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「グレアム尊士の好き勝手放題」

      

 

      

『コンコンコレクター - SHOP SQUAD -』

- 2nd Season -

Chapter_03 【 血のように紅く - Alaya Krov - 】 Part_2

 

 

 

 

 

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「ぁの、さっき…いったい、なにを……?」

「いいからいいから」

 クレインに似た何者かにシャウルマを渡され、すぐに自分に似た何者かにそれを奪われるという稀有な経験をしたティーティーは当然の疑問を口に出したが、どうやらクレインは酸味ッ狐を欺くために使ったトリックを説明する気はないようだった。

 マーケットを離れ郊外を抜けた二人はいま、人里離れた森の中のあぜ道を進んでいる。

 やがて木立の影から抜け出した二人が辿り着いたのは閑静な湖畔だった。人気のまったくない場所で、ときおり風に揺れる木の葉が擦れる音と鳥のさえずりが聞こえるほかは無音と言ってもいいほどだ。

 この、一見なにもない場所こそがクレインの目的地。

 そして、すべての終着点だった。

 ごく自然な動作で振り返ったクレインは、不意にティーティーの腕を掴む。

 ハンティングナイフの切っ先を真っ直ぐクレインに向けた、その腕を。

「ここなら仕掛けてくると思った。キミがミスター・スティーブを殺した、この場所なら」

「…どうして……ッ!!」

「彼の体内には小型のGPS発信機が埋め込まれていたんだ。キミたちにそれを確認する術はなかったろうけどね…ともかく、彼が消息を絶った直後にボクはその信号を追跡した。そして、この湖の中から信号が発信されていることを確認した。彼に湖底を遊泳する趣味がなければ、殺され沈められたと思うのが自然だ。だけど、誰が?」

「それは…」

「ボクを尋問するとき…この国になにをしに来た、とキミの仲間は言ったね。しかし、そんなのは最初にミスター・スティーブを捕まえたときに訊けば済む質問だ。それができなかったのは、組織の誰かが先走って口を塞いでしまったからだ。たとえばそう、こんなふうに逃がすフリをして油断したところを始末する…とかね」

「…いつから、わたしを…疑って……?」

「最初からだよ。いくら内気なふうを装っていても、その『殺気』はそうそう隠しきれるものじゃない。それに、時間が経てば経つほど確信に足る材料が揃っていたしね。キミが、見た目通りの少女ではないってことが」

「…… …… ……?」

「たとえば、マーケットで若い連中に絡まれたとき。彼らはウクライナ語で話しかけてきた。東ウクライナの公用語はロシア語で、それでなくとも昔からこの地域はロシア語のほうが定着している。その中であえてウクライナ語を使ったということは、彼らは親ロシア派ではなく、ウクライナ独立派…つまりキミたちの敵だったってことになる」

 そこまで言って、クレインはティーティーの腕を掴んでいた手を放した。

 後ずさりし、ふたたび狩猟用ナイフをかまえるティーティーに向かってクレインは話を続ける。

「そして、彼らはこう言ったんだ。『виявилося, що вона(彼女を見つけた)』と。彼らはキミを知っていた。敵対組織に名が知れるというのは、そうあることじゃない。キミは、いったい何者なのか」

 クレインは胸ポケットから手帳を取り出すと、それを広げてティーティーに見せた。

 ホテルの部屋で回収した手帳には、乱雑に走り書きされたリストが記されている。

「キミが所属する組織に在籍する狐魂のリストだ。ミスター・スティーブはキミたちのことを調べていた、もっともそれは本来の任務ではなかったけど…読み上げてみよう。日本赤軍出身者三人、旧KGB第八総局の元暗号解読員、そして」

 次の一言に、ティーティーが表情を変えた。

「FSBテロ対策部V局所属。一つ前のページに興味深い書き込みがあったよ、二年前にロシアから二人の少女が組織に加入したと…高度な訓練を受けた現役のスペツナズ隊員が、オブザーバーとして現地入りした、とね。一人はさっき遭遇した娘、そしてもう一人はキミだ」

 そこまで言うと、クレインは鋭い眼光でティーティーを見据え、そしてつぶやいた。

「キミはいったい、何者なんだ…?」

 

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 1986年、ウクライナの工業都市ドネツクで隕石と思われる飛翔物の落下が確認された。

 ドネツク在住のある夫婦が隕石の飛来した現場を通りがかったのは、まったくの偶然だった。そして地面に大穴を空けたのは、当時新聞に書かれたような隕石などではなかったのだ。

 大穴の中心部に傷だらけの姿で横たわる少女こそ、外宇宙より放逐されたティーティーに他ならなかった。

 夫婦の手厚い看護を受け一命を取り留めたティーティーは、地球に放逐される以前の記憶を失った状態のまま夫婦のもとで生活するようになった。

「まるで娘ができたみたいで嬉しいわ」

 不妊症のため出産を諦めた経験のある婦人の笑顔はティーティーにとってやや荷が重いものだったが、それでも普段の生活で彼女が気を遣わなければならないような場面はほとんどなかった。

 夫のフェリクスは国営自動車工場の工員で、裕福でこそなかったが生活が苦しいというほどでもなかった。昼休みの時間が近づくと妻のマルタは弁当を届けるために工場へ赴き、やがてティーティーもマルタについて一緒に工場へ行くようになった。

 フェリクスとマルタの夫婦にしてもそうだが、工場の人々は人間ではないティーティーを嫌悪するような素振りは欠片も見せなかった。

 工員やその妻と談笑を交えながらの昼食はのどかなもので、それは休日に友人を呼んで催す昼食会となんら変わるところはなかった。ティーティーの生活は万事がそういった調子で、のどかで、ゆっくりと時間が流れる日々はかけがえのないものだった。

 おそらく夫婦にとっても、そういった平穏な日常に変化が訪れるなどとは考えたこともなかったのだろう。

「ずっと一緒に居ればいい。私たちは、家族なのだから」

 自分はいつまでここに居ていいのか、というティーティーの質問に対する夫婦の答えはその証明のようなものだったが、しかし平和な生活は長くは続かなかった。

 きっかけはソビエト連邦崩壊とそれに伴うウクライナ独立、そしてフェリクスが勤めていた自動車工場の民営化だった。

 民営化に伴いイギリスから招聘された取締役員は、体制の変化に戸惑いを隠せない工員たちに笑顔で話しかけたという。

「皆さん。悪しき共産主義が駆逐され、ウクライナも資本主義への架け橋に一歩足を踏み出すことができました。努力した者が評価され、より多くの労働賃金が保証されるのです。皆さんの活躍に期待していますよ」

 そして取締役員がはじめに行ったのは従業員の大量解雇と、労働賃金の大幅な引き下げだった。

 幸いにもフェリクスは首を逃れたが、家族ぐるみで仲良く付き合っていた工員たちの多くは工場を追い出され、間もなく疎遠になった。

 工場内への工員以外の立ち入りも禁止され、マルタとともにティーティーが昼食を届けることもできなくなった。

 休憩時間の短縮と労働時間の増加、さらに労働内容は過酷になり、工場内の雰囲気は険悪なものになった。いままでと同様の仕事を半分以下の人数でこなさなければならないのだから当然だ。

 さらにいつ無能を理由に首を切られるかわからず、工員同士の連帯もなくなり、互いを生存競争における邪魔者と見做すようになっていた。

 工場の業績は年々上がっていったが、利益のほとんどは役員の懐に入り、工員に還元されることはなかった。

 そういった状況のなか、家に帰ったあともフェリクスは笑顔を見せることがなくなり、口数は減り、些細なことでマルタと衝突することも多くなった。また給料の削減から生活も厳しいものになっていた。

 そこに、かつての温和な家庭の面影はなかった。暗い影がティーティーと、そして町全体を覆いはじめていた。

 そんなとき、事件が起きる。

 役員の横暴に耐えかねた工員たちがストライキを起こし、それが町ぐるみの大規模な暴動へと発展したのだ。

 事態の収拾に警官隊が導入され、工員との激しい衝突の末に事態が収束したときには多くの死傷者が出ていた。

 そして死者のリストの中には、フェリクスの名前もあった。

 1994年春、いつも一緒に寝ていたマルタの姿がないことに気がついたティーティーは寝床を飛び出し、台所で首を吊っているマルタの姿を目にすることになる。

 

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「ティーティーは、家族を奪った資本主義と西欧人を憎むようになった。手始めに工場の役員どもを始末し、通報を受けて出動してきた警官隊を皆殺しにした。そう、父親代わりだった男を殺した警官たちを」

 廃工場跡の隠れ家で、ミンブは他のメンバーにティーティーの過去を語って聞かせていた。

 かつてチェチェンでの紛争でティーティーと、その同僚だった酸味ッ狐と付き合う機会があったミンブは、全てではないにしろティーティーの過去を知っていた。

「そしてあの娘は、自分の運命を変えることになる一人の男に会った。その男は当時すでに政界で活動していたけど、それでも諜報機関との関わりを絶ったわけじゃなかったのさ。隣国で起きた怪事件に対処するため、そいつは秘密裏にドネツクへ派遣された…」

 

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 ティーティーをロシアへ連れ帰り、また時期を同じくして自分を捕らえた男のことを、酸味ッ狐もよく覚えている。両者の出会いのエピソードはおよそ対照的なものだったが…

 かつて自らの美しさを誇示するため人を惑わし、その眩い光で数多の人間の視力を奪ってきた酸味ッ狐はやがて人間の手によって捕らえられた。

 彼女の持つ光の力をものともせず、特別製の鏡の檻に酸味ッ狐を幽閉した男の冷血な表情をいまでも思い出すことができる。

「妖狐ごときが私の手を煩わせるな。いますぐ選ぶことだ、朽ちた肉の檻にその身を落とすか、それとも消え去るか…文字通りにな」

 相手が種として遥かに格下だと高を括っていた酸味ッ狐は、そのとき生まれてはじめて恐怖を覚えた。死の恐怖を。

 

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 一方でティーティーとその男の出会いは極めて穏やかなものだった。

 追加で導入された警官隊に包囲され、工場内で血に塗れながら怯え震えていたティーティーに近づいた男は、数多の死体を築いた少女に向かって手を差し伸べ、話しかけたのだ。

「怖がることはない。危害を加える気はない、君のために新しい家を用意した。一緒に来てくれないか」

 

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 それは害意をもって立ち向かってきた者と、個人的な復讐に身をやつした者への対応の差だったのかもしれないが、男を復讐相手と見做す酸味ッ狐と、恩人として崇敬するティーティーとの奇妙な共同生活は当初こそ不穏なものであったとはいえ、結果として大きなトラブルを招くこともなく機能していた。

 FSBのもと数々の訓練を受けた二人はやがて、「ウラジミールの寵愛を受けた狐たち」の異名で呼ばれることになる。

 

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「キミの過去は知らないけど、とにかく、キミの目的を知らないうちにウクライナ独立派の連中にキミを引き渡すわけにはいかなかった。それと、さっき会ったキミのお仲間…彼女はキミを連れ戻しに来たんじゃなく、キミを援護するために派遣されたんじゃないのかい?もっとも、キミは『自分一人で充分』と態度で示したみたいだけど…まぁ、ボクとしても一対二ではやり辛いから、どうにか退場してもらったけどね」

「…そこまで、わかってるなら…なんで、いままで、なにも知らないふりを」

「キミと同じさ。芝居を打ったのさ、キミを確実にこの場所へ誘き出すために、人のいない場所にね…なにもかもウソ、でっち上げ、作り物の絵空事というわけさ」

 クレインがそう言ったその一瞬、湖面のさざ波さえもが途絶え、まったくの無音の瞬間が訪れる。

 二人は互いの瞳を見つめ合っていた。騙されていると知りながら、道中で他愛のないままごとを続けてきた相手の瞳を。かたや真実の追究のため、かたや過去の復讐のため、平然と嘘を口にした相手の瞳を。

 沈黙が続くなか、先に口を開いたのはティーティーのほうだった。

「はン、そうかい…なにもかも想定済みってわけかい。それで、どうだ…拍手でもしてやろうか?お利口さん」

「…… ……?」

 突然口調が変わったティーティーに、クレインは言葉を返すことも忘れ眉をしかめる。

 気分を害したからか、それともこれが彼女の本性なのか?尋問を受けていたクレインを可哀相と言ったあの言葉とおなじように、気が弱いふうを装っていたのもすべて、なにもかもが演技だったのだろうか?

 しかしすぐ、そうではない、何かが違うとクレインは感じた。これはもっと、別の…

「…キミはいったい、何者なんだ?」

「おなじ質問を二度するなよ、дурень(脳なし野郎)。オレはただ正義漢ヅラした西欧の帝国主義者どもが大キライなだけの殺し屋さ」

「いままで、キミがミスター・スティーブを殺した理由がどうしてもわからなかった。組織の意向でなければ、ロシア政府の指示かとも思った。ひょっとして、彼を殺したのはキミの私怨なのかい」

「知らないようなら言っとくが、あのクソ野郎は財閥を相手に積極的にロビー活動を展開してたんだぜ。ウクライナ独立の支援と引き換えに、アメリカやEUのバックアップを確約してな。西欧の甘言にノせられた能天気なヤローどもが、アメリカやEUの言うなりに新政権を樹立すれば、それが財閥にとってどれだけ有利に働くか、わかんだろうが」

「だから殺したと?」

「許せるハズがねーだろ…と、オレの中の人は言ってるぜ」

 そう言って、フフン、ティーティーは生意気な笑みを浮かべると、肩をすくめてみせた。

 いまのメタ発言はどういう意味だ?

「一部の金持ちが好き勝手やる裏じゃあ大多数の国民が困窮してる、こいつは貧富の差なんて生易しいもんじゃねえ。それがどんな悲劇を生むか、こいつはよく理解してるらしいからな。そいつを際限なく繰り返そうとする輩がいるとわかりゃあ、刃傷沙汰も止む無しってところだろうぜ。ま、実行するのはほとんどオレの役目だがな」

 まるで自分のことを他人事のように話すその態度は、まるで二重人格者のようだった。あるいは気分屋がそのように見せかけているだけなのかもしれないが。

 いまふたたびティーティーがハンターナイフを振りかぶり、クレインはそれを咄嗟に抜いた両手のコンバットナイフで弾き返す。

 ティーティーの表情から不安や躊躇いは消え失せ、いまでは好戦的な笑みを満面に浮かべクレインと対峙している。またその力もさっきより強くなったようで、一撃を防いだクレインの手がビリビリと痺れた。

 …まてよ、二重人格?

 そのキーワードに引っかかるものを感じたクレインは、いま一度狐魂に関する資料を思い出そうとした。

 たしか以前、外的要因によって人格が分裂した…いや違う、人格が「増えた」狐魂がいたはずだ。そのときは対処しきれず命を奪うしかなかったが、その狐魂は相当に強力な能力を備えていた。

 そうだ、これは!

「…もう一度聞いていいかな。キミは何者だい?」

「しつこいな」

「キミはどこから来た?いつ…『彼女と融合した』?」

「…… …へぇ」

 クレインの言葉に、さっきまで小馬鹿にした態度で見下していたティーティーが興味深そうな表情を浮かべる。

「なんのことを言ってるのかわからねーな」

「誤魔化しはナシだよ、レイディ。ボクは以前、キミと同じような失敗作を見たことがある」

 失敗作。

 その単語を耳にしたティーティーが、歯ぎしりとともに顔を憎悪に歪めた。

 

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 恩人の死体を目の当たりにしたティーティーは泣いていた。ただ、ひたすら。

 ぶらりと手足を垂らし、宙に揺れる母親同然の女性の亡骸に手を触れることもままならないまま、なぜこうなってしまったのか、いったい、自分たちに何の非があったのかと心の中で繰り返しながら、声も限りに叫び続けていた。

 膝を折り、頭を床にこすりつけ、これが悪夢ならすぐにでも醒めてほしいと願いながら、いったいどれだけの時間が過ぎただろうか。

「憎いか」

 聞き覚えのある声が、自分を呼んでいることにティーティーは気がついた。

 ゆっくりと顔を上げたとき、そこに立っていたのは自分に瓜二つの少女だった。さっきの声、聞き覚えがあると思ったのは、自分の声とそっくりだったからだと気づく。しかし、それが何を意味するのかはまったく理解できなかった。

「辛いよな。復讐したいか?こんな目に遭わせた連中を」

 呆然と見つめるティーティーに、目前の少女はゆっくりと手を伸ばす。

 もう一方の手に、輝く光球を握りしめて。

「力を貸してやるよ。大丈夫だ、オレとお前なら、きっと上手くいく」

 そう言って誘う少女に、ティーティーは無意識のうちに手を伸ばし、やがて指先が触れ合うと同時に眩い光が周囲を包む。

 

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「融合の秘術…八百万時計が指し示す多元世界の、『もう一人の自分』と融合する外法。その儀式に成功すれば膨大な力を手にすると言われている。しかし、その多くは失敗に終わる…そう、キミのように」

 そう語りながら、クレインは過去の調査書から得た融合の秘術についての情報を脳裏で反芻していた。

 融合の秘術が求める先は、二つの個体の完全なる同一化。二つの肉体、二つの能力が同化し、一つの肉体として再組成される。かつてクレインが遭遇した融合体も、力の同一化には成功していた。

 しかしこの秘術の成功を困難にしているのは、精神の同一化だった。

 異世界における同一体とはいえ、その精神を構成する要因はまったく別のものであることが多い。二つの異なる精神は融合の過程で反発し合い、結果として精神が破壊される…発狂する。

 そこまで酷い結果に陥らずとも、精神の分裂や二重人格といった極めて不安定な状態を誘発するのはほぼ確実と言われている。クレインの知る限り、融合の秘術を完全に成功させた狐魂は未だ存在しない。

「いくら恨みや怨念が募っていたとしても、気弱な少女にそうそう人は殺せない。キミが彼女をそそのかしたのか」

「勘違いするなよクソ野郎、オレはちょっと背中を後押ししてやっただけだ。それにいま、あいつには帰れる場所がある。おまえを殺せば茶番はすべて終いだ」

「どうかな」

「なんだ?」

 いかにも「悪いことを企んでいそうな」表情を見せるクレインに、ティーティーがただならぬ予感を察する。

 

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「ところでコレ、どうすんのよ」

 廃工場の倉庫にて、クレインから奪ったリュックサックを爪先で蹴りながらハクオウがつぶやいた。

 クレインの身元を証明するようなものは何もなく、ただ市場で買い漁った碌でもないVHSのパッケージが大量に詰まったリュックを見つめ、身を屈めて幾つかのケースを手に取る。

 中身は何の変哲もない磁気テープ、中古品なのか若干の黴臭さが鼻をツンと突いた。

「あまり下手にいじるなよ、あの変人のことだ。何か妙な仕掛けをしているかも…」

 恐らくそんなことはないだろうが、と思いつつ、ミンブがハクオウをたしなめる。

 だがしかし…

「アラ。なにかしら、これ」

 あるパッケージのケースを開いたとき、ハクオウが妙な声を上げた。

 ケースの中に収まっていたのは磁気テープを内蔵した大型のプラスチックケースなどではなく、黄色い粘土状の塊だった。周囲には各種コードやセンサー類が所狭しと配置されている。

 マフィアの用心棒として様々な荒事を経験したことのあるハクオウは、その物体に見覚えがあった。プラスチック爆弾、たしかチェコ製のセムテックスといったか。ブロック一個分の量で航空機を落とす威力があると言われる代物だ。

 常人ならそれを認識した瞬間にパニックに陥るだろうが、ハクオウは冷静だった。

 信管は?作動方式は?

 コードはすべて遅延なしの導爆線、ひとたび作動すれば瞬時に起爆するだろう。

 では、起爆のトリガーは?

 そのときハクオウは、自分を見つめ返すように光を反射するレンズの存在に気がついた。

 それは、光探知センサー。

 一定量の光を感知すると信号を送る仕組みになっている。たとえばそう、ケースを開けて暗闇から解放されたときに起爆するよう…

「あらやだ、手遅れだわ」

 ケースを開けてからコンマ一秒の僅かな時間に巡った思考。

 セムテックスが起爆する瞬間、ハクオウと同時にその危険な物体を目の当たりにしたミンブは大声で叫んだ。

「言ったそばから…!」

 

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 その爆発音は、遠く離れたクレインとティーティーの耳にも届いていた。

 まさか自分たちとは無関係だろう…ティーティーはそう思いたかったが、しかしこのタイミングで組織の隠れ家がある工場地帯から聞こえてきたことを偶然と済ませるわけにはいかなかった。

「…テメエ、なにしやがった…!?」

「荷物の中に爆弾を仕掛けておいたのさ。時限式じゃあなく感光式だから、はじめの取調べの段階で見つかってたらボクもちょっとヤバかったけどね。それでも、あのまま捕まってるよりはマシだろうって判断だけど」

 クレインはコンバットナイフのハンドルを握りなおし、口ほどには余裕がない状況をどう切り抜けようか考えた。

 本来、自分はティーティーと敵対する必要はなかった。それどころか、ミンブ率いる過激派の連中のただ一人だって傷つける必要はなかった。そのはずだった。

 なぜなら、自分の本来の任務は…

 いや、考えるのはよそうとクレインは思った。どのみち、ティーティーは自分を許すまい。

「死ぬ覚悟はできてるだろうな…?」

「逆に考えてみよう。ここでキミが大人しく投降してくれれば、ボクはキミを殺さずにすむ」

「今際の台詞にしては冴えないのを選んだな、クソ野郎」

 ガヒュ…ッッン!

 ティーティーの一撃は風を切ると同時に耳煩わしい金属音を発し、クレインの喉元を裂こうと切っ先を伸ばす。

 辛うじてその強烈な攻撃を受け流し、クレインは負けじと反撃を試みた。

 口調と同様に荒っぽいティーティーのナイフ捌きは一見隙だらけのように見えたが、実際は一部の隙もなく的確に相手の急所を攻撃するスタイルだった。

 先の一撃を受け流した直後、即座に反撃したクレインのナイフを弾いたティーティーはふたたび間合いを詰めて突きかかってくる。

 さすがは現役のスペツナズ隊員といったところか…またも間一髪でティーティーの攻撃を凌いだクレインは感嘆の声を漏らした。

 おそらくはシステマを源流に独自のアレンジを加えたものだろう、しかし型が決まっている軍隊格闘がベースであれば対処は可能なはずだと、自身も元軍人であったクレインは判断した。

 体格の違いを利用し、さらに両手のナイフによる撹乱を交えた攻撃で仕留める!

「ハアァッ!」

 さっきまでは押される一方だったクレインが形成を変え、一気呵成の反撃に出た。

 素早く振られる両手のナイフはフェイントと本命が微妙なバランスで入り混じり、ティーティーに反撃の隙を与えない!

 攻撃を受け流すのに精一杯で反撃に転じられないティーティー、そろそろだ…攻撃の苛烈さに、ナイフの連撃への対処に彼女の意識が向いていると判断したクレインは、さらに強烈な脚技を繰り出した!

 ズガッ!

「チィィッ!」

 ズザザザッ、クレインの後ろ蹴りを受けたティーティーは後方へ後ずさる。

 ン……?

 確かに手応えはあったはずだが…と、クレインはいまの一瞬に妙な間を感じた。

 いまのは、わざと蹴りを受けて距離を取ったのか?

 クレインが疑念を抱いた直後、ティーティーが顔を上げて真っ直ぐに視線を向けてきた。そこに浮かんでいたのは、まったく余裕の笑みだった。

「…弱いなァ?おまえ」

「え?」

 彼女の一言は、ことナイフを用いた近接格闘には自信があったクレインを驚かせるには充分だった。

「確かによく訓練されてる。人間相手なら強いかもしれねーよ?でもな」

 ティーティーが地面を蹴る、その動きはさっきまでとはまるで別格で、光弾のように一瞬でクレインの目前まで迫る。

「くっ、見切れない…!」

 来るべき一撃を防ぐため、咄嗟に両手のナイフをクロスさせるクレイン。

 しかし。

 ガッ…ッキィィィイイインン……ッッッ!!

 コンバットナイフの刀身が半ばから寸断され、刃先が回転しながら宙を舞う!

 ドン、鈍い音とともにクレインの胴体が揺れる。

 ティーティーの突き出したハンターナイフの切っ先が、クレインの背中から飛び出ていた。

 心臓を突き裂く、正確な一撃。

「ぐ、あ……」

「いいかよ、狐魂なら覚えとけ」

 ブーツの裏でクレインの腹を踏みつけ、ナイフを引き抜くと同時に反動でティーティーは彼を蹴り倒す。

 ゆらり、力なく仰向けに倒れかかるクレインの身体はそのまま湖に吸い込まれ、ドボンと音を立てて水面に消えた。

「人間と同じように戦ったら、人間と同じようにしか強くなれねぇよ。覚えときな」

 ナイフをスカートの下の鞘に戻し、ティーティーは湖面に背を向けて歩きはじめる。

 いまはただ、爆破された仲間たちの安否が気にかかる。余計な連中が嗅ぎつけるのを防ぐためにも、早く向かわなければ…

 いままさに駆け出そうとしたティーティー、しかしその行動は水飛沫と地面を鈍く踏みつける音によって遮られた。

「…… ……!?」

 咄嗟に振り返ったティーティーだったが、いまさっき「何かが上空から着地したような音」がした方向には何も見当たらなかった。いや違う、まるで空気がビニールの膜を纏っているかのように、宙で水が滴り落ちている。

 やがてエメラルド色に輝く光球が浮かび上がり、鈍色のアーマーが姿を現した。

「テメェ…ッ!」

「たとえば人間は、動脈閉塞状態になっても十~十五秒は意識を保っていられるそうだ。一メートル先から12ゲージのショットガンで左胸を撃ち抜かれ、心臓を完全破壊された青年が六十メートルの距離を全力疾走し逃げた例がある、かと思えば右腕を.25ACP弾が掠っただけでショック死した若い警官の話もある。要するに、生死には『気持ち』が大きく関わるってことさ。生きることには『確信』が必要だ。『自分は絶対に死なない』という確信が」

 それは間違いなく、さっきティーティーに心臓を貫かれたはずのクレインだった。

 それもサイバースーツを身に纏い、完全なる戦闘態勢を整えていた。

「前に言ったように、ボクはキミをここに誘き出すつもりでいた。最初から。つまり、前もってこういう仕込みをする余裕もあったってことさ」

「そうかよ。捕まる前にすでに一度、ここに来てたってわけかい」

「水中に叩き込まれたあと、意識を失う前に湖の中に隠してあったスーツを着てポリマーで心臓の傷を塞ぎ、増血剤を投与して一命を取り留めることに成功した。そして両手のクローをスクリューのように回転させて水中から飛び出した。やれやれだよ」

「ご苦労なこった」

 傷の治療はスーツに内蔵されている機能を使ったもので、ポリマー溶接は傷を縫合する時間の余裕すらない場合の奥の手だ。帰還後の特殊医療措置…義体メンテナンスを前提とした、相当に乱暴な方法である。

 生まれてはじめて眠ったのがメイドインUSAのベッドだとしたらアスピリンも欲しくなるだろうな、そんなくだらないことを考えながら、クレインは不快感を露わにこちらを睨みつけてくるティーティーをまっすぐ見据えた。スーツにはレベルに合わせた複数種の鎮痛剤も内蔵されていたが、いまはヤクで頭の回転を鈍らせたくなかった。

 実際、痛みというのは脳を覚醒させておくにはいいフレーバーだ。度を過ぎなければ。

「情けないことに、ボクはけっこう弱い狐魂でね。このスーツを着てようやく三等級に並ぶ、といったところで…つまり、手加減をする気はないってことだけど」

「御託はそれだけか」

 ふたたびティーティーの鋭い一撃…クレインの心臓に裂け目をつけた、あの一撃…が繰り出されたが、クレインはそれを右のクローで受け止め、同時にクローを回転させてナイフを絡め取ろうとした。

 ガ、ガキッ!ギャリリリリリッ!

 やかましい高音が響くとともに火花が散り、ティーティーは手首ごとナイフをもぎ取られそうになったが、寸でのところで手を離した。

 ガチンッ、回転するクローに弾かれ宙を舞ったナイフをティーティーはすかさずジャンプしてキャッチし、そのままクレインの頭上を飛び越えて身体を反転させ、見事に着地する。

「(くっ、スーツを着ていても反応できなかった…いや、追撃が間に合わなかった!やはりこの少女、強い)」

 振りかぶろうと構えた左のクローをおさめ、クレインは内心で舌打ちした。

 重装狐用サイバースーツには、相手の動きを検知し予測するための複数のセンサーが内蔵されている。相手の声や視線、筋肉の収縮から精神状態と次の動作を予測し、その確率をモニターに表示する。

 もちろん視覚情報として投影されたそれらのデータを有効に活用するには、咄嗟の判断力や反射神経が不可欠だ。

 次々に繰り出される攻撃を捌きながら、ついにクレインが反撃を繰り出す!

 ギャリッ!

 回転し勢いを増したクローの一撃を、ティーティーは素早くかわす!

 しかし…バリバリッ、カンバスの裂けるような音とともに、ティーティーの片方のおさげが吹き飛んだ!

 おそらくクローの先端が触れたのだろう、頬から一筋の血を流すティーティーに、クレインは今一度問いかける。

「もう一度だけ聞いていいかい…本当に、降伏する気はないんだね?」

「やかましいぜ、帝国主義者に尻尾なんぞ振れるか。あのクソ野郎の仲間なら、なおさらだ」

「…ボクの任務は」

 おそらくティーティーは、クレインとミスター・スティーブを仲間か、あるいはグルだと思っているのだろう。

 同僚だったのは確かだが、それでも、二人はティーティーが考えているような関係ではない。そのことを、ここではっきりさせるべきだ。クレインはそう思った。

「ボクの任務は、ミスター・スティーブを始末することだった」

「…… …なに?」

「もともと、彼の任務はウクライナ情勢の監視と報告…ただそれだけだった。ところが数年前から、NATO加盟国の複数の国会議員と癒着し、新興財閥とのパイプ役として多額のリベートを受け取るようになっていた。もちろん我々にとって…いまさら隠す必要もないだろうから言うけど、CIAにとってもそれは想定外の行動だった」

 現地で活動するエージェントの独走。

 本国から遠く離れた東欧の地における長期活動に嫌気が差し、組織への忠誠心を失ったのか。

 あるいは悪魔の囁きに従い、金のために目を曇らせたのか。

「彼は本部からの追及を巧みにかわし続けた。そして彼がウクライナ情勢に与える影響は、既に看過できないほど大きなものになっていた。だから、本部は彼を秘密裏に始末することを決定した」

 この任務にクレインが選ばれたのは、現地での狐魂の動きが活発化しているというミスター・スティーブの過去の報告を勘案したからである。

 バイザーに遮られ表情の見えないクレインに、ティーティーが小さく吐き捨てる。

「…それを、信じろって?」

「キミが彼を殺す必要はなかった。それはボクの仕事だったからだ。ボクがウクライナに派遣される直前、彼が消息を絶ち湖の底からGPS信号を発していることを本部が突き止めたとき、ボクの仕事は彼の死体を確認することに変更された。そして、誰が彼を殺したのか調べることになった。だけど、ボクとキミたちが戦う必要はなかった」

 そう言うと、クレインはそっと視線を落とした。

「そんな必要はなかったんだ」

 おそらくミスター・スティーブは何らかのミスを仕出かし、ミンブたちに捕まった。それは確実だろう。

 だが。

 もし、ティーティーが先走ってミスター・スティーブを殺さなければ。

 もし、ミンブたちが追撃の手を予測してクレインを捕らえなければ。

 もし、ティーティーがクレインを連れ出さなければ。

 あるいは、もし…クレインが、途中でティーティーと別れていれば。もし、自衛用に爆弾など用意していなければ。

 どうなっていたかはわからない。しかし現実はここまで来てしまった。こうなってしまった。それを覆すことはできない。いまはもう、いまさら。そんなことはできない。

 たとえクレインがティーティーの政治信条に反する相手ではないと証明されても、そんなことはもう瑣末な問題でしかない。

 いまとなっては…彼女にとって、クレインは大切な同胞の仇なのだ。

 地面を蹴り一直線にクレインの懐へと飛ぶティーティー、その姿を真っ向から捉えるクレインのモニターには彼女の次の動きを予測する数値が続々と表示され更新されていく。

 ふつう、ちっぽけなナイフ程度ではクレインのスーツに傷をつけることはできない。

 しかしティーティーの攻撃は例外だった。そのスピード、破壊力。

 ナイフ自体もなんらかの特別な素材で造られているのだろうが、それ以上にティーティーの並外れた身体能力、そして腕力だけではない「霊力」による斬れ味の増幅が、クレインのスーツに損傷を与えることを可能としていた。

 ガッ、ガガガガガ、ガ、ガキンッ!

 ナイフとクローを用いた斬撃の応酬を繰り返しながら、クレインは動揺を誘うための挑発を繰り出す。

「キミの身の上になにがあったのかは知らない。ただ一つ言えることは、キミが体験したのは『ありふれた不幸だ』ということだ」

「……」

「世の中は、善人が幸せに生きれるようには出来ていない。世界は因果応報なんていうまやかしを基準に動いているわけじゃないからだ。そしてキミのような不幸な体験をした人間は世界中に幾らでもいる。なぜかといえば、それはキミが特別に不幸だからじゃなく、『世の中とはそういうもの』だからだ」

「…… …… ……」

「やけに無口になったね」

 しかしその挑発に乗ることなく、それどころかティーティーの動きはより素早く、苛烈なものになっていく!

「(なんてことだ、まだ早くなるのか…!?)」

 底の知れないティーティーの実力に畏怖の念を覚えながらも、クレインはある疑問に突き当たった。

 いま戦っているのは、どっちだ?

 そしてふたたび考える必要があった、別世界からやって来たティーティーは、なぜこの世界を、なぜ「彼女」を選んだのか、を。

 揺れる髪の奥で、さっきまでの狂的な表情とはまるでかけ離れた、悲しそうな瞳をぎゅっと細めるティーティーの顔を見たとき、クレインは核心を探り当てた。

 そもそも、融合の秘術を用いる理由はなんだったか。

 それは、より強い存在となるため。

 手っ取り早く強さを手に入れる、もっとも効率的な方法。それは、自分より強い「別の自分」と融合すること。

 つまり…

「なんてことだ」

 ガヒュウゥゥゥゥウウウウン……ッッ。

 いままでで、最高の一撃。

 ふたたび動きを止めるべく突き出された、回転するクローを粉砕するナイフの一振り。

 巨大な刃が破片を散らしながら吹き飛ばされる光景を見つめながら、クレインは叫んだ。

「いま、戦っているのは…キミか!」

 より強い力を持っていたのは、いま目の前にいる、内気で気の弱い少女のほうなのだ。

 少し考えればわかったはずだ、そうだ、当たり前じゃないか!

 あの口の悪い少女は、潜在的に自分より強い力を持つ彼女の能力を正確に把握していたからこそ、彼女との融合を望んだのだ。

 ティーティーのナイフがクレインのバイザーに突き立てられる、目と目の間に、クレインが目にするモニターにはそれが間もなく装甲を貫き彼の脳を掻き回す可能性を高確率で示している。

 しかし、そんなことが予測できたところで何になる?

 パパパパパシュッ!

 ガキッ、ズ…ッ、ジキジキッ!

 ズザン、ドッ!

 瞬時に掻き鳴らされた幾層もの戦闘音が収まったとき。

 クレインの頭部に突き立てた、ナイフを握るティーティーの手は止まっていた。

 彼女の腹部には、クレインの左腕に装着された麻酔銃の針が複数突き刺さっていた。

 それが彼女の動きを鈍らせたのは確実だった。

 そして…彼女の胴体は、クレインの左腕のクローに刺し貫かれていた。三本の大型の刃が、幼い肢体を容赦なく引き裂いていた。

「あっ……が、ぅぁ…」

 ゴポッ。

 小さな口から、おびただしい量の血が溢れる。

 急所は外れていなかった。それは確実に殺すための一撃だった。

 ハンドルを握る手がだらりと垂れ下がり、ティーティーの身体がクレインにもたれかかる。クレインもまた、その身体を抱きしめるように右手で受け止めた。

「こういうのは…いったい、誰が悪いんだろうね?いや、無意識に悪人の存在を求めてしまうことが…そもそも無責任なのかもしれないな…」

「ぉ…かぁ…さ……お…と……さん……」

 その顔を血と涙で汚し、祈るような声でつぶやきながら、ティーティーはかつての育ての親の顔を思い浮かべた。

 そして、ティーティーは動かなくなった。

「少佐、キミだったら…もっと、うまくやれてたのかな……?」

 クレインはゆっくりクローの刃を引き抜き、もう一度そっと彼女の身体を抱き寄せる。スーツが血で汚れるに任せるまま、しばらくの間、そうしていた。

 

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「終わったかい?」

 哀しいほど軽いティーティーの身体を抱きかかえるクレインの背後から、まるで遊具の順番待ちをしているかのような、やや場違いな声が聞こえてきた。

 混狐コンクイ、他者に化け成りすます「変身能力」を持つ狐魂、今回の事件でクレインを影から支えた立役者だ。

「ああ。終わった」

「小さい女の子相手にえげつないことするよねー。ま、べつにいいけど」

 自動車工場から脱出したあと公衆トイレでクレインがスイッチを入れた靴底の発信機、あれはコンクイに自らの居場所を知らせるためのものだった。

 コンクイは東欧圏で活動する便利屋で、クレインがCIAの工作員として活動するようになって間もなく発見した個人的な協力者だった。あくまで金で雇っているだけであり、彼の存在はCIA本部や仲間の重装狐たちにも知らせていない。

「そのスーツを隠したあと急に行方がわからなくなったもんだから心配したよ。まあ、見つけるのは難しくなかったけどさ」

「発信機の信号だけじゃ追いきれないかと思ったから、少しだけ手心を加えたけどね」

「マーケットで騒ぎを起こしたのは僕に居場所を知らせるためかい?リスキーなことするよねー。敵に見つかる可能性もあったのに」

「それよりもキミの協力が必要だった。少なくとも、あの局面はボクだけでは乗り切れなかった」

「あの光の狐魂?」

 マーケットでウクライナ独立派の若者をクレインがぶちのめして以後、彼を発見したコンクイは姿を変え続けながらずっと後を追い続けていた。

 そして酸味ッ狐と遭遇したとき、コンクイはクレインやティーティーの姿を模倣して彼女を撹乱し、クレインたちを逃がすことに成功した。わざと微妙に似てない姿を装ったのは、ちょっとした茶目っ気というやつだ。

 酸味ッ狐の技が効果を失うと同時にタンブルウィードに変身したコンクイはそのまま転がって人混みから逃れると、特徴のない一般人や鳥、兎、ときに木や水溜りに化けて淡々とクレインの近くで行動を続けていた。クレインとティーティーが戦っているときも、湖のすぐ傍の林の中で木に姿を変えずっと様子を窺っていたのだ。

 それ以外にも、サイバースーツや各種道具の手配はコンクイの手によるものだった。

「彼女を移送するための手筈は整っているかい?」

「もちろんだよ。こっちはずっと準備して待ってたんだ、君も含めていますぐ国境の外へ出すことができる」

「それは重畳。たとえ死体であっても、狐魂は貴重な研究材料になる」

 トラブルメイカー、情報屋、そして運び屋。

 ずっとアンダーグラウンドで活動し様々な顔を持つコンクイは、じっとティーティーの亡骸を見つめるクレインに向かって、一言、つぶやいた。

「…君は相変わらずだよねぇ」

「?」

「残酷なフリをしてさ。なにもかもわかったような顔をしてさ。…本当は、自分がいちばん納得してないくせに」

「うるさいよ」

 コンクイの言葉を、クレインは一蹴する。

 その冷たい一言にコンクイはただ肩をすくめると、湖の近くに停めてあった長距離トラックの運転席へと身体を滑り込ませた。

 一瞬にして作業着を身につけた人間の労働者に姿を変化させ、クレインを急かすようにエンジンを始動させる。

 トラックの荷室には山のような雑貨と、そしてクレインとティーティーを収容するための偽装コンテナが詰まれており、すでに陸路から国境を越えるための手続きも済ませていた。高速道路から国境を越える際は、身分証や複数の書類の提示、そして簡単な検査だけで通過できるはずである。

「お客様、我がコンクイ・トラックサービスをご利用いただきありがとうございます。道中は大変揺れますので、シートベルトの着用をお願いいたしまーす」

 そう言うと、コンクイはトラックを発進させた。

 コンテナの中が大きく揺れたとき、シートベルトなんかついてないことに気がついたクレインは文句を言おうとしたが、もう手遅れだった。

 

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 かつて、自由を愛する狐がいた。

 彼女は他人の言いなりになるのを何よりも嫌った。というより、他人の主義を押しつけられることにうんざりしていた。

 誰にも邪魔されず、常に自分が自分自身でいられるために、狐は力を求めた。誰にも何も強要されず、ただ自由に振る舞うことを許されるだけの力を。

 しかしすぐ、彼女は鍛錬や修学だけでは限界があることに気がつく。どれだけ肉体を鍛え、技を磨き、戦術を研究したところで、それらをいとも容易く覆す「圧倒的な力」の前ではまるで無力であることを思い知らされることになる。

 もとはそういった強大な力に抗うためのはずの努力の限界があまりに浅いことに彼女は絶望し、もっと別の手段で力を身につける方法を探しはじめた。鍛えれば鍛えるだけ青天井で強くなる、などというのは、幼い子供向けの寓話の中だけの話だ。

 やがて彼女は「融合の秘術」と呼ばれる外法を知り、異なる次元…もう一人の自分が待つ別世界へと繋がるワームホールが安置された施設へと忍び込む。多元宇宙の交差する惑星、「あの男」が管理する要塞プロキシマへと。

 彼女…自分とは「別の彼女」が存在するその世界へと辿り着いたのは、ほぼ偶然だった。

 事前の数値入力によりある程度の指向性を持たせていたのは確かだが、それでも、「その世界」へ向かうことを確定的に確信していたわけではなかった。運が良いことに、ワームホールを抜けた先に待っていた「彼女」は非常に「取り込みやすい精神状態」だった。

 

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「…こ、こは……?」

 うっすらと目を開けたティーティーは、自分が何もない空間に立っていることを自覚した。床も天井もない、壁や境界のない、ただ真っ白な世界。いま自分は立っているのか、浮いているのか、あるいは落ちているのか、それすら見当がつかない。

 はて、ここはどこだ?自分はいままで何をしていた?

 …わたしは、誰?

 意識ははっきりしているのに、記憶がミキサーにかけられたコンクリートのように重く、鈍い。すべてが灰色であやふやで、泥のように不定で形がない。それでも不思議と、不安や不快感はなかった。

 そのとき、どこかから声が聞こえてきた。

「ようやく起きたか、のろいぜ寝坊助。相変わらず呑気なヤローだ…まったくよ」

 呆れたような、責めるような、それでも棘や嫌味のない声は、すぐ、自分の目の前に浮かぶ少女の口から発せられたものだと気がついた。自分と瓜二つの少女から。おなじ名前、おなじ肉体、そして、まったく似ても似つかない心を持った少女。

 恩人であり義理の家族であった人々の死に傷つき、打ちのめされたティーティーに手を差し伸べた少女。

「いきなり押しかけて、勝手なことをして…ひょっとしたら、嫌な思いをさせちまってたかもしれないな」

 ティーティーの隠された才覚を見抜き、常に引っ込み思案なティーティーの手を率先して引っ張り、行動に駆り立てた少女。

「今だから白状するが、最初は本当に、打算でオマエと付き合ってたんだぜ。こんなことを言って、きっとオマエはオレを軽蔑するだろうな」

 自由奔放で、何者にも縛られぬその姿は、まさしくティーティーが憧れる存在であり、いつしか自分も彼女のようになりたい、彼女のようでありたいと願うようになり。

「…そんなわけだ。ようやく厄介払いできるんだ、もっと喜べよ」

 普段は溶け合っている二つの心が、ときおり分離し個々の人格として現れるとき、常に「自分ではない自分」を意識していたティーティー。

「…ぇ…ぃま、な…んて……?」

「もうお別れだ、と言ったんだよ。察しが悪いぜ相棒」

 ティーティーには、彼女の言葉の意味が理解できなかった。

 彼女がただ力を欲し、それだけのために融合したことは最初から知っていた。二つの心が不完全に交じり合ったとき、互いの記憶、精神性、そういったものが共有されたのだから、なにをいまさら…とティーティーは思っていた。

 そして融合したあと、ずっと彼女が自分のことを気にかけてくれていたことにも、もちろん気がついていた。

 放埓な彼女の振る舞いに困らされたことも一度や二度ではないが、そのことを本気で嫌がったことはなかった。ミスター・スティーブを殺したときも、あれはあくまで自らの意志で行なったものであり、それでも躊躇する自分を見かねて殺人行為を代行してくれたのは彼女だったのだ。

「いままで、まぁ…いろいろあったが…徹頭徹尾満足ってわけにはいかなかったが、それでも、まあ、楽しかったよ。オマエと一緒にいられて」

「…ちょ…え?ゃ、ま…待っ…」

「そろそろオムツが取れてもいいだろ。大丈夫、オマエは自分で思ってるより全然強いんだからよ。オレなんかよりも、ずっとな」

 彼女は。

 彼女は、別れを告げようとしていた。それはティーティーにも理解できた。

 そしてティーティーは期待していた。次の言葉を。「そのうち会おう」とか、「いつかまた」とか、そういった気障な台詞が彼女の口から飛び出してくることを半ば確信していた。

「あばよ。元気でやんな、泣き虫ちゃん」

「待…ま、ぁ、ゃぁあ…行、かな…いで……!」

 彼女は、そのままティーティーに背を向けた。どうやら自分の顔を見せたくないようだった。

 そして彼女は言わなかった。決して。再会を匂わせるような言葉は、単語は、たったの一言も。ほんの欠片さえも。

「じゃあな」

「ゃ…いやあぁぁぁぁぁあああああ行かないでええぇぇぇぇえええええぇぇぅぅぅぁぁあああぁぁぁぁ!!!!」

 

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「…… …… ……!!」

 目が、醒めた。

 清潔なシーツ、全身に巻きつけられたチューブ。点滴。生命維持装置。

 ティーティーは柔らかなベッドの上に横たわっていた。

 わからなかった。なぜ、自分がここにいるのか。

 自分が誰なのか。

 過去も記憶も何もかもが虚空の彼方に消え去り、捻じれた複雑な感情の「しこり」だけが薄気味悪く残っている。

 さっき見たはずの白昼夢でさえ、すでに輪郭を失いおぼろげな霧のようにあやふやな存在となっていた。

 ただ、一つ。

 たった一つだけわかっているのは、自分がなにか、大切なものを、失ってしまったということ。

 それがなんなのかすらわからないまま、ティーティーは天井を見つめ、ため息をつく。

 理由のわからない涙が一筋、頬を伝った。

 

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 無事に合衆国への帰国を果たしたクレインは、義体を修復するため組織が非公式に運営しているメディカル・センターへと足を運んでいた。

 ここでは新型CONスーツをはじめ狐魂に関する各種技術開発が行なわれており、またクレインたちが任務地から連れ帰った狐魂の収容施設も兼ねている。

 公用・私用を問わずクレインは度々この施設を訪れていたが、仲間であるベケットとチャペルはあまりこの場所には来たがらない。はっきりと嫌っているわけではないが、多少の嫌悪感を抱いているのは事実だろう。

 任務で連れ帰った狐魂はたいてい簡単な心理テストと教化過程を経て組織への協力を受け容れるが、もちろんそうでない狐魂もいる。

 ここではそういった、反抗的な狐魂への実験的な洗脳処置…のみならず、肉体や能力の限界を試すためのテスト、地球に降り立った過程で失われた外宇宙の記憶の強制サルベージ、医薬品の投与、解剖実験といったあらゆる試みが行なわれている。

 そういったものを、クレインは極力その目で見、確認し、記憶し、脳裏に焼きつけようと常に考えていた。

 現実というものを認識するために。

 また、狐魂という種への理解を深めるために。

 自分が与している組織がどういった知識を求め、そして得ているのかを正確に把握するために。

 組織がいかなる非道な実験を行なおうと、クレインが批判することはない。ただ、見るだけだ。中立的な立場の傍観者の枠を出ることなく。

 そういうクレインの性格を理解している組織は、ベケットやチャペルよりもクレインに信頼を置いていた。それはつまり、他の二人には頼まないような汚れ仕事を任せる、という意味でもあった。

 断れば、他の人間が代わりにやるだけだ…そのことを知っているクレインは、どんなウェット・ワークも黙って引き受ける。

 もちろん、そのことを仲間に知らせることはない。ベケットやチャペルにとって、クレインは今も変わらずクソ映画が大好きの気の好い変人でしかない。とはいえ、クレインが自分たちよりも組織の暗い側面を見ていることは薄々勘付いているようだったが。

 然るべき医療措置を受けたのち、研究ラボから出ようとしたクレインは一人の狐魂に呼び止められた。

「クレイン、ちょっと来てくれ。見せたいものがある」

 そう言ってクレインの肩を叩いたのは、長年合衆国政府のために研究を続けてきた女性。名をライアンという。彼女もまた、狐魂だった。

 重装狐シリーズの生みの親であり、CONアーマーの開発者。魂を肉体から分離させ独立保存できる装置ソウルコンテナ・システムの発案者であり、狐魂用義体の製造者でもある。

 つまり彼女は、合衆国が保有する狐魂技術のほぼすべてに関わっている狐魂だった。

 CIAの任務にも深く関わっているが、彼女自身がCIAに所属しているのかどうかをクレインは知らなかった。そもそも、ライアンの正式な所属部署を知る者はいなかった。誰一人。どの組織にも所属していないのかもしれないし、あるいは、あらゆる組織をかけ持ちしているのかもしれない。

 ひょっとしたら大統領ですら彼女の正確な素性を知らないのではないだろうか。少なくとも、ヴェトナム戦争時に設立された最初期の狐魂ラボのメンバーの写真に彼女の姿が写っていることはクレインも確認していた。

「なんですか、見せたいものって。ナイスバデェーな狐魂のチャンネーのストリップ調教でもしましたか」

 事実上親と言っても過言ではないライアンに対しては、普段は上司に対してすら不遜な言動を放つクレインもやや丁寧な口調で応じる。その台詞の内容は相変わらず不穏であったが。

 無表情なクレインの発した渾身のボケを聞かなかったフリで流しながら、ライアンは廊下の先を指さす。

「あれだ」

「…彼女は……?」

 隔壁や防弾ガラスに囲まれた長い長い廊下の先に立っていた少女。

 それは、見間違うはずもない。

 赤い頭巾と長い前髪で顔を覆い、うつむき加減にちょこんと立つ小柄な少女は、間違いなくクレインが東ウクライナの湖で惨殺したティーティーだった。遺骸をこの研究ラボへ持ち込んだのは確かだが、一切の生命活動は停止していたはずだ。

 同種の別個体だろうか?

「まさか、融合体の蘇生実験に成功したんですか…!?」

「ああ。蘇生というよりは再構成に近いが」

 驚くクレインの隣で、ライアンが「火気厳禁」の壁文字を横目で見つめながら煙草に火をつける。

 そう、いま二人の目の前にいるティーティーは、たしかにクレインが殺したあの少女だった。

 クレインが殺したのはティーティー一人。しかし彼女の肉体には二つの魂、二人分の生命エネルギー、二人分の霊力が内包されている。そのことを利用し、融合前の単一個体に近い状態へ再構成するための実験をライアンはかなり以前から行なっていた。そのことはクレインも知っていた。

「いままで行なってきた実験は、すべて失敗したと思っていましたが」

「そうだ。もともと一つの肉体に二つの魂は入らない、これは二重人格どうのとは別の次元の話だ。融合の秘術が悉く失敗するのも、そのためだ。余剰エネルギーを利用した肉体の再構成にあたり、二つの魂を一つにしなければならない。片方を切り離して消却するか、余分を削り落として不完全な融合魂を無理矢理押し込めるか」

「切り離した魂をソウルコンテナに保管する実験は失敗してましたね」

「一度でも融合した魂は、二度と元の状態には戻らん。混ざった絵の具を分離させることができないように。いずれの手段を取るにせよ、他者の魂の介在によって不純物が混じった状態となった魂は決して健全なものではない」

 これまでに捕らえ、蘇生実験の対象となった融合体はみな、不適格な魂と肉体が拒絶反応を起こし死亡したか、あるいは肉体と精神のいずれか(あるいは両方)が部分的に「崩れ」、生命とも呼べないただの有機体(オブジェ)と化し、焼却処分された。

 では、目の前の少女は?

「実験が成功したということは、魂を綺麗に分離させる方法が確立されたのですね?」

「…… …いや」

「え?」

 期待していた、当然あると思っていた返答がなかったことにクレインは驚き、人目憚らず煙草の灰をその場に落とすライアンの横顔を見つめる。

 大きく息を吸い、煙草の先が焼け、ゆっくりを紫煙を吐き出してから、ライアンは言った。

「正直に言って、なぜ今回の実験に限って成功したのか、私にもわからん。蘇生実験中、なぜか魂が綺麗に分離したのだ。自律的に。あんな光景ははじめて見た。これから実験データの再検証を行なうが、おそらくはかなりのレアケースなのだろうな」

 驚きを隠せないクレインのもとへ、と、てててて…ティーティーが小走りに近づいていく。

 戸惑いながらも彼女の姿を見つめるクレインに、ライアンが言った。

「彼女には最高度の記憶処置が施してある。君のことは憶えていまい、おそらく今の状態では自分が何者であるかすらわかっていないはずだ。怖れることはない…もし、彼女に対して後ろめたい気持ちがあるなら、だが」

 その言葉に、クレインは安堵のため息を漏らす。その自分の態度に嫌悪を抱きながら。

 すべて忘れるがいい、悪い夢は…過去も、死んだ仲間のことも、自分が死んだことも。

 そんな思いでティーティーを見つめるクレインは、彼女の次の行動に驚かされることになった。

 げしっ。

 蹴られた。

 げし、げしっ。

 蹴られた。ふたたび。今度は二度も。

「いたい」

 ティーティーにすねを蹴られたクレインは、若干傾きながらも無表情につぶやいた。

 げしっ。

「いたい。いたいよ」

「おかしいな。記憶処置は完璧なはずだが」

 執拗にクレインのすねを蹴り続けるティーティーに、ライアンが首を傾げる。

 事実、ティーティーはクレインに関する記憶を完全に無くしていた。目前にいるこの男が誰なのか知らなかったし、もちろん初対面だと思っていた。そのはずだと。

 しかし彼女は本能的に、クレインが「良くないやつだ」と察したのだ。

 自分の身に起こったらしい、なにか良くないこと、悲しい感情、胸にぽっかりと空いた穴、空虚さ、それらすべての原因はこの男にあるに違いないと、ティーティーは記憶や知識や思考ではなく、本能的に悟ったのだ。

 そして、おそらく彼女がそのように感じたであろうことを、クレインもすぐに理解した。

 ティーティーはクレインを蹴り続ける、まるで彼を咎めるように。無言のまま。

 痛いと口では言っていたが、実際のところ、クレインは肉体的な痛みはほとんど感じていなかった。まだ蘇生して間もない目前の少女は赤子も同然の状態であり、碌に力も入れられないような、憔悴した状態だったのだから。

 それでもクレインは痛みを感じていた。胸の奥に、心の中に。

 なにも知らない、小さな少女に一方的に蹴られて、それに対して文句の一つも言う資格が自分にないことをその場で自覚させられたクレインは、ただ、じっと痛みに耐えるしかできなかった。

「…… …… …あっ」

 やがてティーティーは蹴るのをやめ、顔を上げ、クレインを見て驚きの声を上げる。

 クレインは泣いていた。

 

 

 

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