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「グレアム尊士の好き勝手放題」

      

 

      

『ストーカー プロジェクト・ケルベロス』

第一話 「2012年12月28日 コルドン地区」

 

 

 

 

 

**      **      **      **      **      **

 

 

「…ソバ…だって?」

 目の前にいる男の渋い顔に、シワが寄った。

 2012年12月28日。

 コルドン地区南西、地下壕に設けられた対爆扉の奥で、俺は頭髪を刈り上げた小太りの中年男に注文をつけていた。いまにして思えば、それは無謀な願いだったのかもしれない。

「なあ、わからないか?こう、ソバの実が原料の麺類で、麺つゆに浸して食べる、こう…」

「極東の島国(ローカル)の料理のことなんぞ、俺が知るか。おまえさんにゃあ、俺がなにに見えるんだ?そりゃあ食品も扱っちゃあいるが、ここは輸入雑貨店じゃねえんだぞ?」

 だいたい麺つゆってなんだ、とでも言いたげな表情で、小太りの男…シドロビッチが眉をひそめた。

 一方の俺はといえば、とにかく泣き落としてでも頼みを聞き入れてもらうことしか頭になかった。傍らで待機する小柄な少女が、消音器つきのサブマシンガンを手に無言のまま、ときおり外を警戒している。

 役人に横車を通すような俺とシドロビッチのやり取りが、かれこれ30分は続いていた。

「金次第でなんでも揃うんじゃなかったのか?」

「だとしてもな。いまから仕入れるんじゃ、1ヶ月はかかるぞ」

「それじゃあ遅いんだよ。なんとかならないか?」

「ならんね。第一、そんなもん仕入れたところでおまえさんくらいしか買わんし、手間賃やら税関で上乗せされる分やらでかなり割高になるぞ?それでもいいのか?」

 その言葉を聞いた俺は答えるかわりに両手の拳をぐっと握り締め、机の上に力なく振り降ろした。大きなため息とともに、肩をがっくりと落とす。

『やっぱり、無理、だよ。諦めよう』

 俺の傍らにぴったりと寄り添う金髪碧眼の少女…ナターシャ・クロートキィは、外見にまったく似合わぬ流暢な日本語で小さく呟いた。

 シドロビッチのロシア語を理解できたわけではないだろうが、両者のやりとりからおおよその内容は把握できたのだろう。なんとはなしに振り向いた俺の顔を覗き込むその表情には、「もういい、よく頑張った」でもと言いたげな、哀れみが込められているように見える。

「カップヌードルなら、あるんだが…」

「麺類ならなんでもいいってわけじゃあ、ないんだけどな」

 俺たちの気を知ってか知らずか、シドロビッチは棚から白基調に赤字でロゴが描かれたカップを取り出した。それは韓国製のドーシラクやサハリン製のラミェーンなどではなく、れっきとした日本製のカップヌードルだった。純正品かどうかは、日本人である俺が一番よくわかる。

 ソバの代用にこそならないが、得体の知れないミュータントの肉や放出品の軍用食、ラベルが剥がれて製造年月日が不明な缶詰などと比べれば、遥かに食欲をそそる品物であるのも確かだった。

 もう一度だけため息をつくと、俺は顔を上げて言った。

「わかったよ、それで手を打とう。幾らだ?」

「1個250ルーブル」

「…高ぇ。1個1000円近いじゃないか」

 ビッグサイズでもないのに、と、これは日本語で漏らす。

 シドロビッチは悪びれるふうでもなく、鼻を鳴らして椅子にふんぞり返った。

「〈ゾーン〉にこういうものを持ち込むのがどれだけ大変か、未だに理解していないみたいだな?こっちだって暴利を貪りたいから割高な値段設定にしてるわけじゃない、幾つもの業者を通し、検問所の係官や地区担当の軍人に賄賂を渡してだな…」

「わかった、わかった。2個貰おう、そのかわり小額でいいからまからんかな?」

「現金値引きはせん、と毎回言ってるだろう。軍用の9ミリ弾を10発つけてやるから、それで満足してくれ」

「9ミリ弾、ねえ。ロシア製か?」

「西側のM882だ。銃を選ぶぞ、気をつけろよ」

「心得た」

 NATO仕様の軍用弾(いわゆる、ヨーロッパ仕様と呼ばれているやつ)は、民間で販売されているものよりも強力に(火薬量が多く)設定されている。

 たとえばこいつを米軍御用達のベレッタM9なんかに使うと、たかが3000発かそこいらの実射で銃が破損したりするわけだ(アルミ製のオープントップ・スライドなんぞ、見るからに軍用に向かないデザインの銃を正式採用する米軍首脳部の脳味噌は豆腐かなにかでできてるんじゃないだろうか)。

 そんなことを考えながら、俺はなけなしの50ルーブル紙幣10枚と引き換えに、机の上に無造作に置かれた2個のカップヌードルと、10発の9×19mm弾を引っ掴み、ナターシャを連れて地下壕を後にした。

 

 

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 この忌まわしき呪われた地…<ゾーン>の来歴は、6年前の2006年にまでさかのぼる。そもそもの原因は4月13日、ウクライナのチェルノブイリ原発で2度目の爆発事故が起きたのがすべての発端だった。

 1986年に炉心溶融を起こし、事故後に放射線物質の飛散を防ぐため大量のコンクリートで塗り固められた4号炉…通称<石棺>を中心に起きた2度目の事故は、世界中を震撼させた。誰もが20年前の惨劇の再来を予想したが、2度目の事故がもたらした脅威は専門家の見立てたいかなる最悪な事態の想定をも凌駕していた。

 そう、二度目の原発事故は、「たんなる」放射性物質の飛散だけでは終わらなかったのだ。

 原因不明の爆発事故と同時に観測された超高濃度の放射線、次々と導入されては近郊に破棄される車両、航空機。想定以上の高濃度放射線に耐え切れず倒れていく現場作業員。事故の悲惨さを訴えるニュースはしかし、次第にもっと「異質なもの」を捉えるようになる。

 歪んだ空間、火を吹く地面、隆起を繰り返す酸の海。醜く変貌し凶暴化した野生動物、動く死体、得体の知れない怪物。

 それらのゴシップ記事を、最初は誰も信じようとはしなかった。

 しかしチェルノブイリ原発の周囲30キロを軍が封鎖したこと、許可を得ていない人物の侵入を禁じる法が制定されたこと、不法侵入者は即座に射殺される旨が通知されるにつれ、次第に誰もが今回の件を「ただの原発事故ではない」と思うようになった。

 ウクライナ政府は、チェルノブイリ周辺の封鎖区域をゾーンと命名した。

 まるで地上に出現した地獄の釜のような場所に、防備を固めた研究員たちが調査に入ったとき、人類はゾーンの異なる一面を垣間見ることになる。そしてそれが、ゾーンを巡る情勢の転機でもあった。

 <アーティファクト>。

 ゾーンで発見された謎の物質を、研究員たちはそう名づけた。

 放射線の影響によって突然変異を起こした鉱石、植物、あるいは生体の一部。どれも一様に高濃度の放射線を放つそれらは、まるで地球上の物質とは思えない、特異な性質を持っていた。

 アーティファクトの持つ特質は、まるでゾーンに存在する具現化された悪意…崇高な学者どもが重力擬縮場と名づけたフィールド、運悪く迷い込んだ哀れな子羊を燃やしたり、ばらばらに引き裂いたりする非現実的なしかけ罠、通称<アノーマリー>と呼ばれるトラップの性質を凝縮したようなものだった。

 「それ」の効能の発見は偶然によるものだった。あるとき、凶暴化した野生動物…<ミュータント>に追われた科学者が夜通し走って仮設研究所に逃げ帰ったことがあった。普通の人間なら途中で疲労困憊してぶっ倒れるような距離を、だ。

 その研究者は青白く発光する石片のようなアーティファクトを所持していた。静電気を帯びたそれは身に着けることで所持者の体内の老廃物を除去し、強壮作用によって過度な運動をこなしても疲労を感じなくなる性質があることが確認された。後にそれは<スパークラー>と呼ばれるようになった。

 また、ゾーンの存在を危険視する過激派団体と、科学者を護衛する軍の派遣部隊との間で小競り合いが起きたとき、科学者の心臓に向けて放たれた弾丸が、有り得ない軌道で科学者の胴体から逸れたことがあった。そのとき科学者は<ジェリーフィッシュ>と呼ばれるアーティファクトを所持していた。

 のちに、ジェリーフィッシュは特殊な重力場を発生させる性質を持っており、それによって飛来した弾丸をはじき飛ばしたのだろう、ということが実験で確認された。

 これらの実例により、世界中の研究機関にとってアーティファクトは興味深い研究対象となり、またアーティファクトの存在が公になった直後から、多額の現金と引き換えにその多くが闇市場に流出した。

 貴重なアーティファクトを民間人や犯罪組織に横流ししていたのは現地に駐留するウクライナ軍人たちだったが、やがてアーティファクトによる一攫千金を夢見た密猟者たちが続々とゾーンに侵入し、国外へ持ち出すようになった。

 わざわざ危険なゾーンに足を踏み入れる者はいないだろうとタカをくくっていた駐留軍の対応は遅れ、気がついたときには既に多くの密猟者たちがゾーン各地に侵入していた。

 はじめは、ただたんに宝物を漁りにきたチンピラだと認識されていた密猟者たちだったが、ゾーンに蔓延する危険に真っ向から直面した彼らは、いつしか軍や研究機関よりも遥かにゾーンに関する知識を身につけるようになっていった。

 密猟者たちの持つ知識はやがて軍や研究機関の関心を惹くようになり、両者間は幾度か強力や衝突を繰り返したのち、密猟者たちは組織に依存しない独自のネットワークを構築しはじめる。

 さらに…ゾーンの存在を危険視し、ゾーンの脅威から人類を守るべく設立された自警組織<デューティ>、それとは真逆にゾーンの神秘性を世界中に広めるべく組織された無政府主義者のグループ<フリーダム>、そしてアーティファクトを発掘した密猟者を狙う武装強盗団<バンディット>など、さまざまな勢力がゾーンに集結し、一筋縄ではいかない派閥争いを繰り広げるようになった。

 そういった環境で危険を顧みず、命を賭してアーティファクトの発掘を試みる密猟者たちを、いつしか人は<ストーカー>…忍び寄る者、と呼ぶようになった。

 

 

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『そういえば、もうすぐ正月だな』

 ささやかなクリスマス・パーティを楽しんだ翌日、PDA(携帯情報端末)に表示されたカレンダーの日付を見つめながら、俺がなんとなく呟いた一言がすべてのはじまりだった。

 以前なら気にも留めなかった季節行事を、素直に楽しめるようになったのは一重にナターシャのおかげと言っていい。ナターシャに出会う前の俺なら、そもそも飲食物に余計な金をかけようとすら思わなかっただろう。

 換気口に煙が吸い込まれるさまを見つめながら、俺は茶葉から淹れた紅茶で満たされた缶に口をつけた。

『ここまでするなら、いっそ茶器が欲しいですね』

 ハンカチで即席のティーバッグをこしらえ、ヤカンに淹れた紅茶を空き缶に注ぎながら、ナターシャが言った。空き缶は軍用食が入っていたものの流用だ。

 俺は苦笑しながら、ゆらめく炎に目を移した。

『ゾーンにアンティークショップなんかないぞ?それに、高い金を払って買ったものが壊れても、面白くない』

『お茶は陶磁器で淹れたほうがずっと美味しいですよ?コーヒーもそうですけど』

『それじゃあ、今度廃墟を探索したときにでも探してみるか』

 俺がそう言うと、ナターシャは優しい笑みを浮かべた。

 それにしても、料理が得意なわけでもないのに、どうしてこう、茶の淹れ方にはこだわるのか…理解し難くはあったが、それに対して文句を言う気は毛頭なかった。おかげでこうして美味しい茶が飲めるのだ、もちろん、財布には痛くあったが。

 静かに紅茶の香りを楽しむナターシャを見つめ、俺はふと周囲に視線を走らせた。

 地面を掘って木の板や柱で支えただけの地下壕。薄暗くて埃っぽい空間には雑多な銃火器のパーツが積み重ねられており、家具といえば寝心地の悪い網張りの簡易ベッドがあるくらいだ。

 1年前なら…ゾーンに来る前なら、俺がこんな環境で生活していることなど、自分自身で想像もつかなかっただろう。まして、危険な生活ではあるが、ある程度は、そう、幸福も感じていることなど。

 失くした記憶もある程度は戻り、ネームレスと名づけられた俺が、片桐冬哉という名の日本人であったことを思い出してもなお、いまさらゾーンを去ることは考えられなかった。

 それはもちろん、ナターシャという伴侶を得たからというのもあるのだが…

『年越しソバ…』

『え?』

『年末といえば、年越しソバ、ですよね?』

 不意にナターシャの口から漏れた言葉に、俺は驚きを隠せないでいた。

『…マフィアのボスの娘も、年越しソバなんか食べてたんだなあ』

『娘というか、妾腹です、何度も言いましたけど。それに私の生活は、どちらかと言えば極めてまっとうな日本人と同等のものだったと、それも何度も言ったと思いますが』

『悪かった、冗談だよ。しかし年越しソバか…懐かしいな』

 紅茶に口をつけながら、俺はすでに遠い過去のものとなった日本での生活に思いを馳せた。

 普段はテレビを見ない俺ですら、年末は特番に釘付けになっていたものだ。もちろん紅白歌合戦など見やしない、俺が一年の締めに楽しめにしていたのは「絶対に笑ってはいけない〜」シリーズ。あれを見ないことには、俺の一年は終わらなかったものだ。

『デデーン。ナターシャ、アウトー』

『ぶっ!?』

 何気なく口をついて出た俺の言葉に、ナターシャが紅茶を吹いた。まるで笑いを堪えるかのように、肩を震わせている。

『…見てたんだ』

『えぇーっと、いえ、まあー、その…』

 あの番組の視聴が女の子のイメージにそぐわないからか、ナターシャは肯定とも否定とも取れぬ曖昧な返事をした。俺の言葉に反応した時点で、過去に視聴していたのは明白だったが。

 これ以上からかって機嫌を損ねられるのも面白くないので、俺は自分から話題を変えることにした。

『しかし年越しソバとはね。シドロビッチなら扱ってるかもしれないな』

『コルドン地区の<トレーダー>?』

『ああ。意想外に色んなものを扱ってるからな、あの豚親父』

 本人がいないのをいいことに、俺は蔑称をさらりと口にする。

 トレーダーとは、ゾーンで商取引を生業とする連中(あるいは、その派閥)の総称だ。トレーダーはいわば闇商人のような存在で、銃火器や食料品などの物資だけではなく、非合法活動に携わる者にとって実に有益な情報の数々も扱っていた。

 彼らはゾーンで活動するストーカーにとって必要不可欠な存在である一方、ゾーン内外のあらゆる勢力(それはもちろん、政府関係も含む)とコネクションを持っているため、ときにストーカーの脅威となり得ることもある。

 そういった優秀なトレーダーから特別な協力を得るのは、なかなかどうして、一筋縄ではいかない。右も左もわからない素人や、鉄砲玉と紙一重の頭の鈍いストーカーでは、適当に利用された挙句、使い捨てにされるのがオチだろう。

 シドロビッチはそういう、極めて老獪なトレーダーの一人だった。奴と取引をするには、細心の注意を要する。しかし、そうするだけの価値があることもまた、事実だった。

『ゾーンで年越しソバなんて、オツなもんじゃないか。な?』

『万能ネギ。エビ天。かきあげもいいですね』

 微笑みながら、ナターシャはゾーンにおいて最高レベルに入手困難な品のリストを挙げていく。

 紅茶を飲み終えた俺は、気を引き締めた表情で言った。

『よし、手に入れられるだけのものは手に入れる努力をしよう。そして、なんとしても年末年始を充実したものにするぞ』

『ここからコルドン地区まで往復、年が明けるまでに帰ってくるには、かなりの強行軍になりますよ』

 否定的なことを口にするナターシャ、しかしその表情に反意は微塵も浮かんではいない。

『なあに、どうにかなるって。こちとらベテランのストーカーなんだからな』

 そう言って、俺は傍らに積まれた銃火器の点検をはじめた。

 

 

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『やっぱり難しいもんだな』

 そして、現在。

 エビ天どころか、肝心のソバすら手に入らなかった俺の心は、冬のゾーンのように冷え切っていた。

 冬のゾーンの環境は苛酷だ。一面に雪が降り積もり、気温は最低でマイナス10度以下になる。また日中でも氷点下をキープし続け、最低限生き残るために防寒対策は必須となる。

 数年前、ゾーンへの出入りが比較的容易だった頃は、冬になるとゾーンからストーカーの姿が消えたという。活動するにはあまりに厳しい環境のため、冬までに蓄えた貯蓄を使って別の場所で過ごし、春になるとまたゾーンに戻っていくのだと。

 しかしストーカーの活動が目立ちはじめると軍の検問が強化され、ここ最近はおいそれとゾーンへの出入りができなくなった。そのためストーカーはわざわざ危険を犯してまで軍の検問を突破しようとはせず、冬もゾーンで過ごすようになっていった。

 一方で冬は軍の派遣するパトロール隊の活動が消極的になるため、軍の目を避けて行動するにはむしろ好都合だった。

 もちろん、尋常ではない寒さに視界の悪化、それにともなう危険回避の遅れなど、軍の存在を無視できるにしてもなお問題は余りある。

 結局、ラクして美味しい思いができることなど早々ない、ということだ。ソバ然り。

「フゥ」

 俺はため息をつくと、地下壕から出ると同時にガスマスクを装面した。ナターシャも俺にならってガスマスクを着け、銃の安全装置を確認する。

 シドロビッチの地下壕を出てすぐの場所に、ストーカーの溜まり場である新人キャンプがある。

 ゾーンに来たばかりで、まだ右も左もわからないストーカーはまずここ、コルドン地区の新人キャンプを拠点に活動することになる。ある程度経験を詰んだストーカーはもっと実入りの良い(そして、もっと過酷な)エリアに移動するため、この場所は顔の入れ替わりが激しく、常駐するストーカーはほとんどいない。

 PDAのIFF(敵味方識別装置)機能で俺の正体がある程度わかるからか、新人キャンプの面々は特に警戒することもなく俺を素通りさせる。ガスマスク姿でうろうろする輩など、もとよりゾーンでは珍しくもない。

 そんななか、てっきり顔見知りなどいないだろうと思っていた俺に、手を振る姿があった。

「あれは…」

 俺がガスマスク越しに注視するのとほぼ同時に、PDAがPM(個人通信)を受信した。

「よう、ネームレス。久しいな」

 OD色のストーカー・スーツに身を包んだ男が、俺に向かって話しかけてきた。PDA越しのノイズ交じりの音声と、当人の肉声がほぼ同時に聞こえてくる。

「こんな場所になんの用だ?」

「ここに用はない。シドロビッチの爺に所用があってね」

「そうか…しかし、元気そうじゃないか?小さい相棒はどうだ?」

「ああ。こいつも元気だよ」

 俺の言葉に促されるように、ナターシャが小さくお辞儀をした。

 目の前の男…ウルフは古参のストーカーで、もう何年もここ新人キャンプで新米ストーカーの面倒を見ている。ストーカーにも規律があり、人間としての最低限の尊厳を守る必要がある、というのが、ウルフの持論だった。

 新米ストーカーたちの保護者を自認するウルフは滅多に新人キャンプを離れないが、一度だけ、この場所を離れて軍倉庫地区に向かったのを見た記憶がある。入れ替わりに、ウルフの知人のファナティックという男が代理で新人の面倒を見ていたが、そのとき新人キャンプが所属不明の傭兵集団の襲撃を受け、一悶着があったはずだ。

「ところで、ファナティックは?」

「あいつはまた遠くへ行っちまったよ。いまはザトン地区か…ジュピター駅にでもいるんじゃないかな。ともかく、もうガキのお守りは御免だと抜かしてたよ」

 ウルフは苦笑した。

 かくいう俺も、ウルフには世話になったことがある。

 もっともそれは、俺がまだネームレスではなく、片桐冬哉だった頃の話だが。

 常時ガスマスクを装着している俺を、ウルフは片桐冬哉と認識できていないはずだ。

 なにより「あの事故」以来、俺は外見から声からすっかり変わってしまっている。顔を凝視して、ようやく判別できるかどうか、といったところだろう。もちろん「東洋人」という外見的特長を加味すれば、もうちょっとわかりやすいのだろうが。

 ここゾーンにおいて、過去を知られることで得することはほとんどない。

 ナターシャに関して言えば、背が低いこと、女声であることを加味して「まだ声変わりもしていないティーンエイジャー」だと俺は周囲に説明していた…もちろん、訊ねられたときだけだ。もっとも、ナターシャの素性を疑わないストーカーなど滅多にいないのだが。

 女子供が滅多に足を踏み入れないこの場所で、年頃の女であるというのは、それだけで面倒に巻き込まれる確率が跳ね上がる。

 雄餓鬼だとわかると、大抵のストーカーは興味を失くす。たまに世間話が好きなやつやら(あんたの息子かい?どうして子連れでゾーンなんかに)、変な趣味を持ったやつやら(金は払うから、一晩だけ貸してくれないか?)、妙な連中に絡まれることもあるが、そういった輩には速やかにその場から辞退して頂いている。

 ともあれ、頑なに素顔を見せることを拒否する俺たち2人を、しかしウルフが怪しむことはなかった。

 ゾーンにいる人間というのは、すねに傷を負った者たちばかりだ。それだけに、プライベートな事柄に関して必要以上に突っ込む詮索屋はほとんどいなかった。

「ところでネームレス、おまえに一つ、頼みがあるんだが」

「なんだ、報酬つきなら引き受けるぞ」

「チッ、ちゃっかりしてやがるな…まぁ、いい。おまえ、射撃は得意だったな?」

「ほどほどにな」

「謙遜なんかするな。その、ほどほどの腕を見込んで頼みたい。ちょいと新米たちに、銃の撃ち方をレクチャーしてやっちゃあくれないか?」

「ほう…?」

「報酬はウォッカ5瓶で」

「俺は酒は飲まない。現金で出せない理由でも?大口の仕事で軍倉庫基地にダイナマイト担いで行ったって、ファナティックから聞いたぞ」

「あの軽口め」

 ウルフが苦々しい表情を浮かべる。

 報酬に関しては当人の都合もあるのだろうが、俺にしたって、飲みもしない酒を渡されても仕方がない。取り引きに使うにしてもかさばるし、第一、俺のイメージに合わない。

 寒い土地柄か、気つけにウォッカを飲むのが当たり前な連中ばかりが集まるゾーンでアルコールの報酬が断られるとは思わなかったのだろう、ウルフはしばらく考えてから、再び口を開いた。

「どんな報酬なら満足できる?」

「あんたの得物はカスタム型のクリンコフだったな?持ち弾に余裕があるなら、そこから見繕ってくれてもいい」

「5.45×39mmか…7H22を3包でいいなら、なんとか」

「軍用の鉄鋼弾を180発ね。いい取り引きだ、乗ろう。もちろん、訓練に使う弾代はそっち持ちで」

「畜生め」

 悪態をつきながら、ウルフはドラム缶の焚き火を囲んでいるニュービーズ(新米たち)に向かって号令一下、集合をかけた。

 別にウルフに情を寄せる必要はない。新人教育係といったって、ボランティアではないのだ。俺に報酬を出してでもなお、十分な釣りがくるほどの金を新人たちから集めているはずだ。

 集まった新米たちの装備は雑多もいいところで、服装といえばなんの変哲もないカジュアルなジャケット、対放射線装備などまるで眼中にないやつも数人いる。武装は古式ゆかしいAK47、二連水平のBM16散弾銃を短く切り詰めたもの、果てはそいつの祖父が使っていたのではないかと疑えるSKSカービンまで、とにかくミリティア(民兵)もかくやといった風情だ。

 AKはともかくSKSの教練はちょっとした手間だな、などと思いながら、俺は新米ストーカーたちに話しかけた。

「今回、ウルフの紹介を受けてあんたがたの射撃訓練を監督することになった。俺の名前はネームレス、もちろん本名じゃない。そんなものは、このゾーンじゃ意味がない。由来なんか聞かないでくれ、たいして面白い話じゃないからな」

 適当な口上を並べながら、俺は新米たちの表情一つ一つを観察した。年齢も経験もまばら、しかし銃の持ち方を見るに、今回の生徒諸氏に兵役経験者はほとんどいないようだった。運の悪いことに。

 新米といったって、ここは軍隊じゃないし、ましてゾーンはマトモな人間がうろつく場所じゃない。新米ストーカーの面子はにきび面の若造から四十路を越えたオヤジまでと、じつに幅が広かった。それだけに、一概に素人と決めつけて接するわけにもいかない。相手の心象を害して背中を撃たれるのも面白くない。

 しかし、こちとらも元はジャパニーズ・営業マンだった過去がある。当たり障りのない接し方や、適当な褒め殺しなどはお手のものだ。

「さて、まずは銃器を扱うに際して、基本的なことを話しておこう。前置きしておくが、銃は誰にでも簡単に扱えるようにはできていない。適切な知識と正しい訓練、それだけが上達へのステップだ。独学でできることはたかが知れてるし、誤った運用は無用な事故を招く。特に、アーティファクトの発掘が本分であるストーカーにとって、銃というのは本来、自衛用の道具として以上の意味は持たない。まずはそのことを理解しておくこと、いいかな?」

 そこまで一気に言葉を吐き出し、一呼吸つく。

 生徒の顔を見ると、どいつもこいつも納得とはほど遠い表情を浮かべていた。皆一様に、はやくトリガーを引きたくてうずうずしている。まぁ、そりゃあ、そうだよな。

 俺は大きなため息を一つ、ついてから、言った。

「まあ、いいだろう。とりあえず撃ってみないことには納得できないだろうし、理屈に集中もできないだろうしな。テキストワークは、軽く実技講習をしてからでもいいだろう」

 

 

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 気色悪いくらいに澄み渡った青空の下、訓練キャンプでは間断ない銃声が鳴り響き続けていた。

「フロントサイト、フロントサイトだ!照星に焦点を合わせるんだ、標的に気を取られすぎるなよ。右肩を若干内向きにしろ、でないと反動で腕が持っていかれるぞ」

 生徒諸氏の背後をうろつきまわりながら、俺は激を飛ばし続ける。

 そのうち、フラストレーションが溜まっていたのか(それとも操作の不手際か)、AK47をフルオートで撃って仰向けにひっくりかえった新米ストーカーの姿を見て、俺は額に手を当てた。

 フルオートで撃つには反動が強すぎるのだ、AK47って銃は。大抵は銃口が明後日の方向に向いて、空を飛んでる鳥を落とすか、あるいは真横にいる仲間を撃ち殺すか。どちらにしろ、ロクな結果にはならない。

 改良型のAKMならまだしもだが……

「あーあ。最低限教えた通りにやってくれと言ったろう?立てるか」

 ばつの悪そうな表情を浮かべる、セリョーガという名の新人の肩を抱き起こしながら、俺は言葉を続けた。

「引き金に指がくっついたような感覚だったろう?何度も言うが、一発撃って当たらないやつが三十発撃ったって当たるもんか。今回は空に弾をばら撒いただけで済んだが、このテのミスで仲間を殺しちまったやつだっているんだ。AK47をフルオートでコントロールするのは極めて難しい…装弾数の多い単発式ライフルくらいに考えておけ。一発、一発を確実に当てるんだ、パワーは強いからそれで充分なはずだ」

 対人相手ならな…という言葉は、喉の奥に飲み込んでおくことにした。

 銃そのものの命中精度に関しては保存状態にもよるが、だいたいの銃撃戦が50メートル以内での接敵になるだろうから、きちんと撃てさえすればジャンクでも性能的には充分に足る。

 問題はソウドオフ(切り詰め)・ショットガンなんぞ持っている輩だが…

「脇を締めて腰だめで撃て、狙いなんかつけるだけ無駄だ。片手で撃とうなんて考えるなよ、メル・ギブソンだってブランク(空砲)じゃなく実包だったらあんなクールな顔のままでいられやしないんだ」

 もとが強盗御用達の改造品、それも威嚇用のアクセサリーみたいな代物だ。まともなアドバイスができるはずもない。そもそも撃ち合いに使えるような銃ではないのだから。

 はてさて、今日一日の訓練でどれだけのことが身につくやら…べつに、今回指導した生徒たちが不出来というわけではない。しかし、たった一日でいったいどれだけのことが教えられるというのだ?

 とはいうものの、俺はいつまでもこの場所に留まって新人研修に付き合うつもりはなかった。早ければ明朝にでも発つつもりだ、それに…あまり一つの場所に長居し続けると、ナターシャの正体を怪しまれる危険がある。

 当のナターシャはというと、ティムカと名乗る新米ストーカーが持っていたSKSカービン銃を試射していた。おおかた、意地の悪い新人に腕前の披露を強制させられたのだろうが(声変わりもしていないちびに銃が撃てるなど、誰が想像できる?)…ナターシャが撃った10発の弾丸は、30メートル先の標的にほどよく纏まっていた。なかなかどうして、はじめて撃った銃の成績にしては悪くない。

 銃に関する知識量は俺が圧倒しているが、潜在的な射撃センスはナターシャのほうが上なのではないかと思うことが度々ある。

 それにしてもあのSKS、着脱式のボックスマガジンを使用するカスタム型か。珍しいものを使用しているな、興味深い…などと考えていたところへ、ふと、硬質なノイズが俺の脳髄を直撃した。

 キイイィィィーーィィィイインン……

「これは…」

 この感覚。

 俺は咄嗟に周囲を見回したが、他の連中は何事もないかのように射撃を続けている。

 ナターシャも、ティムカとすっかり打ち解けた様子で話し合っているようだ(最低限のロシア語を、努めて低い声で…だが)。

 誰も警戒していない。する理由がないからだ。

 しかし俺にはわかる、以前何度も感じたことのある、この感覚。うなじのあたりがピリピリしはじめ、汗をかいた掌をギュッと握り締めると、俺は自前のAK74の遊底を引いて薬室に弾を送り込んだ。

 そんな俺の尋常ではない様子を見たナターシャが、緊張に身体をこわばらせる。

 彼女も、俺がなにを危惧しているのかを理解したらしかった。

「おい、どうした…」

 同様に異変を察知したウルフが俺に話しかけてくるが、それには答えず、その場にいた全員に声をかける。

「全員射撃やめ!弾倉を交換し、薬室に装填して待機しろ。周辺を警戒、注意を怠るな…」

 俺の言葉に今一つ要領を得ない新人ストーカーたちは、怪訝な表情を俺に向けてくるが、俺はそれに構うことなく来たるべき危機の察知に全神経を傾けた。

 フシュルー、アウッ。ハウ、ハウッ。

 やがて「そいつら」の息遣いが聞こえてくる。

 あ、やばいな、と思ったのは、それから数秒も経たない間だった。

 俺が銃をかまえるのとほぼ同時に、野犬の群れが続々と訓練キャンプに侵入してきた。

「<ブラインド・ドッグ>だ!」

 ウルフが叫ぶと同時に、野犬のうちの一匹がアントンという名の新米の喉笛に喰らいついた。

「ウゥゥァァァアアアァァァァァッッッ!!??」

 夜中に幽霊を見た子供のような叫び声を上げて倒れたアントンが、大量の血を吐きながら地面に押し倒される。

 悲鳴が合図になったかのように、その場にいたストーカーたちが次々と発砲をはじめた。俺はアントンの喉に噛みついた野犬に慎重に狙いをつけ、2、3発撃ち込む。

 胴体にもろに鉛弾を喰らい、慌てて飛び退いた野犬の頭部にさらに銃弾を叩き込む。両目を射抜き、脳髄を吹き飛ばしたところで、ようやく野犬は動かなくなった。

 ウルフがブラインド・ドッグと呼んだこの野犬どもは、通称めくら犬とも呼ばれ、ゾーンの環境に適応するよう変異を遂げたミュータントの一種だ。放射線の影響で視力を失ったこの奇怪な変異種は、従来のあらゆる犬種よりも鋭い嗅覚をそなえ、血の匂いに敏感に引き寄せられる性質がある。

 さらに本能的なものが発達しているのか、ゾーンに存在するあらゆる危険(高濃度放射線、アノーマリー、危険な変異種)を察知し避けることが可能になっている。

 この有能な猟犬を飼い慣らすことができた人間は、未だかつて存在しない(ゾーンの研究機関で長らく研究が進められているにも関わらず、だ!)。常に群れで行動し、集団で狩りを行うブラインド・ドッグどもは、人間を発見すると執拗なまでに追い回し、仕留めようと迫ってくる。

 その様子はまるで、自らの愚かな発明によってこのような場所を生み出してしまった人間に対する恨みを晴らそうとしているかのようだと、あるストーカーは言っていた。

 もっともな話だ。原因は未だに究明されていないが、ゾーンの発生がチェルノブイリ発電所の存在そのものによって引き起こされたものであることは、疑いようのない事実だからだ。

 どれだけ優れた嗅覚を持とうと、どれだけ生存本能が発達しようと、この野犬どもは二度と視力を取り戻すことはない。その罪が人間にあるというのなら、無我夢中で狩り立てに来るというのも無理からぬことだろう。

 だがしかし、そうとわかっていてもなお、俺は自分の命をこいつらにくれてやる気はない。

「クソッ!」

 自らの血のあぶくに溺れているアントンに駆け寄り、俺は傷の具合を確認する。

 …酷いもんだ、広頚筋の裂傷。動脈破裂。頚椎の損傷も酷い、おまけに外傷以外の懸念も考慮するならウィルス感染の恐れもある。とてもじゃないが応急処置でどうにかなるレベルじゃないし、ゾーンに病院なぞ存在しない。

 当のアントンはというと、声を上げることもできず、目をかっと見開いて、ずっと俺の顔を見つめていた。

 せめて気絶していれば、まだ苦痛を感じることもなかったろうに。俺は腰の拳銃を抜くと、眉をしかめて力なく首を振るアントンの鼻を狙い(頭蓋骨に阻まれることなく確実に脳幹を破壊できる)、引き金をひいた。

 荒く息をつきながら、俺はガスマスクのレンズに付着した大量の返り血を拭う。

 助かる見込みのない人間を放置しておくことほど残酷な仕打ちはない。延命措置などもってのほかだ。無為に苦しみを長引かせるのが人道的行為だというのなら、そんなものはブラインド・ドッグにでも喰わせてやればいい。

 たったいま天に召されたアントンが天国で感謝してくれていれば幸いだが、別に恨んでくれていてもいい。所詮は自己満足なのだから。

 銃声は未だ止まず、ストーカーたちがブラインド・ドッグの群れに蹂躙されているさまが見える。

 AK74に手をのばしかけた俺は、ふと考えを改めた。

「…銃口が1つじゃ足りないか」

 無意識にそう呟くと、俺は本能的に左手をもう1挺の拳銃に伸ばす。

 両手の拳銃は軍用のベレッタをカスタマイズした代物で、クロムメッキ処理されたフレームとバレルにフィンガー・チャンネルつきのラバー・グリップ、さらにバレルをカバーするタイプ(オープン・トップではない)の黒染め強化スライドを乗せた逸品だ。25発装填のロングマガジンが、本体から不恰好に突き出ている。

 軍用の強装弾でも問題なく撃てるようチューンナップされたこの銃は、厚手のグローブをはめた俺の手に驚くほどしっくりと馴染んだ。

 軽くスライドを引いて装弾を確認すると、俺はブラインド・ドッグの群れを正面に据えて神経を集中させる。

 改変された遺伝子、奇妙に捻じ曲がった組織が活性化をはじめる。アドレナリンが脳髄の端まで触手を伸ばし、神経はより研ぎ澄まされ、世界がその動きを「のろく」しはじめる。

 増幅された筋肉、滑らかに動く間接、その感触を確かめながら、俺はブラインド・ドッグが喰らいついてくるよりも早く、地面を蹴って宙空に踊り出た。

 ダブルアクションのトリガーを絞り、初弾を薬室から叩き出す。すると閃光とともに、ライフリングの刻まれたブレットが回転しながら、ブラインド・ドッグの頭部に吸いこまれるように飛び込んでいくのが見えた。すこし遅れたタイミングでスライドが開放され、硝煙とともに先端の焼けた薬莢がツメに引かれて蹴り出される様子が、かったるいほどのろいスピードでガスマスクのレンズ越しの視界に映しだされる。

 トリガーを少しだけ戻すと、トリガー・バーがシアを噛んだ直後の最速のタイミングでふたたび指をきる。トリガーを引きすぎず、戻しすぎず、俺はブラインド・ドッグの群れに向かって猛進しながら次々と発砲した。

 狙いなんかつけやしない、そんな「ヒマ」はない。

 ブラインド・ドッグの気配に向けて弾丸を送り込む。射撃の初歩は「標的に人差し指を向けること」だ。誰だって他人に向けて指をさしたことがあるだろう、射撃のテクニックなんてものは、ひどく乱暴に言ってしまえばその延長線上のものでしかない。

 俺は立て続けに発砲しながらブラインド・ドッグの間を縫うように駆け抜け、そうやったあとに振り返ったときには、周囲のブラインド・ドッグはすべて沈黙していた。

 さほど距離の離れていない朽ちた民家の傍らに目をやると、弾切れを起こしたサブマシンガンから手を離し、改造型SKSカービン銃でブラインド・ドッグの胴体を射抜いていたナターシャがこちらに視線を送ってきた。どうやら怪我はしていないようだ。

 キャンプ中で鳴り響いていた銃声は散発的になり、俺は弾切れを起こしたベレッタをそのままホルスターに戻してふたたびAKを手にすると、首をぐるりと回して、生き残っているブラインド・ドッグがいないかどうか、周囲を見渡した。

「全員、射撃やめ!繰り返す、射撃やめ!」

 どうやら最後の1匹を始末したらしいウルフが、手を挙げて声を張る。

 どれだけ凄惨な光景になっているのか…と思ったが、どうやらストーカーにそれほど被害はなかったようだ。

 額の汗を拭うウルフに近づき、声をかける。

「ウルフ、被害程度は?」

「怪我をしているのが2、3人いるが、どれも症状は軽い。応急処置をして、念のために抗生物質を投与しておけば大丈夫だろう」

「最初のやつは運がなかったな」

「そうだな…」

 そう言って、ウルフは重苦しいため息をついた。

 実際問題、死んだのがたった1人というのは、じつに運が良いといえる。

 ミュータント相手というのは、下手に武装した人間よりも遥かに対処に手こずるからだ。

 素早いうえに読みにくい動き、こちらの位置を的確に察知してくる嗅覚、疲れを知らない肉体と尋常ではない凶暴性。今回のように内陣に切り込まれると、同士討ちすら誘発されかねない。

 ついさっき銃の撃ち方を教わった連中が大半のグループにしては、今回は驚くほど被害が少なかったと喜んでもいいくらいだろう。

 だが、それでも1人死んだという事実に変わりはない。

「おい、誰かこいつを知ってるやつはいないか?」

 ウルフがキャンプ内のストーカーたちに、アントンのことを訊いて回るが、いずれも首を横に振るばかりで明るい返事が聞こえてこない。

「知人の一人もいない地で孤独なまま死ぬ、か。これもストーカーの宿命ってやつなのかもな」

 そうひとりごちると、ウルフは怪我をしていないストーカーを呼びつけて死体を埋めるよう命じた。

 その様子をぼーっと眺めながら、俺は誰にも気づかれないようそっと廃屋の裏手に回り、ガスマスクをずらして口元を露わにした。

「ゲッホ、ゲホッ…う、ぐぇ…オエェェ……」

 視界がぐらぐらと揺らぎ、苦痛に顔を歪めながら、俺は身体をくの字に曲げて嘔吐物を煤だらけの壁面にぶち撒ける。黄土色の吐瀉物には、ところどころ赤黒い血が混じっていた。

 まるで生きたままミキサーにかけられたような、あるいは山ほどもある巨人のパンチを一身に受けたような、途方もない激痛と不快感が俺の全身に襲いかかってくる。

 肉体を酷使したことによるバックファイアだ。

 俺が名前をなくしたときから得たこの能力がどういった代物なのか、じつは俺自身ですら理解できていない。どうやら記憶を失う前後で肉体に変化があったこと、そのおかげで戦闘能力が飛躍的に向上したらしいことは自覚できたが、その詳細はというと一向に要領を得なかった。

 もしかすると、「能力」の使い過ぎが寿命を縮める結果になるかもしれない。

 しかし放射線が至る箇所で蔓延しているゾーンで寿命を気にする必要がどこにある?比較的安全と言われている場所でさえ、モスクワより遥かに濃度の高い放射線が検知されているのだ。

 そんな、自棄的なことを考えていると…背中をさすられる感触と同時に、甘くやわらかい声が聞こえてきた。

『…大、丈夫?』

 耳馴染みのある日本語、ナターシャの声だ。

 彼女は俺の身体の異常を(というより、異常性のある身体を…と言うべきか)よく理解している。そのためか、普段は「あまり無理をしてくれるな」と釘を刺されているのだが。

『あーあ、くそっ…畜生』

『……ばか』

 日本語で悪態をつく俺に、ナターシャがぼそっとつぶやく。

 俺の背をさする手が握りこぶしを作り、トン、トンと腎臓のあたりを弱々しく叩く。だんだん力が強くなっていったかと思うと、不意にもっと思い感触が俺の背に覆いかぶさってきた。ナターシャが抱きついてきたのだと理解するのに、すこしだけ時間がかかった。

『ばか……ばかぁっ』

 ガスマスクのフィルター越しに、涙交じりの震えた声が聞こえてくる。

 あまりそういうのに慣れていない俺は、なんと応えていいのかわからず、不器用な言い訳をするしかなかった。

『ごめん。ごめんな』

『死んだらどうするんだよぉっ…今日がその日じゃないって、どうしておまえにわかるんだよぉ…!』

『悪かったよ、本当に。いつ死んでもいいなんて考えてないから、だから、もう泣くな』

 普段は敬語で接してくるナターシャの言葉遣いがぞんざいになるのは、本当に気が動転しているときだけだ。

 罪の意識を感じながらも、しかし俺はたったいまの自分の言葉がどこまで本気なのか、自分自身でもよくわからなかった。

 死が身近な存在でなければ、死に惧れを抱いているようでは、ゾーンでは生きていけない。そうでなければ、ついさっきまで二本足で立って普通に動いていた仲間の鼻先を撃ち抜くことなど、できやしない。

 唾を吐き、苦い胃液の残りかすが咥内を満たす不快な感触に眉をしかめながら、俺はガスマスクをかぶりなおすと、今度は自分からナターシャを抱きしめた。そのときの彼女の反応はいささか意想外なものだったが。

『…げろ臭い』

『馬鹿野郎。そこは我慢するところだろーが』

 身体を離し、ナターシャの髪をくしゃくしゃと撫でたところで、どうやら俺を探していたらしいセリョーガが廃屋の影から顔を覗かせた。

「こんなところにいたのか。具合でも悪いのか?」

「いや、大丈夫だ。そっちこそ、なにか用か?」

 俺が返事をするのとほぼ同時に、ナターシャがガスマスクで顔を隠す。後ろからだとフードで顔が隠れているから、おそらくセリョーガに素顔を見られた可能性はないだろう。

「それにしてもアンタ、あんな射撃どこで習ったんだ。ていうか俺たちに教えたのと全然違うじゃねェーか」

「2挺拳銃を習ったのはハリウッドの俳優養成学校だよ。俺は元役者だ、記憶力がザルで台本の内容を覚えられないせいで、しなびた大根のまま役者生命を絶たれたがね」

「…冗談だろ?」

「ヨタだろうと何だろうと、あんな撃ち方、初心者教練で教えるわけないだろう」

 そう言って会話を一方的に打ち切ると、俺はふたたびナターシャの方へと向き直った。当のナターシャはというと、やや不機嫌そうに、こちらに背を向けている。

 すっかり夕方になり、赤みがさしてきた空を見つめながら、俺はぽつりとつぶやいた。

『すこし…たるんでたかもしれんな』

 ため息をつきながら、俺は反吐を吐くほどの不快感に襲われた直後に聞こえてきた謎の声を脳裏で反芻させていた。

 その声は幻聴などではなく、たしかに俺に語りかけてきたのだ。

 

<<我が元へ来たれ。我が名はモノリス、我を崇め称えよ…モノリスの戦士よ>>

 

 

**      **      **      **      **      **

 

 

  [ 続く ]