしトラックは一向にスピードを落とさず、そのままこちらに向かってくると、検問所のポールを跳ね飛ばして前哨基地内を暴走した。

 おいおいおいおい、ふざけんなよ…フリーダムの兵士は慌ててM16小銃のセイフティを「SAFE」から「AUTO」に切り替えると、暴走を続けるトラックに向かって発砲した。

 甲高い耳障りなサイレンが鳴りはじめるのとほぼ同時に、前哨基地にいたフリーダムの兵士たちがこぞって武器を手に集結し、トラックに攻撃をはじめた。やがて仮眠をとっていた者や料理人に至るまでが攻撃に加わり、しまいに誰かが持ち出したロケット擲弾がトラックに直撃し爆発炎上した。

 オリンピックの体操選手よろしく宙返りしたトラックの荷台から(この雨だというのに幌つきではなかった)、武装した兵隊がはじけたポップコーンのように投げ出される。

 横転したままの状態でようやく静止したトラックの周囲に、外套姿の兵隊たちがばらばらと落下してくる。雨水の溜まった泥の地面にべしゃりと音を立てて倒れたのち、兵隊たちは一様にぴくりとも動かなくなった。

 やがて警戒警報が解除され、前哨基地はふたたび静寂に包まれた。

 小銃を肩づけで構えながら、フリーダムの兵士はトラックに近づく。倒れた謎の兵隊を先に検分していた仲間の姿を認めると、銃口を下ろして質問した。

「死んだのか、そいつ。やっぱりモノリス教団か?」

「いや」

 仲間は意味ありげな仕草で謎の兵隊の右腕を持ち上げると、袖をまくり上げてみせた。青白い肌に直接刻まれた、<S.T.A.L.K.E.R.>の刺青がはっきりと見える。

「この刺青…まさか、<死のトラック>か!」

「そうとしか考えられん」

 死のトラック。

 存在そのものは過去に何度も確認されているが、その詳細について知っている者はいない。

 CNPPからやって来る、死体を満載したトラック。特にトラブルがなければ…たとえば今回みたいにロケット擲弾を喰らったりしなければ、そいつはどこかで死体を降ろし、そして何処かへと去っていく。死体はみな武装しているが、その所属元はばらばらだ。共通点はただ一つ、腕に<S.T.A.L.K.E.R.>の刺青が入っていることだけ。

 誰が、なんの目的で、なんてことは誰にもわからない。死体を捨てる場所が無作為に選ばれているのか、それとも計画的なものであるのかさえ、見当もつかないのだ。

「見てくれ、こいつの顔を。皮膚が完全に融解して、ところどころ頭蓋骨が露出している。見たくはないが、全身こんな感じだろうな…こいつらの死因は銃弾でも、ロケット擲弾でも、ましては落下のショックでもない。俺たちがこいつの存在に気づくずっと前から死んでたんだ」

 死体を検分していた仲間が、もっともらしい表情で頷いた。手にしたガイガーカウンターから、ガリガリと岩を爪で掻いたような音が聞こえてくる。

「放射能に汚染された連中の末路か。むごいもんだな」

 俺たちもいずれはこうなるのかもしれない、とは、言わなかった。

『う、おえっ…ぐえ、おええぇぇぇぇ……』

 誰かが嘔吐する声が聞こえてくる。無理もない、ここにある死体はみな、自分たちの未来の姿なのかもしれないからだ。たんに損壊の酷い死体というだけでも、ショックだというのに。

 仕方がない、背中でもさすってやるか…フリーダムの兵士はそう思い、嘔吐した仲間のもとへと行こうとした。

 行こうとした、つまり、行くことはできなかった。

 嘔吐していたのは、フリーダムの同志ではなかったからだ。

「おい、こいつ生きてるぞ!」

 誰かが叫ぶ声が聞こえてくる。

「おいおい、冗談だろ」

 フリーダムの兵士は声がしたほうに駆け寄ると、そこには確かに倒れた状態で嘔吐している…まぁ有体に言えば「寝ゲロ」している男の姿があった。

 格好は、ほかの死体とおなじ外套に……

「おい、おいおいおい、今日はなんて厄介ごとのオンパレードだ?この戦闘服、間違いねぇ」

 白地の都市迷彩服に、対放射線装備を組み合わせた抗弾ベスト。特殊な加工が施されたガスマスクは、一部のミュータントが放ってくる精神干渉波を遮断する効果を持つ。なにより、袖の部分に刺繍された部隊章が男の所属を明確にしていた。

「こいつは…モノリス教団の兵士だ!」

 その言葉を聞いたフリーダムの同志たちは騒然となり、露骨に警戒を強めはじめた。

 モノリス教団。それはCNPPの最奥、爆発事故を起こした四号炉<石棺>に存在すると言われている、どんな願いも叶える石碑<モノリス>…通称<願望機>を崇拝する狂信的な武装勢力だ。

 誰が設立したのか、メンバーはどうやって集まったのか、どこに彼らの拠点があるのか、独自の装備をどこで調達しているのか…そのすべては謎に包まれている。わかっているのはCNPP方面からやって来てモノリス教団以外の人間を片っ端から虐殺していくこと、死を厭わず行動すること、一切の会話が成り立たないこと、そして捕虜になった者はみな自害すること。

 男の装備品をチェックし、自殺に使えそうなもの(特に爆発物)を取り除くと、フリーダムの兵士は男のガスマスクを外してやった。吐瀉物がどろっと流れ出すのと同時に、男がさらに激しく咳き込む。

 モノリス教団の兵士と思われる男の顔はというと、他の死体よりは幾分マシな状態ではあるものの、いたって健康というわけにはいかなかった。肌は血が通っていないかのように青白く、石が貼りついたようなカサブタや腫瘍があちこちにできている。

「こんな状態でよく生きてるな。顔面が、まるで半世紀ほど海に沈みっぱなしの艦艇みたいになってやがる」

「そいつ、大丈夫なのか?」

「さぁな。いますぐ舌を噛み千切って自殺するかも」

 フリーダムの兵士たちが口々に言葉を交わすなか、モノリス教団の男が意識を回復した。

 男はまるでうわごとのように、よくわからない言語(その場にいる誰もが理解できなかったが、それは日本語だった)でつぶやきはじめた。

『ここはいったい…あんたら、いったい誰なんだ?俺は…俺はいったい、どうしてここに…俺は…俺は…?』

「なんだ、モノリス語か?頼むから、俺たちにわかるように言ってくれないか」

 うんざりしたように囁いたフリーダムの兵士のロシア語を聞いて、モノリス教団の男は一瞬目をぱちくりさせると、今度は改めて、ロシア語で質問しなおした。

「ここはいったいどこなんだ。あんたら、何者だ?俺は…俺は、誰なんだ?」

「ここはフリーダムが管理している、軍倉庫地区北東の非常線だ。俺たちはフリーダムの兵士、おまえのことなんぞは知らん」

「俺は…俺は…クソッ、なにも思い出せない」

「なにも思い出せん、だと?記憶がないのか。ちくしょう、またこの手合いか。二人目だぜ、まったく、どうしてこう…」

 また。二人目。

 モノリス教団の男はその言葉の意味を理解できなかったが、改めて問いただすより先に意識が朦朧としはじめ、またしても気を失ってしまった。

 失神した男を尻目に、フリーダムの兵士は事態を聞きつけてたったいま飛び出してきた指揮官を見つけると、口頭で報告をはじめる。

「死のトラックの生き残りです。モノリス教団の格好をしていますが、素性は不明です。記憶を失くしているらしく…おそらく、あいつと同類でしょう。なんて言いましたっけ、シドロビッチのところから来た」

「マークド・ワン(印つき)か。こいつをどうすべきだと思う?」

「以前はシドロビッチに先を越されましたが、今度は上手くやれるでしょう。こいつがマークド・ワンとおなじスペックと仮定して、ですが。教化できれば貴重な戦力になります」

「なるほどな。名前はどうする?」

「名前、ですか」

「アイツ、とか、コイツ、じゃあサマにならんだろう。とはいえマークド・ワンという便利な名前は先に使われたからな。名無し、匿名、あたりで連想すると、アノニマスあたりが妥当か」

「気取りすぎでしょう。もっと単純なのでいい」

 そう言って、フリーダムの兵士は一つの名前を口にした。

 

 

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『…ネームレス……』

「ん…」

 俺はとなりで寝ている少女のうわごとで、目が醒めた。

 上体を起こしたところで、ようやく、少女が俺に抱きついたまま眠っていたことに気がつく。

 ナターシャ・クロートキィ、齢17にして望まぬままゾーンに放り出された哀れな少女。彼女と行動をともにするようになってから、もう半年が経つ。

 あの日はたしか俺がフリーのストーカーになって間もない頃、フリーダムとの共同作戦でデューティの幹部を暗殺するためダークバレー南部の開けた野営地に集まっていたはずだ。

 当時ダークバレー南部の農場はデューティの拠点になっていて、のちにバンディットの再三に渡る襲撃に耐えかねて現地のストーカー・グループに場所を譲ったと聞いたが、ともかく当時は、北部のフリーダム基地と際どい睨み合いを続けていたように記憶している。

 結果だけ言えばデューティ幹部の暗殺作戦は失敗し、俺はドラグノフ狙撃銃にピストル一挺というぱっとしない装備を抱えたまま、デューティの追撃を逃れるためにガーベッジ地区まで遁走するはめになったのだ。

 そのときすでに俺はフリーダムの一員ではなくなっていたので、ダークバレー北部の基地に向かうフリーダムの部隊にはついて行かず、単独で逃走したのだが、いまにして思えば、圧倒的に火力が不足している状態で単独行動を起こすなど自殺行為以外のなにものでもない。

 ともかく自分のヤサ(隠れ家)があるガーベッジ地区での逃走中に、なにやら言い争う声が聞こえてきたので向かったところ、そこには射殺体が一つにセーラー服を着た少女、そして数人のバンディットに見慣れぬスーツ姿の男がいたというわけだ。

 射殺体にすがりつく、金髪碧眼の少女…明らかに日本の女子高生のものと思われるセーラー服を着た、あからさまに場違いなその存在こそ、ナターシャに他ならない。

 おなじく場違いなスーツ姿の男は、バンディットたちの雇い主らしかった。この男の命令でバンディットたちはナターシャと対峙し、まず手始めにナターシャの保護者を射殺した、とまあ、そんなあらすじだったと記憶している。俺もあまり詳しくナターシャに質問しなかったため、当時の状況の詳細はよく知らないのだ。

 本来ならすぐにナターシャも始末される予定だったらしいのだが、ここでバンディットたちが雇い主に逆らったことで、ちょっとした膠着状態に陥ったという。

 その点に関しては詳細を聞かずともだいたいの想像はつく。

 なにもバンディットたち、悪名高いゾーンの強盗集団が、いたいけな少女を殺すことに罪悪感をおぼえたわけはない。そんなことは有り得ない。

 女っ気のないゾーンで長く暮らしていた犯罪者の集団が、まだ肉体的に未成熟であるとはいえ、見た目麗しい少女を目前にして考えることなど一つしかない。そしておそらく、そういった行為は彼らの雇い主にとって「好ましからざるもの」だったに違いないのだ。

 長くて目立つドラグノフ狙撃銃を遠い場所に置き去りにしながら、俺は音を殺しつつ素早く接近していった。

 狙撃銃は遠距離から一方的に攻撃できるという点で便利だが(もちろん、こちらの位置がばれるまでは…という但し書きがつくが)、瞬時に複数の標的を排除するには向かないハードウェアだ。

 俺はアサルト・ベストの前面に差してあったブローニング・ハイパワー拳銃を抜くと、ローディング・インジケータを一瞥し、砂利坑のちょうど丘になっている部分から狙いをつけた。その日はまだ一発も撃っていなかったから、確認するまでもなく銃にはフル・ロードのマガジンがセットしてあったはずだ。

 わりとすぐ近くから拳銃で狙いをつけている俺の存在などまるで気づかぬまま、口論を続けていたバンディットたちとその雇い主は、やがて銃を向け合う一触即発の状態へと発展した。

 人数的には雇い主であるスーツの男が圧倒的に不利だが、銃の構えかたを見る限りスーツの男はプロフェッショナルで、その無駄のない動きや冷静な物腰と比べると、数で勝るバンディットたちの姿勢は、これから銃を撃つにしてはあまりにお粗末なものだった。

『(…まぁ、俺にとっちゃあ娘が助かればなんでもいいんだけどね。神様、仏様、モノリス様、神性があるものならなんでもいい、ちょっとだけ力を貸してくれよ)』

 そんなことを考えながら俺は慎重に狙いをつけると、バンディットの一人の頭に、直径9mm、銅で被甲された鉛の弾丸をぶち込んだ。

 バン、銃声がして仲間が倒れるのと同時にバンディットたちがパニック状態に陥り、スーツ姿の男がすかさず彼らに向かって発砲をはじめた。こうなるともう、じっくり狙いを定めている余裕などありはしない。流れ弾がナターシャに当たったり、誰かが気まぐれを起こして「本来の仕事をまっとうしよう」などと考えなおす前に、すべてを終わらせなければならない。

 俺はバンディットたちの胴体に向けて連続して発砲し、やがてバンディットが全員倒れたのを確認すると、改めてスーツの男に狙いをつけた。どうやらスーツの男も俺の存在に気がついたらしく、ゾーンでは滅多に見かけないロシア軍用のGSh−18ピストルの銃口をこちらに向けてきた。素早い動きだった。

 まずい、先に撃たれる…そう思ったとき、膨大な量のアドレナリンが俺の脳髄を満たし、身体全体が軽く、しなやかに動くようになった。ガスマスクのレンズ越しに見る世界は緩慢で、空を飛ぶ鳥、風に吹かれて舞う木の葉までもがあからさまにスローテンポで宙を滞空している。

 すぐに俺は、自分の握っている拳銃の狙いがやや左にずれていることに気がついた。あわてて右に修正し、スーツの男の首のあたりにフロント・サイトを置く。一方、スーツの男はとっくにこちらに狙いをつけていたにも関わらず、まだ発砲していなかった。撃つのを躊躇しているようにも見えなかったが。

 俺はトリガーをゆっくりと引き絞り、銃口から閃光がほとばしると同時に、薬莢がゆっくりと宙を舞うのをぼーっと眺めていた。ぼーっと、というのはもちろん感覚的な話で、実際は0.1秒にも満たなかっただろう。

 すぐさま、立て続けに二回トリガーを引き、それと同時に世界がもとの時間を取り戻した。

 スーツの男が血を吹きながら仰向けに倒れるのを確認し、俺は軽い目眩をおぼえながらも(このときはまだ、戦闘能力を一時的に増大させたときの副作用が目眩程度で済んでいたのだ)、ナターシャのもとへと駆け寄った。

「た、助けてくれ…ち、治療を…救急キットを渡してくれるだけでいい、頼むよ…」

 バン。

 さっきの銃撃戦で致命傷を喰らわなかったのか、血まみれの腹を抱えてうずくまっているバンディットの頭をすれ違いざまにぶち抜くと、俺はすっかり怯えきっているナターシャを抱き起こし、言葉をかけた。ロシア語で。

「大丈夫か?なにがあったのかは知らないが…というか、ずいぶんと奇妙な服装をしてるが…立てるか?」

 しかしナターシャはショック状態から脱することができないのか(実際は俺のロシア語が理解できなかったのだが)、その場にうずくまったまま微動だにしなかった。

 俺は一旦ナターシャを放置すると、周囲の死体を素早く探り、役立てるものがないかどうかを調べはじめた。

 バンディットの死体の脇に転がっていた、比較的状態の良いVz58アサルト・ライフルを肩にかけ、死体が着ていた服のあちこちのポケットに突っ込まれていた予備マガジンを掴んで脚のダンプ・ポーチに放り込む。

 スーツの男に駆け寄り、彼が握っていたピストルをどうにかもぎ取ると(死体が握っている銃を奪うのはなにかと難しい、死後硬直がはじまって時間が経つとなおさらだ)、弾倉を抜いて装弾を確認した。装填されていたのは明らかに普通のものとは違う、先端が尖っている黒塗りされた弾頭。ロシア軍用の7H31鉄鋼弾。

『まったく、こいつに撃たれていたら間違いなくお陀仏だったな。まあ、こいつは取っておけば高い値段がつくだろう。こいつで商売ができるまで生きていられたら、の話だがね』

 どちらかというと銃よりも弾のほうがレアだな、などと日本語でつぶやく俺をナターシャが驚いたような目で見つめていたが、そのときはまだ、俺にはその理由がわかっていなかった。

 ふたたびナターシャに向き直った俺は、ナターシャにVz58アサルト・ライフルを渡し、ふたたびロシア語で言った。

「こいつは使えるか?とりあえずここにいるとヤバイ、銃声を聞きつけて厄介な連中が出てくるかもしれないし、血の匂いを嗅ぎつけたミュータントが大挙して押し寄せてくるかもしれない。死にたくなければ…」

 俺についてこい、そう言おうとした矢先、ナターシャの構えたVz58の銃口が俺の鼻先に突きつけられた。

『ちっ、ちっ、近寄らないでくださいっ、来ないでっ…来るなぁ、バケモノぉぉぉ!』

 すっかり恐慌をきたしたナターシャの口から飛び出したのは、これ以上ないほど流暢な、ネイティヴそのものの日本語だった。

 意想外の行動に俺は眉をしかめる。もちろん助けた相手に銃口を向けられたショックもあるが、たしかに俺の外見は少女から見れば怪しいものに違いなかったから(フードを目深に被ったガスマスク男など、スプラッター映画の怪物そのものじゃないか)、まあ心情を察することはできる。日本語を喋ったのも意外だったが、それはこの危機的状況下で驚くには値しない。

 もっとも驚いたのは、ナターシャがアサルト・ライフルのストックを肩の上に乗せて構えていることだった。

 だいぶ昔の話になるが、俺がまだ日本にいた頃、M4カービンの電動ガンを幾人かの女性に持たせてみたところ、ほぼ例外なくこの構えをしたという統計が取れている。

『…ちょろいもんだぜ、てか。俺の顔はキレイでもなんでもねぇが、吹っ飛ばすのは勘弁して欲しいもんだな』

 拗ねたようにそう言いながら、俺はナターシャの手からひょいとVz58を取り上げる。

 面喰らったまま硬直しているナターシャの手に、スーツの男が使っていたピストルを握らせると、俺はおおげさにため息をついてみせてから、ぽつりとつぶやいた。日本語で。

『やっぱりお前はこいつにしとけ。どうせ当たらないだろうから、撃つのは拳が届くような距離になってからでいい。しっかしまあ、どうして女ってのはこう、アレな銃の構えかたをすんのかね…』

 銃を向けられたにしては、あまりに見当違いな理由で嘆く俺の姿を見て、ナターシャは警戒を解いたらしい。それ以上に、銃口を向けてきた相手にためらいもせず代わりの銃を寄越す俺の奇特なメンタリティが気に入ったのかもしれなかった。

 わけがわからないながらも、というか、わけがわからないのは俺もナターシャもおなじなんだが、ともかく誰にも見つからないようにガーベッジ地区を横断し(何度も言うようだが、女連れでゾーンを歩くなど、味方に見つかってもヤバイくらいの厄ネタだ)、地下の掩蔽壕を利用した隠れ家に到着した俺たちはようやく一息つくことができた、というわけだ。

 そこから現在に至るまでの、ナターシャとの関係はスムーズに…というわけにはもちろんいかなかったが、それでもいまはどうにか、仲良くやっている。ナターシャの正体が周囲にばれるようなこともない。

 …実は数人ほど、彼女の正体に気がついているヤツも、いないわけじゃない。相手はそれなりに相互の信頼関係を築いているやつらばかりだから、小額の口止め料を払ったり、たまに仕事を安請負するだけで黙っててくれるが…ちくしょう。

『ハァ』

『どうしたの、ため息?』

 過去の思い出に浸っていた俺を、大きなブルーの瞳がじっと見つめていた。ナターシャ。

『起きてたのか』

『いろんな顔してたよ?』

『ちょっと考えごとを、な。ちなみに俺はどんな顔してたって?』

『なんて言ったらいいのかわからないけど、全部ヘンな顔』

『このやろー。ヘンな顔で悪かったなァ』

 こいつ、寝惚けてるのか?

 毒づく俺の顔に、ナターシャがそっと唇を近づけてきた。一度くっつき、そして離れた二人の唇の間から、さっきのとは違う種類のため息が漏れる。

 ナターシャは優しく俺の頬を撫でながら、柔らかな笑みを浮かべた。

『私は好きだよ、この顔。ヘンだけど』

『だからヘンなのは余計だって。事実だからダブルで傷つくんだってば』

『個性だよ。こせー、こせー』

 普段の丁寧口調から遠くかけ離れたナターシャの甘ったるい声音に、俺の脳味噌はどうにかなってしまいそうだった。やはり、彼女はまだ寝惚けているに違いない。

 つい二、三ヶ月前までは醜く変形した俺の顔を怖がっていて、ガスマスクを装着しているときはともかく素顔は絶対に見ようとしなかったくせに、いまでは平気でべたべた触ってくる。これが慣れというやつなのか。「愛の成せる業」なんていう言葉が俺に死ぬほど似合わないのはわかっている、もちろん。

 

 

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『ハァ。狙撃の訓練、ですか』

 粗悪な網張りのベッドの上でしばらくいちゃついてから、着替えて朝食を摂っていたときのことだ。

 さっきまでの甘ったれた態度がウソのように、ナターシャは愛想のない吊り上がった目つきでこちらを見つめながら、抑揚のない丁寧口調で俺に言葉を返してきた。

『標準的な火器の扱いもずいぶん手馴れてきたし、そろそろ教えてもいいと思ってな。まぁ、俺もあまり得意なほうじゃないが』

 湿気ているうえにカビくさいクラッカーに、プラスチック製のスプーンでレバーペーストを塗ったくりながら、俺はまったく世間話をするのとおなじ要領で言った。

『こいつを食い終わって、しばらくしたら出かけよう。以前、俺がこしらえた簡易射撃練習場がある。まだ残っていたら、の話だけどな』

『…食べ終わったら、ですか』

『あまり食が進んでないようだな?』

 これを食べきらなきゃならないのか、といった表情でクラッカーを見つめるナターシャが可笑しくて、俺はつい吹き出してしまった。

 「クックックッ」と笑い声を上げる俺の態度が気に食わなかったのか、ナターシャはこちらを「じろり」と睨みつけると、空き缶に淹れた粉末ジュースをぐいと飲み干し、そしてむせた。

『ぶえっ!?……ぐぅ、けほっ。けほっ』

『あー。やっぱりマズイか?それ…まあ、アメリカのCレーションに付属してた粉末レモネードよりはマシだと思うぜ。なんせ、飯盒を磨くときの研磨剤がわりに最適、ってのが当時の評価だったらしいからな』

『Cレーションって、第二次大戦のときのじゃないですか。これは曲がりなりにも現用のレーションでしょう?比べないでくださいよ』

『現用、つっても一世代前の型落ちだけどな』

 そんなふうにナターシャを諌めながら、俺も粉末ジュース入りの缶に口をつけた。鼻をつんざく刺激に思わず顔をしかめる。これが経年劣化によるものなのか、それとも地の味なのかはどうにも判断し難い。

 いま俺たちが食べているのは、ウクライナ軍で用いられていたレーション(軍用糧食)だ。ロシア軍のIRP−Bと構成こそ似ているが、中身はまったくの劣化コピーと言って差し障りないだろう。と思う。

 まず根本的な問題として、パッケージングの際の不具合により、かなりの確率で中身の個包装が破損しているという点が挙げられる。おかげで長期保存を想定した戦闘糧食にしては有り得ない劣化の仕方をする。というか、こんな致命的な不具合をすぐに改良できなかったウクライナ軍って無能なんだろうか…

 一日分の食料が入ったプラスチック製のトレイは、三食分にわけて仕切りが設けられているが、ロシア軍用のが四角く区切られているのに対し、ウクライナ軍用のはなぜか二等辺三角形に区切られている。そのせいでおなじ面積を使っているにも関わらず、ウクライナ軍用のは妙に収納がいびつで、無駄が多い。

 ウクライナ軍用のレーションが、先発のロシア軍用レーションを参考に作られたことを疑う余地はないが、独自性を出そうとして手を加えた部分がことごとく失敗しているように見えるのはなぜだろう。

『まずいです。まずすぎます。このまずさはまさにロシア革命級』

『仕方ないだろ、安かったんだよ…なんでも、ゾーン発生初期に調査に入ったウクライナ軍の偵察部隊が放棄した仮設基地に、大量に保管されてたんだと。最近、ストーカーが見つけたそいつをトレーダーが買い取ったらしい』

『二度目の原発事故が起きたのって、2006年ですよね?レーションの保存期間を考えると…うぅ、あまり考えたくないなあ』

『ま、一般的なイメージよりもずっと賞味期限が短いからな、レーションってやつは。モノにもよるけど。ちなみにこいつの値段が安かったのは、大量の仕入れがあったことはもちろん、ウクライナ軍のレーションの悪名高さはストーカーの間でも折り紙つきだからだ』

『そんなもの買わないでくださいよ!』

『高カロリー食は貴重なんだよ。いちおうウクライナの気候に合わせて作られてるから、ある意味じゃゾーンでの食事にもっとも適していると言えなくもない』

『…ハァ、日本が恋しい……』

 ナターシャは眉をハの字に曲げて嘆くと、袋入りのフルーツ・ジャムをクラッカーに塗ってポソポソと食べはじめた。

 レーションは朝用、昼用、夜用と分けてトレイに収納されているが、朝食がいちばん重いというロシア式の食事バランスに、根っからの日本人体質である俺とナターシャは馴染めず、けっきょくトレイからすべての品目を取り出して勝手に構成を入れ替えてしまった。

 なにより軍人ではない俺たちが、律儀にメニュー表に記載された順番通りに食べる必要はない。

 

 

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 四苦八苦しながら食事を終え、食休みついでに出かけるための準備をはじめる。

 バックパックには一日の行動に最低限必要なものだけを詰め、なるべく軽く済むようにする。軍隊式にギリギリまで詰め込むストーカーも多いが、俺に言わせれば、緊急事態に備えて常に自分とおなじ体重の荷物を持ち歩くなんてのはナンセンスだ。

 一日仕事なら食料はせいぜい一日分あれば事足りるし、なんなら一食分だって構わない。着替えも必要ない。不測の事態が起きてすぐに帰れなくなる可能性があるとしても、重い荷物を抱えて余計なカロリーを消費することを考えれば悪手とは言い切れない。それに有事の際に手持ちが少なくとも、工夫の仕様は幾らでもあるのだから。

 軍隊と違って、基地に帰れば物資が補給できるわけでもないから、節制は延命にも繋がる。たまに死に直結することもあるが、そのときはそのときだ。

『準備できたか?』

『たぶん』

 ドラグノフ狙撃銃を背負い、小型のVz61サブマシンガンを手にしたナターシャが、曖昧な返事を寄越す。

 些細な質問でさえ「イエス/ノー」以外で返事をするのは日本人くらいだ。俺は苦笑すると、地上へ向かうための出口に張ってある手榴弾よけの網を取り外し、トラップワイヤー(わな線)を慎重に避けはじめた。

 外敵の侵入を防ぐため、地下掩蔽壕へと続く入り口には西側のクレイモア地雷を山のように仕掛けてある。こいつは以前、出かけている最中に何者かに隠れ家を荒らされ、銃火器や生活用品などを根こそぎかっぱらわれて以来の習慣だ。攻撃方向を任意に変えられる指向性地雷だから、爆発しても掩蔽壕の内部まで被害は及ばない。

 仕掛けはじめた当初は出入りのたびにワイヤーを外していたが、安全に通れるのはいいものの手間がかかりすぎ、また、わな線の脱着をするたびに発火装置の部品がへたれることがわかってから、いまは危険を承知でわな線を張ったまま通行している。

『そういえば、トラップを解除している最中にミュータントに襲われそうになったことがあるな』

『実際に襲われなくてなによりですよ』

『まったくだ。わな線から手を離して地雷で吹っ飛ばされるか、生きたままミュータントに食われるかの二択だったからからな』

 そんな話をしながら入り口のカモフラージュを外した俺は、ナターシャを入り口ちかくで待機させたまま周辺を警戒した。万が一にでも待ち伏せされたときのことを考慮して、である。

 とりあえず不審な点がないことを確認した俺はナターシャを連れ出すと、アサルト・ベストのポケットからベアー型アノマリー探知機を取り出し、金メッキの施されたジャックに片耳用のモノラル式イヤホンのプラグを刺した。

 アノマリー探知機はゾーンでしばしば発生する空間異常、通称<アノマリー>の位置を検知してくれるポケットサイズの機械で、あらゆるストーカーにとっての生命線だ。電子音と、その周波数…つまり音量の大きさでアノマリーの位置を知らせてくれるが、そのときの音が独特で、ややもすればストーカーを襲撃して生計を立てているバンディットや、耳の良いミュータントに自分の位置を知らせかねない。

 そんなわけで俺は知り合いのメカニックに依頼してスピーカーを外してもらい、回路に手を加えてイヤホン式に改造してもらったのだ。スピーカーを外したのは誤作動や手違いで音を鳴らしてしまうことを恐れたからだが、そのせいでイヤホンがなければ役に立たなくなってしまったのは言うまでもない。

『今日もゾーンは晴天です、っと。特に異常はなしか』

 ひとまず周囲に空間異常が発生していないことを確認し、いったんアノマリー探知機をしまってから、サイドポーチに入れてあるPDAに手を伸ばした。

 PDA(携帯情報端末)もアノマリー探知機とおなじくストーカーの必需品で、ゾーンでは広く普及しているガジェットの一つだ。中身は使用者によって千差万別だが、通信機能やGPSはたいてい誰でも入れているし、個人情報やゾーンにまつわる機密情報、あるいは専門的なソフトウェアのデータを格納している者もいる。もちろん、そういったものは他人が容易に閲覧できないよう、セキュリティがかけられているのが常だ。

 最近では金銭のやり取りも現金ではなく、電子マネーをPDA上で扱うケースが増えてきたらしい…とはいえ、俺はそこまで機械に頼る気にはなれない。まだアナログが主流だというのももちろんあるし、金のやり取りをするのにモニター上で数値が動くだけという味気なさがどうにも気に入らないという、個人的嗜好の問題もある。

 俺はPDAのモニターに周辺の地図を表示させると、ナターシャに見せた。

『いいか、ここが俺たちがいる場所。標的はこの場所にあって、俺たちはこの位置から…』

 手振りを加えながら、説明していく。

 俺とナターシャが根城にしている地下掩蔽壕は、ガーベッジ地区の北北東にある丘のちょうど影にあたる部分で、ストーカーが普段利用する進行ルートからは外れているため、他人からは見つかりにくい立地になっている。

 付近に高濃度放射線地帯やアノマリー発生ポイントがあり、それらの存在を知らない者にとっては近寄り難い場所であるのも好都合だ。それに、わざわざ危険を犯して来たところで、なにがあるわけでもない。つまりアマチュアもヴェテランもまず近づかない、ということだ。

 …たまに、見当はずれな宝探しに来たマヌケの死体が転がっていることも、なくはないが。

『射撃場はここから東へ3kmほど進んだ場所にある。森を抜けることになるが、そこそこ危険な場所だから、俺の背中から離れるなよ』

『…わかりました』

 危険な場所、と聞いて、「ノーと言えればどんなにいいか」という顔つきでナターシャが答えた。そうしないのは、ゾーンに「危険ではない場所」など存在しないことを充分に理解しているからだ。

 たとえば舗装された道路を歩いているとき、となりにいた仲間の身体が突然宙に舞い上げられ、ばらばらに四散する。たとえば食事をともにしていた友人がなんの前触れもなく血を吐き、スープ皿に顔を突っ込んで絶死していたりする。たとえば人がたくさんいる集落で眠った翌朝、自分以外の人間の首がことごとく持ち去られていたりする。

 そういう経験をすれば、誰だってこのゾーンに安全な場所などないと思い込むようになる。

 斯様に、ゾーンにはろくでもない神秘が山のように転がっている。いちいち過敏に反応していては、正常な脳味噌が幾つあっても足りなくなってしまう。ちょっと感覚が鈍いくらいのほうが丁度良い。ここでは「普通の世界の常識」など通用しないのだから。

『それじゃあ、行こうか』

 そう言ってナターシャの肩を叩くと、俺はカラシニコフのグリップを握り、歩きはじめた。

 

 

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 距離だけ見ればそれほど遠くはなかったはずだが、たっぷり警戒しながら歩いたからか、射撃場に着いたときには太陽が真上に昇っていた。

『おつかれさん。ひとまず休憩にするかい?』

『いえ、すぐに訓練をはじめましょう。実戦じゃあ、いつも万全のコンディションで臨めるわけじゃないんでしょう?』

『生意気言うんじゃないよ。いろはも知らないうちから、そんなシミュレーションをする必要なんかない。それに、脳に酸素が足りてない状態で効率よく学習できるなんて話、俺は知らんぞ』

『むぅ…』

 肩を上下させながら強がりを言うナターシャを、俺は軽く諌めた。

『ナターシャが頑張り屋さんなのはよく知ってる。だけど、ナターシャの場合はそれが裏目に出やすい。もっと気楽にかまえてていいんだぜ』

『…わたし、はやくあなたの役に立てるようになりたいです。なんだかんだ言って、いまのところ、まだ子ども扱いじゃないですか。いつまでもあなたにベビーシッターの真似事なんか、させられませんし』

 ぷう、と頬を膨らませ、ナターシャが不機嫌そうに言う。

 こいつ、こんなこと考えてたのか…過保護かもしれないという自覚はあったが、ナターシャ自身がそのことに不服だったとまでは考えたことがなかった。

 俺は苦笑しながら、ナターシャの髪をくしゃくしゃと撫でてやる。

『まったく、なあ。なに焦ってんだよ?明日にでも死ぬってわけじゃあるまいし…急いだって仕方ないだろうに』

『だーかーらー、子ども扱いしないでくださいってば!』

 髪を撫でる俺の手を、ナターシャが必死に遠ざけようとする。その仕草が可笑しくて、俺はまた笑ってしまった。

『本当はこうされるのが嬉しいくせに』

『殴りますよ』

『わかったわかった。わかったから銃口をこっちに向けるのはやめてくれ、鉛の弾丸のパンチとかマジ洒落になんねーから。ていうか、撃ち殺していいやつ以外に銃口を向けるなってさんざん言ってるだろ、トリガー・コントロールって大事だよ?』

『だからこうして銃を構えてるんじゃないですか』

『おっかねぇ。わかったから下ろせって、休憩にしようぜ』

 鮫のような目つきでVz61の銃口を向けてくるナターシャを、俺は軽い口調で流した。

 もちろんナターシャに撃つ気がないのはわかっている。気持ちの問題ではない、ちゃんとセイフティがかかっているのを確認しているという意味だ。

 たとえ遊びだろうとなんだろうと、発砲可能な状態の銃を他人に向けていたら、俺は問答無用でゲンコツを喰らわせていただろう。実際、そうやってナターシャを叱りつけたこともある。命に関わる問題だから、自然と態度も厳しいものになる。

 いくらゾーンでは人命が軽いとはいえ、不用意に蔑ろにしていい理由にはならない。軽い気持ちだろうとなんだろうと、予期せぬ誤射で仲間を殺してしまった不運なやつの話なんか、ゾーン内外でゴロゴロしている。そして、そういう事故を起こすやつは決まって「自分に限っては有り得ないと思っていた」と言うのだ。

 そんなわけで…銃の安全管理には最低限気を払うべき、というのが俺の持論だった。どれほどの熟練者であっても、「自分の指こそ安全装置の代わりだ」などと抜かすやつを、俺は信用しない。

 

 

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 軽食を取ってから、俺とナターシャは訓練の準備に入った。

『そうだな、まず基本的なところから。狙撃っていうのは特殊な技能だから、誰でもそうそう簡単に身につけられるもんじゃない。遠くに正確に当てるには、まず自分が扱う銃のことを知らないとな。というわけで…』

 いったん言葉を切ると、俺はナターシャの傍らに置かれている長大なスコープつきライフル銃を手に取った。

『今回の訓練で使うのはSVD、通称ドラグノフと呼ばれる銃だ。旧ソ連時代に軍が使っていたもので、ゾーンでもかなりの数を見かけることができる。大概の紛争地帯じゃ他国製のライセンス・コピー品が多いらしいが、ここじゃあ旧ソ連製のオリジナルのほうが普及してる。どのみち、オリジナルもコピーも操作性はそんなに変わらんから、とりあえずオリジナルの扱い方を知ってれば、突然コピー銃を手渡されたときも対応できるって寸法さ』

『えーと。銃の由来とか、雑学知識って頭に入れる必要ありますか?』

『知ってて損はないと思うが、興味もないのに無理して覚える必要はない…と、思うね。設計者が誰で、製造会社の名前はなんたらで、作動方式はどうたらこうたら…そういうマニアックな情報が役に立つのは、他人に知識をひけらかすときだけだ』

『でも、あなたは全部頭に入れてるんでしょう?』

『マニアだからな』

『はぁ…』

『まぁそいつは半分冗談だが、俺は銃器ディーラーの真似事もやってるから、顧客と円滑にビジネスを進めるために専門知識が必要になることもある。誰だって、知識がある人間の手にかかった銃のほうが安心して金を出せるというしな』

 本当のことを言うと、銃のメンテナンスをするのに作動機構くらいは知っておいたほうがいいのだが。銃って道具は案外デリケートな代物で、手入れを怠れば作動不良を起こす確率が跳ね上がる。戦闘中に銃が故障した、なんて話はまったく珍しくもない。

 とはいうものの、最初から言葉の洪水を浴びせてもナターシャを混乱させるだけだ。いまは射撃にだけ集中させればいいだろう。メンテナンスのやりかたを教えるのは帰ってからでもいい。

『それじゃあ、さっそく撃ってもらおうか。持ってみな』

『え、あ、はい…あ、わっ。重いですね、これ…』

 4.5kg近い重量のドラグノフ狙撃銃を手渡されたナターシャが、若干よろめいた。俺は不安になる…この先、ナターシャがゾーンで生き抜けるのかどうか。もたつく仕草を見ながら、「可愛いからいいや」などと思っては、いかんのだろーなあ。

『そいつはまだ銃が木と鉄で作られてた頃の遺物だ。あと、そいつは特別に銃身にオモリを入れてある』

『なんでわざわざ重くするんですか?ただでさえ重いのに』

『その銃、銃身が細長いだろ?撃ったときに、反動でかなり跳ね上がるんだよ』

『だからオモリを入れて跳ね上がりを抑えるわけですか』

『そういうことだ。当時、こいつを使ってた軍人はオモリの代わりに銃剣をぶら下げてたらしいがな。刃物は俺の趣味じゃないし、なまじっか銃本体が長いだけに、団体で行動してるときに扱いを誤ると大惨事になる』

『ふりむいた拍子に、となりにいた人を刺しちゃった、とかイヤですもんね』

 なるほど、とナターシャが頷く。

 もっとも、俺の考えが必ずしも正しいわけではない。ドラグノフ狙撃銃は長いから、着剣すれば槍みたいに扱えるという理由で銃剣を装着するストーカーもいる。以前知り合ったやつなんかは、「接近されたときに役立つから」という理由でライフルから拳銃に至るまで全部の武器に刃物を取り付けていた。

 考えとしてはわからないでもないが、俺は危機に陥った場合の対処法を用意するよりも、危機を回避するための立ち回りを重要視する。「接近された時点で手詰まり」という俺の持論は極論かもしれないが、性分だから仕方がない。

『外観からもわかるように、基本操作はカラシニコフ…AK系列とまったく同じだ。コッキング・ハンドルの操作、セイフティのポジション、エトセトラ』

『あのー、セレクターのポジションが二箇所しかありませんが』

『こいつをフル・オートで撃ちたいか?』

『あっ、えー、うん…そうですよね…』

 たぶんなにも考えずに質問したのだろうが、俺はナターシャの言葉に思わず苦笑してしまった。

 カラシニコフ・オートマチックのセレクターには通常、三つのポジションがある。セイフティ(安全)、セミ・オート(単発)、そしてフル・オート(連発)。ドラグノフ狙撃銃も作動機構が酷似しているとはいえ、狙撃用で、マガジンには弾が十発しか入らない。フル・オート機構がオミットされていると、すこし考えればわかりそうなものだ。

 ずいぶん間の抜けた質問をしたと自覚したのか、ナターシャが顔を赤くした。

『うぅ…』

『まあ、まあ。気にすんな。オマエのそーいうところ、好きだよ、俺は』

『茶化さないでくださいよぉ。それで、射撃姿勢は?』

『伏射で。一番安定する…そいつは二脚がないから大変だけどな。状況によっては立射や膝射を強いられるかもしれんが、いきなり応用をやる気はない』

 口を動かしながら、俺は伏せた状態で銃を構えるナターシャの姿勢を正してやる。

『スリングは腕に巻きつけて固定しておくといい。姿勢が安定する…利用できるものはなんでも利用するといい。外套があるならマット代わりに地面に敷くといい、地面に直に転がると身体が痛くなるし、無駄に疲れる。バックパックは土嚢の代用になるぞ』

『あ、は、はいっ』

 姿勢が安定したところで、ナターシャがスコープを覗く。

 しん、と周囲が静まり返り、しばらく俺もナターシャも黙ったまま、時間が過ぎた。

 しばらくして、ナターシャが口を開く。

『…あの』

『どうした?』

『これ、映画とかでよく見るスコープとぜんぜん、違うんですけど』

『そうそう、このスコープのレティクル(照準線)、ちょっと特殊なんだよ。狙いかたは後で教えてやる、とりあえず標的が見えるか?』

『あー、えー、ええ。木の棒の上に、リンゴが乗ってますね』

 おそらく、ナターシャがスコープ越しに覗いた視線の先には、リンゴを乗せた木の棒が二十本ほど並んでいるはずだ。

 現在地点から狙撃することを想定して、それぞれ50m、250m、500m、750mと間隔を置いて四、五本づつセットされている。した。大変だった…あえて何もない、誰も通らないような場所に設置したのだが、誰にも荒らされていないようで幸いだった。

 雨風でリンゴが落ちないように、上から釘を打ち込んである。とはいえ、ここまで完全に状態を保っていたのは俺にとっても意外だった。

『リンゴ、もったいないなぁ。ここに来てからフルーツとか、全然食べてないですし。あれを撃たなきゃいけないんですか?』

『そうだ。ちなみにあれを置いたのは半年前だ、つまりどういうことかわかるか?』

『もう腐ってる?』

『違う。よく見ろよ…色も形も綺麗なままだろう?虫もたかってない』

『…もしかして、放射能汚染!?』

 ナターシャが絶句する。

 驚きの声を上げるナターシャとは対照的に、俺は淡々と当時の思い出を語ってみせた。

『あれを見つけたのは横転したトラックから漏れてた廃液の中だった。近くに放射性物質入りのコンテナが散乱してたよ。そのときは科学者グループの護衛任務中で、防護服を着てたんだが…ガイガーカウンターの針が振り切れる寸前だった』

『な、なるほど…』

『微生物ですら寄りつかない、だから腐食もしない。青白く光ってないのが不思議なほどだ、ひょっとしたら夜中になると光るのかもしれないが。で、まだ食いたいと思うか?』

『いいえ、心置きなく撃てるようになりました』

『よし、それじゃあ狙いかたを教えてやる。まずスコープの左側を見てくれ、[1.7]って数字の書かれた下線と、左から右肩上がりに[10][8][6][4][2]と書かれた目盛りが見えるな?』

『はい、わかります』

『そいつは簡易距離計だ。[1.7]って数字は1.7m…当時ロシア軍で想定されてた、平均的な成人男性の身長だ。今回、リンゴを乗せてる木の棒の長さも1.7mに調整してる。で、標的の足元を下線部に合わせ、頭頂部をノの字の目盛りに合わせる。まず一番手前にある標的に合わせてみようか…どの数字に合った?』

『えーと、[2]の数字に合いました』

『ということは、ナターシャから標的までの距離は200m離れてる、ってことだ。スコープの中心、縦軸に[^]マークが並んでるだろ?そいつは距離計と連動してて、250m離れるごとにマーク一つ分だけ銃口を上げるんだ。銃弾ってのは真っ直ぐじゃなく、弧を描いて飛ぶ。距離が離れるとだんだん弾は下降していくわけだ』

『つまり、距離による弾丸の落下を補正するために目盛りを利用する?』

『そういうことだ。このシステムはよくできてるよ、使い慣れるとノーマルな十字線のレティクルじゃ物足りなくなる』

 まったくロシアらしい、ユニークな独自規格だと俺は思う。

 兵器の設計思想や運用など、ロシアはアメリカ他西側諸国とはまったく異なる視点を持っている。精度を維持しつつ標的に大ダメージを与えるAN−94の二点射システム、専用弾との併用により高い精度と消音性を両立させたヴィントレス狙撃銃などはその代表だ。

 ただ軍隊という巨大な組織において運用するシステムとしては、お世辞にも効率的とは言い難く、むしろ個性的なメリットは個人での運用において大きく発揮される。そういう点では、ここゾーンでロシア製の銃火器が重用されるのも頷けるというものだ。

『それじゃあ、早速撃ってみようか。幸い、今日は天気もいいし風もない。狙撃日和ってやつだ。まずは一番手前のを撃ってもらおう』

『はい』

 俺が双眼鏡で一帯の風景を望む傍ら、ナターシャがコッキング・ハンドルを引いて初弾を薬室に送り込んだ。

 ときおり周囲を警戒しつつ、50m先の標的を双眼鏡で捉えながら、俺はナターシャにアドバイスを与える。

『まず距離計を使え。標的まで200m以下なのがわかるだろう?その場合、中心のレティクルで狙いをつけるんだ』

『わかりました。撃ちます』

 ダン。

 宣言からほどなくしてナターシャがトリガーを引き、銃声とほぼ同時にリンゴがはじけ飛ぶ。

『…命中、だな』

 距離が近いとはいえ、初弾から当ててくるとは思わなかった俺は、若干驚きを隠せないまま言った。

 その後も、ナターシャは50mの距離にあるリンゴに一発も外さず全弾命中させる。

『やるじゃないか』

『近かったですから』

 俺の賛辞に、ナターシャは涼しい顔で答える。

 まさか俺が銃を撃ちはじめた当初は、50m先の標的でさえ当てるのに一苦労していた、などとは思ってもいないのだろう。

『じゃあ次、250m先の標的を狙ってみようか』

『わかりました。マーク一つ分だけ銃口を上げるんでしたよね』

 そう言って、ナターシャがふたたび銃を構えなおす。

 今度はそうそう簡単には当てられないだろう…そんな俺の内心を嘲笑うかのように、250m先のリンゴは銃声とともに砕け散った。

『マジか』

『どうしました?』

 教えられた通りに撃ったら当たった、それだけのことだ…そんな表情で見返してくるナターシャに、俺は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 スコープ射撃っていうのは、標的にレティクルを合わせて撃てば当たる、というほど単純な代物ではない。本来は。なぜなら、「弾は狙った通りには飛ばない」からである。

 距離、天候、気圧による弾道の変化。呼吸による揺れ、筋肉の収縮など、あらゆる要素により、一弾はときとして気まぐれにその進行方向を変える。狙撃を成功させるには、たんにテキストを頭に詰め込むだけではなく、あらゆる不確定要素を捻じ伏せるほどの、ある種特別な「カン」のようなものが必要なのだ。

 俺にはその「狙撃のカン」というやつが絶望的に欠けているらしく、狙った場所に当たらない、狙い通りに撃ったはずなのに弾が逸れる、といったことが頻繁に起きる。理屈を頭に叩き込み、ギリギリまで接敵してから攻撃するなどの工夫でようやく一人前らしく活動できるという体たらくだ。

 それなのに、ナターシャははじめてのスコープ射撃で難なく標的を撃ち抜いていく。

 やはり彼女は俺なんかよりも、遥かに才能に恵まれているのではないかという確信が俺の中で強くなっていく。これで理屈さえ頭に入れば、俺など足元にも及ばないほどの優秀な射手になれるだろう。

 

 

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『うーん、やっぱり当たりませんね…』

 しばらくして。

 幾度目かのマガジン交換のあと、ナターシャは不満げな顔でつぶやいた。

 さすがに500mを越えたあたりから弾が当たらなくなってきたが、そもそも500mなんて距離はそうそう誰にでも命中させられる距離ではない。経験の浅い射手なら尚更だ。

『そろそろ日が落ちてきたし、今日はこのへんにしておくか。帰ったら通常分解とメンテナンスの練習をするぞ』

『むぅ…』

 心が折られかけた俺の言葉を耳にして、まだ撃ち足りないふうのナターシャが低い声で頷いた。

 とりあえずアクシデントやトラブルに見舞われることもなく(銃声に釣られて良くないものが寄ってくることもある)、スムーズに訓練が終了したことに安堵した俺たちが撤収準備をはじめたころ、PDAが個人用の通信を受信した。

[[こちらフリーダムのチェコフだ。ネームレス、いま話せるか?]]

「なんだ?これから帰るところなんだが」

[[ちょっとした仕事を頼みたい。クソどもを狩るのに狙撃チームを組んでるところだ。おまえも加わらないか…ダークバレーのフリーダム基地に寄ってほしい。いまどこにいる?]]

 俺と、となりで会話を聞いていたナターシャが、互いに顔を見合わせた。

 フリーダムを抜けてフリーのストーカーになってから久しい俺だが、だからといってフリーダムと完全に縁を切ったわけじゃない。たまにこうやって、臨時の仕事を依頼されることもある。

 ここからダークバレーのフリーダム基地からはそう遠くない。そして狙撃に使えるハードウェアはいまちょうど手にしているところだ。

『…行きますか?』

『大丈夫か?あの一帯はけっこう危険なんだ…夜中まで神経張って歩くことになるぞ』

『でも帰ってからだと相当予定が遅れますよね。わたしは大丈夫ですから、最終的な判断はあなたが下してください。こういうときは経験豊富な人間に従うのが最善策だと思いますし』

『経験っつっても万能じゃないがなァ。あと、そこは「個人的に信頼してる」って言ってくれると嬉しいかな。まあいいか、いざとなれば俺がオマエを守ってやればいいだけの話だもんな。行くか』

『またそうやって恥ずかしい台詞を平気で口にする…』

『…恥ずかしい…?なにが?』

『気にしないでください。こっちの話です』

 顔を真っ赤にして俯くナターシャに、俺は怪訝な表情を向ける。

 いや、本当はわかってるんだが。照れるナターシャを見るのは楽しいし、クサい台詞は俺の性分だ。べつに狙ってやってるわけでも、わざとやってるわけでもない。根がロマンチストだから、と言って、信じてもらえるとも、まあ思わないけどな。

 ぼんやりナターシャを見つめる俺を叱責するように、PDAからボリュームを増した声が発信されてきた。

[[どうしたネームレス、聞こえてるか?]]

「ああ聞いてるよ、いまちょうど近くにいるからそっちに行く。深夜までには着くだろう…食料の手持ちが少ないから、豪華なメシを用意しておいてくれると助かる」

[[わかった。といっても、大したものはないがな。相変わらず食料をほとんど持ち歩かないのか。粗食主義を気取るくらいなら、他人にメシをたかるのもやめろよ]]

「うるさいよ」

 悪態をついてから、俺は交信を打ち切った。

 

 

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  [ 続く ]