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「グレアム尊士の好き勝手放題」

      

 

      

『コンコンコレクター - SHOP SQUAD -』

- 2nd Season -

Chapter_03 【 血のように紅く - Alaya Krov - 】 Part_1

 

 

 

 

 

**      **      **      **      **      **

 

 

 

 いつここに連れてこられたのだろう、連れ込まれてから、どれだけ時間が経っているのだろう。

 おそらくは自分が思っているほど長く経ってはいまい、すべては一瞬の出来事だった。

 ゴッ…ガッ!

 余計なことを考えている間にも、執拗な殴打が続けられる。

 東ウクライナ民主共和国首都ハリコフ郊外、市街地から離れた工業地帯の一角。

 おそらくは倉庫か何かと思われる施設内で、クレインは木製の固い椅子に縛りつけられ、目隠しをされた状態で尋問を受けていた。

「いい加減に本当のことを話したらどうだい、エッ!?こっちはいつまでも下らない話に付き合ってる暇はないんだ!」

「ウッ…ゲホッ。ほ、本当になにも知らない…言ったろう、ボクはただの観光客だっ、が、ぐあっ!?」

 ガスッ!

 クレインが言葉を言い終わらないうちに、強烈な拳の一撃が目の上に叩き込まれる!

 その衝撃でクレインの身体が大きく傾き、そのまま椅子ごと横倒しに床へ叩きつけられた。倒れたときにクレインの首ががくりと揺れ、その勢いで目隠し用の黒い布が外れる。

 はらり…布が目から外れ、しばらくぶりに鮮明になった視界に写ったのは、血まみれの包帯をきつく手に巻きつけた女性の姿だった。迷彩柄のジャケットに身を包み、ポニーテールにした栗色の髪がふわりと揺れている。女性の名はミンブ、ウクライナで活動する親ロシア勢力の過激派の一員で、狐魂だった。

 鼻と口から血を吹き出し、顔中痣だらけの無残な姿を晒すクレインを前に、ミンブとおなじ組織の構成員らしい狐魂たちが口々に囃したてる。

「あっはっはっ、ひどぉーいミンブ姐さん、そのヒト顔変わってるじゃぁーん。あははははは!」

「どうせ死ぬなら早く楽になっちゃったほうがいいのにねー」

 まるでサーカスの道化を見ているような態度で談笑を交わすのは、薬瓶を片手に鋼のような銀髪を指先でいじるヒナゲシと、東洋風の白装束を羽織りつつも露出の多い肌を惜し気もなく晒すフーコ。

 苦しげに息を吐きながら、クレインは首を動かさずに周囲を見回す。

 どうやら倉庫のガレージらしいがらんとした空間に、雑多に積まれた資材や家具に腰かけた狐魂たちが皆クレインに注目している。見たところ、構成員は女性ばかりのようだ。そのことを喜んでいいのかどうかはわからなかったが。

「ちょっとぉ、笑い事じゃないわよ。イイ男が台無しじゃない、あン、勿体無い」

 女性にしてはやや野太い声でそう言ったのは、絹の着物を優雅に着こなすハクオウ。身の装いや化粧の技量などは女性顔負けだが、そのがっしりとした厳つい体格はどう見ても女性のそれではなかった。

 前言撤回だ…「女性ばかり」という自分の認識に訂正を加え、ひとまず呼吸を整えようとしたとき、クレインの顎がミンブに踏みつけられた。

「うぐっ」

「もう一度訊くよ、アメリカ人。ここへ何しに来た?」

「いちおう、血はウェールズ産なんだけどね…うぐっ!?」

 苦笑いを浮かべながら返答するクレインを踏む足に、ミンブがさらに体重をかける。鉄板入りの軍用ブーツによる重圧はかなりのものだった。

「顎が砕けたって死にゃあしないよ。生きるのは不便になるだろうがね…それが嫌なら、余計な一言は抜いて話しな」

「くがはっ、かっ…何度でも言うけど、ボクはただの観光客で、あんた達が誰なのかも知らないし、自分がなんでこんな目に遭ってるのか見当もつかないんだ。嘘だと思うなら、荷物でもなんでも調べればいいじゃないか!」

 苦悶の表情を浮かべながら、クレインはそう言って視線を床に転がっているリュックサックへと向けた。

 彼女らに拉致される前にクレインが身につけていたそれはすでに中身がぶち撒けられており、いまどき珍しいというよりは骨董品と言ってもいいVHSのパッケージがあちこちに転がっていた。いずれも露天で売られていた、低予算ビデオ映画のものだ。

 それら奇特な品々を一瞥し、ミンブが呆れたようにつぶやく。

「ひょっとしたら、あんたは本当に趣味の悪いイカレた観光客なのかもしれないさ。少なくとも、あの中からはあんたの身分を証明できるようなものは一切見つからなかった…えぇ、随分と用心深いじゃあないか、観光客さん?なにより問題なのは、あんたが見つかった場所さ」

「ホテルの部屋を間違えたんだよ!鍵もかかってなかったし…」

「にしては長居をしてたねぇ、まるで探し物があったみたいにさ。まるで、あの部屋の借主に用があったみたいにさ」

 そこまで言うと、フン、ミンブは鼻を鳴らし、クレインを踏みつけていた足を引っ込めた。

「強情なやつめ。少し疲れちまった、休憩を挟もうじゃないか。その間にあんたが心を入れ替えてくれるのを期待してるよ…ティーティー!」

 ミンブに大声で呼ばれ、赤頭巾の少女がビクリと肩を震わせる。

 おずおずと腰を上げ、顔を伏せたまま近づく少女ティーティーにミンブがぴしゃりと言いつけた。

「こいつを見張ってな。まぁ縛られたままで、どうこうするってこともないだろうが…念には念だ。逃げられるようなヘマをするんじゃないよ、わかってんだろうね」

「ぁ、は…はぃ……」

 ティーティーの小さな返事を待たず、ミンブは他の仲間を引き連れてその場を出て行く。

 一団がクレインへの冷やかしを口にしながらぞろぞろと出ていったあとは、静寂が残った。

 クレーンに吊られた自動車のフレームや、粗大ゴミ置き場から拾ってきたようなカビ臭いソファを見回してから、クレインはティーティーに声をかけようとした。額を流れる血が目に入りそうだったので拭いてほしかったのだが、すぐに思い直し口を閉じた。血はもう固まっていた。

 それに頼みごとをしても、それが聞き入れられることがまずないだろうと思っていたのだが、ティーティーはクレインが望んでいた以上のことをしてくれた。

 クレインを縛っていた縄を切ったのだ。

「…… …… ……?」

「まだ…動かないで…他のひとが、戻ってくるかも…」

 予想外の成り行きに目を丸くするクレイン、一方でティーティーは中型のハンターナイフをスカートの中に隠すと、人差し指をそっと口にあてた。

 しばらく二人は息を潜め、誰かが忘れ物を取りに来たり、個人的な拷問を加えに来たりしないかどうかを警戒した。やがてミンブたちがしばらくクレインへの興味をなくしたらしいことを確認すると、ゆっくり立ち上がり、ミンブたちが出て行った扉とは逆方向の通路へと向かい、小部屋を通じて裏口を出た。

 施設の構造や人員の配置を熟知しているらしいティーティーのあとにクレインがついて行く。

 もともとここは過激派の隠れ家的な施設らしく、武装した守衛が目立つような巡回をしていたわけではない。それが、二人の脱走を手助けした。

 どうやらクレインが捕らえられていたのは、現在は稼働していない廃工場のようだった。ウクライナは鉄の産出量が多くかつては旧ソ連圏の鉄鋼製品や車輌の生産などを一手に担ってきたが、二十一世紀に入ってからの世界的な不況と内戦で産業に壊滅的な打撃を被っていた。

 窮地を脱したことで多少心にゆとりができたクレインは、おそらく旧ソ連時代から更新されていない古びた設備を眺めながらつぶやく。

「内需が激減したとき、量より質の方針に転換できればよかったんだろうけどね」

「……え?」

「この工場さ。閉鎖されたのは最近だろう?失業率の増加は治安の悪化に繋がる。不満の矛先は不安定な社会に向けられる…キミの仲間にも、居場所をなくして闘争に参加してる子だって、いるんじゃないのかい」

 唐突にそんな話を切り出されたことに困惑したのか、ティーティーはその言葉には答えず、ただ顔をうつむかせた。

 話の内容を理解できなかったわけではないだろう。目を伏せるその一瞬、「余所者になにがわかる」といったような類の拒絶の意思を垣間見せたのは、あるいは気のせいだったのだろうか。

 このテの雑談で不和を招いても仕方がない。

 それ以上の突っ込みはせずに両者黙したまま、淡々と歩を進める。やがて公衆トイレを見つけると、クレインはティーティーに一言断りを入れて男子便所へ入っていった。

「いちおう、プライバシーは気にする主義なんだ。いや、逃げたりはしないよ。すぐに済むから」

 まさかついていくわけにもいかず、クレインから目を離すことに若干の逡巡を見せるティーティーに、クレインはふっと笑いかけてから背を向ける。

 公衆トイレの異臭が言下に尽くし難いのは万国共通だ。そこに清潔さを求めるのは、世界平和を求めるのと同等の野暮である。クレインは僅かに鼻筋を歪めてから、ほかに誰もいないことを確認しつつ洗面台の前に立った。

 錆びついた蛇口の栓をひねり、じゃばじゃばと大量の水を流しながら顔を洗う。鉄の味は自身の血か、それとも水道が老朽化しているせいか。水に濁りはなかったが、どのみちいまは健康を気遣うような気分ではなかった。

「…プハッ」

 幾度か顔をすすぎ、ガフガフと水を飲んでからクレインは顔を上げる。

 冷水で頭を冷やしたおかげか、執拗な拷問で朦朧としていた意識もはっきりとしてきた。

「…エレガントじゃないよねぇ……」

 血は洗い流せたが、顔中にできた痣はどうやっても隠せそうにない。暫くは人目を惹くことになるだろう、人間に偽装するときは尚更…毛の少ない肌では余計に目立つ。

 もちろん、これはクレインの望んだ展開ではなかった。へま、失態、言い方はなんでもいいが…そもそもエージェントの行方が不明になった時点で、「網を張られていた」ことくらいは警戒しておくべきだったのだ。

 いや…クレインはかぶりを振る。おそらく今回のは、用心しても無駄だったろう。それだけ連中の手は鮮やかで、手馴れていた。

「やるじゃあないか、アカの手先のお○○○ブタも」

 割れた鏡に向かって、クレインはニヒルな笑みを浮かべながらそう言った。もちろん、それはただの負け惜しみだった。せつない。

 フウ、クレインはため息をつき、手を切らないよう気をつけながらガラスの破片を鏡の枠から引き抜く。

 レザースラックスのポケットを探り、ハンカチがまだ残っていることに安堵してから(大抵のものは捕まったときに取られてしまった)、それをガラスの片一方へと巻きつけてグリップがわりにする。即席ナイフの完成だ、こんなものでも無いよりはマシだろう。この先、なにがあるかわからない。

 それを洗面台の上に置いてから、クレインはブーツの踵部分を取り外して内蔵されていた半導体のスイッチをオンにした。これも、ミンブたちが気づかなかった持ち物の一つだ。これは定期的に特定の帯域のGPS信号を発信し続けるもので、窮地に陥ったときに仲間に自分の位置を知らせるためのものだ。

 バッテリー駆動で二十四時間は作動し続ける。もっともそれが故障していない保証はなかったし(動作確認用のソフトウェアが入ったスマートデバイスは取り上げられてしまった)、この国の警察や軍隊に信号を追跡される可能性もある。

 もっとも電気信号だらけの世の中で、どこの誰とも知らない輩が発するGPS信号を警戒するほど暇なやつがいるだろうか?今日びは老人の迷子防止用に信号発信ソフトをスマートデバイスに入れておくことも珍しくはないのだ。

 半導体が内蔵された踵部分をふたたびブーツに装着し、ガラス片の即席ナイフを鏡がわりに見つめながら髪形をすこし整えると、それをジャケットの下に隠してからクレインはトイレを出た。

「お待たせ。すこしはイケメンに戻ったかな」

「えひゃっ!?」

 おそらく周囲を警戒していたのだろう、外に視線を向けて気を張っていたティーティーにクレインが声をかける。

 不意に声をかけられたせいもあるだろうが、予想外の動揺を見せる彼女を一瞥して、クレインは「そもそも彼女はどういったのだろう」と頭を捻った。

 見るからに気の弱そうな、荒事向きには見えない少女。

 そもそもミンブたちのような荒くれとつきあっていること自体が理解に苦しむのだが、ティーティーがそれを望んだのか、あるいは状況が彼女をそういう立ち位置に追いやったのかはわからなかった。

 もちろんティーティーがクレインを連れ出してから今に至るまで、一つの疑問が頭から離れなかったことは確かだ。

「ところで…キミは、なんでボクを助けてくれたんだい」

 その質問は、当然されて然るべきものだった。

 ティーティーもそれを予測していたのか、この言葉に動揺の色は見せない。しかし、その小さな口を開いたのはたっぷり六十秒は逡巡してからだった。

「…かわいそう、だったから」

「かわいそう?」

「だって、もし…本当に、ただの、普通の人なら…かわいそうだから」

「そうか」

「それに」

「それに?」

「それに」

 そこで、ティーティーは一旦言葉を区切った。

 それに、なんだ…頭に浮かんだその言葉を、しかしクレインが口にすることはなかった。急かすつもりはなかったし、彼はこういうやり取りを苦にするタイプではない。

「それに…もし、もしあなたが、悪い人でも…あれは、ひどい。かわいそう」

 その言葉を捻り出すのに勇気が必要だったのは、それが組織の理念に反するからだろう。ことにミンブが耳にすれば、「外敵に情けなど無用」と烈火の如く怒り狂うに違いなかった。

 しかし「悪い人」とは…ティーティーの語彙にクレインは内心で苦笑しながらも、その言葉が意味するところを慎重に考えたものか少しだけ思案した。

 親ロシア派にとって西欧の全体主義が「悪」と見做されることはしばしばある。もしクレインが西側の工作員だとすれば、たしかに彼女たちにとっては「悪い人」なのだろう。そこに言外の意はないはずだ。

 まさか、助けた動機が純粋に同情からだとは思わなかったが…いまだにクレインとまともに目を合わせようとはしないティーティーだったが、その行動はひどく勇気がいるものだったはずだ。彼女は見た目ほど臆病ではないのかもしれない。

 クレインの視線を意識してか、よりいっそうフードを目深にかぶるティーティーの頭の上に手をポンと置き、クレインが言った。

「ありがとう」

「…そんな……です……」

 たぶん、「どういたしまして」と言いたかったのだろう。

 口下手なティーティーに微笑みかけながらも、クレインは今後どうするべきかを慎重に考えなければならないと頭を悩ませた。

 いちおう靴底に隠した装置から緊急救難信号を発信したが、クレインはまだこの国でやるべきことが残っている。そのうちミンブたちが追求の手を伸ばしてくることを考えれば、悠長に応援を待つ余裕はない。

 それに、ティーティーだ。

 彼女はミンブたちの意図に反してクレインを助けた、そのことを疑う余地はないだろう。まさかこの小さな同胞に手酷い真似はすまいが、彼女が逆賊としてかつての仲間に捕らえられた場合、それがどんな結果を招くのかは予測がつかない。

「キミは…これから、どうするんだい」

「…… …… ……ぇと」

 ふるふるふる。

 クレインの質問に、ティーティーはただ首を横に振る。

 無口と口やかましいのは同じくらい扱いにくいな、とクレインは思いながら、一度に一つの単語しか口にできないなら、イエスとノーしか口にできないのだとしたら、それ用に質問をあつらえるだけだと考えた。

「また、あそこに戻るのかい」

「…… …… ……ぅ~……」

「キミはボクの見張りだった。いま手ぶらで帰っても、まあ…不意を突かれた、必死に追ったけど逃げられた、という言い訳が通らないでもない、かもしれない。かなり苦しいけどね」

「…… …ぁぅ」

「もし、戻れないなら…ほかに、帰る場所はあるのかい?キミは普段、どこに住んでいるの」

「…みんな……みんな、と、いっしょ」

「みんなと一緒、ね。もし戻れないなら、帰る場所もなくしたってことか」

「はぅ」

「…もしよければ、ボクと一緒に来るかい」

「…… …… …ぇ?」

「いますぐじゃないけどね。用事が済んだら、すぐにこの国を出る。パスポートはあるかい?」

「…ぁ、はい」

「それじゃあ安心だ。鉄道は空港よりもチェックが甘いからね、まずは国際鉄道で西ウクライナへ渡ったあと、スロバキアを経由してチェコのプラハ国際空港から飛行機でアメリカに帰る。ウクライナを出たあとの手続きに関してはボクに任せてくれればいい」

「……?……、…ぁの……?」

「なんだい?」

「…かんこう、きゃく?」

「うん」

「はぅ」

 ミンブに自白したような、ただの観光客にしては手際が良過ぎる段取りに疑問を挟むも、クレインに即答されたティーティーはそれ以上突っ込みを入れることができずに顔を伏せる。

 もちろん正体を疑われる懸念はあったが、クレインとしては余計な気を回して時間を無駄にしたくはなかった。

 それにクレインが西側の工作員だったと知っても、いまさらティーティーが手のひらを返すことはないだろうという確信もある。

「ところで、その耳と尻尾…隠せない?」

「…ゃ、その……ごめんなさい……」

「参ったな」

 義体の偽装能力を使って人間そっくりの姿に変身するクレイン、ティーティーの返事にすこし迷いを見せる。

 彼女は狐魂のなかでも、どちらかといえばヒューマノイドに近い外観だったが、やはりその大きくふさふさした耳と尻尾は目立つ。隣に立つ男が顔面痣だらけともなれば、その関係を疑うのが普通だろう。

 のちにハリコフ駅で集合することにして、クレインが用事を済ませるまでは別行動を取ることも考えたが、万が一トラブルに見舞われた場合、単独でいるほうが安全であるとは言い切れない。

 ティーティーの危機回避能力が未知数である以上、経験豊かなエージェントである自分が傍につくほうがリスクが少ないと判断したクレインは、行動中に周辺住民に怪しまれる可能性を考慮に入れても一緒に行動すべきだと決断した。

「まあ、なんとかなるか…なんとか、するか…な」

 

 なるべく人目を惹かないよう気をつけてはいたが、それでもある程度の関心を持たれるのは仕方のないことだ。

「堂々と歩くか?こそこそと歩くか?それが問題だ」

 どちらにせよ、結果はそれほど変わらないだろう…そう知っているのか、クレインはまるで他人事であるかのように、歌うような口調でそうつぶやく。一方のティーティーはクレインのジャケットの裾を掴んだまま離そうとせず、その表情はどこか不安げだ。

 工業地帯を抜けた二人は市街地のマーケットを歩いていた。追っ手の目を避けて移動するなら、むしろ人が多いほうが都合がいい。

「そうそう、ボクが映画のビデオを買ったのもここのマーケットでね。けっこう面白い露店が多いんだ、古いロシアのテレビドラマのVHSなんて他じゃ手に入らないしね」

「ぁ、はあ…」

 追っ手の存在を気にかけていないのか、あるいはティーティーの不安を和らげるために気を遣っているのか、クレインは他愛もない雑談を繰り返す。

「VHSってさ。繰り返し観てると、目に見えて画質が悪くなってくるんだ。テープの端からよれてきてさ、画面の上下に紫色の帯が出て、雑音も多くなってくる。そしてだんだん映像がぼやけてきて、最後にテープが切れるんだ」

「はぁ」

「なんていうかね、それが…いいんだよ……」

「…はぁ……」

 どこか熱っぽい口調で語るクレインに、ティーティーは若干ひきつったような表情で返事をかえした。

 マーケットは賑わっていたが、それでもどこか活気がなく、行き交う人々の表情は精気に欠けている。

 東西分裂という形でウクライナの内戦は一応の決着を見たが、いまも国境沿いでは軍の衝突が続き、国内でも過激派による破壊工作が立て続けに行われている。

 経済的な疲弊による失業率の増加に伴う治安の低下、多発する犯罪。

 さらには警官よりも高度に武装した民族組織が台頭し、西側に与するウクライナ独立派と親ロシア派との間で激しい対立を続けている。

 いま街をパトロールするのは警官ではなく、こういった民族組織のメンバーだった。おそらくミンブ達が所属する一派もそういう系統の一つだろう、大規模な組織の傘下に連なる一チームなのか、それともたんに小規模のグループで活動しているのかまでは知り得ないが。いまウクライナにはそういった連中が有象無象に存在している。

 いわば自警団のようなものだが、その主な目的は犯罪の取り締まりではなく対立分子の排除だ。そしてこれは噂に聞いただけだが、組織によっては地域の犯罪グループと結託することで資金調達の手段にしているという。

 そういう連中と関わり合いになるのは何より避けたかったが、向こうはクレインを放ってはおかなかった。

 そう、いまも。

 通りの反対側からカーキ色のジャケットを着たボーイスカウトのような二人組が歩いてきたとき、クレインは若干のイヤな気配を感じ取っていた。サングラスの下に潜む、理想と言う名の免罪符で社会への不満や憂さを晴らそうとしている連中、あれはそういう手合いだと直感が告げていた。

 なるべく視線を合わせないよう顔を下げ(現地人でもこういう連中を真っ直ぐ見るようなことはしない)、何事もないようそそくさと通り過ぎようとしたが、互いに行き違った直後、相手のうちの一人がクレインのジャケットの襟を咄嗟に掴んだ。

「зупинити його!(おい、止まれ!)」

「що є?(なんだい?)」

 急に呼び止められたクレインは大きな手振りで「何事か」と示す。

 青年たちはクレインを見つめ、ティーティーに視線を移し、改めて痣だらけのクレインの顔を見ると、眉に皺を寄せながら詰問してきた。

「будь-яких проблем?(なにか問題でもあったのか?)」

「Не беріть в голову,  ви не дбаєте(なんでもない。心配はいらないよ)」

「хто вона. дух лисиці?(その娘は何者だ。狐魂か?)」

「ах, безпечний випадково, околиці. доставити поліцією зараз(あー、たまたま近くで保護してね。これから警察に届けるところなんだ)」

 ジロジロとティーティーの姿を観察していた二人は、すぐに彼女の耳と尻尾の存在に気がついた。

 そして一言、仲間内で耳打ちを…非常に小さな声で…する。

「виявилося, що вона」

「що?(なんだって?)」

 聞き取れなかったのか、クレインは思わず訊ね返す。しかし相手はクレインを一瞥すると、なにやら値踏みするような目つきで睨みつけただけだった。

 話す気がないならそれでいいさ、クレインも相手に胡散臭そうな視線を返し、小声でティーティーに話しかける。

「…このあたりの事情に関しては、キミのほうが聡いと思うんだけど。彼らに見覚えは?」

「……さぁ…」

「ひょっとして、キミの仲間じゃないのかい?キミを追って…あるいは、キミと逃げたボクを追って…きたのかも」

「…あるいは、そう、かも」

 ミンブたちと同じく親ロシアの民族組織の一員ではないか、というクレインの見解に、ティーティーは曖昧な返事をかえす。

 近しい存在ではないにしろ、かつての仲間だったかもしれないという言葉にクレインは素早く思考を巡らせた。

 すくなくとも、狐魂の存在は知っているわけだ…たんに図太い神経をしているだけなのか、ミンブたちのように現地で活動している狐魂が多いか、あるいは狐魂が同胞として活動していることを知っているのか。

 クレインたちを探しに来たのか、たまたまパトロール中に出くわしてしまったのか、いずれにせよ彼らにティーティーを任せようという気にはなれなかった。どうにかして、この状況を脱しなければ。

 一方であてつけるように内緒話をはじめたクレインとティーティーを見咎め、相手が恫喝するように鋭い声を張り上げる。

「те,  що ви говорите?(いったい何を話してる?)」

「Ви не хвилює(べつに)」

「ми повинні прийняти її. Ви здавати, тепер(彼女は我々が預かる。いますぐ引き渡したまえ)」

「немає. я довіряти правоохоронним органам, ти мені не подобаєшся(断る。彼女の処遇は法執行機関の手に委ねられるべきだ、キミたちではなく)」

 まったく恐れる様子を見せず、毅然とした態度で対峙するクレイン。

 もっとも、それが相手のカンに触ったらしい…相手のうちの一人が頬をひくつかせた、その一瞬後。

 相手の青年は懐に手を突っ込み、軍用ジャケットの下から四インチ銃身のリボルバーを抜くと、間髪入れずにクレインに向けようとした!だが、しかし!

 …、スッ…ヒュンッ!

 青年が銃を抜いてから、クレインの額に向けるまでの、ほんの刹那。

 クレインは黒のレザージャケットの内側に隠していた即席のガラスナイフを引き抜き、青年の手を斬りつけて肉を大きく抉り取った!刈り取られた皮膚と肉が鮮血とともにはじけ、白い骨が露出する!

 悲鳴が周囲一帯に響きわたり、青年の手を離れたリボルバーが宙を舞った。

 すぐさまクレインは手を切られた青年の足を払うと同時に首筋に肘を叩きこみ、その場に昏倒させる。もう一人の青年が肩にかけていた軍用ライフルをかまえようとしたが、それもクレインのガラスナイフの一振りによってスリングを切断され、しっかりと握るまえに取り落としてしまう。

「このまま、キミの首をかっ捌くのはじつに簡単なんだけどね」

 そうつぶやき、クレインは青年が落とした軍用ライフルを蹴り上げた!

 銃身を蹴られ、回転しながら垂直に飛ばされた軍用ライフルの銃床が青年の顎にクリーンヒットし、青年はそのまま仰向けにどうと音を立てて倒れる。

 最後に…クレインはようやく頂点から落下をはじめたリボルバーをキャッチすると、慣れた手つきでシリンダーを開放し、ジャラジャラと弾をその場で地面に撒いてしまった。

 あっという間の出来事を目前に呆然とするティーティー。

「…ぁ……」

「コルダイトの匂いは趣味に合わないんだよねぇ」

 そう言って、クレインはリボルバーをガラクタか何かのように、その場に放り投げる。ついでにガラスナイフもその場に落とし、踵で踏み砕いた。

 小競り合いが絶えない土地柄や時勢とはいえ、通りを行き交う現地人もさすがに驚きを隠せない様子でクレインたちを遠巻きに眺めている。しかし積極的に干渉する気はないようだ。

「先に手を出したのは向こうだし、ましてや銃器なんて…ねぇ?ま、これは正当防衛ってことで」

 いまひとつ説得力に欠ける気はするが、とクレインは自分自身で思いながらも、申し訳程度の言い訳をまわりに言い聞かせるようにしてつぶやくと、ティーティーを連れてその場をあとにした。

 

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 クレインたちが騒ぎを起こした、その数刻後。

 工場地帯の一角にある親ロシアの過激派のアジトにて、フーコが一枚の紙切れを持ってヒナゲシのもとを訪れていた。

「やっほーヒナちゃん、いまお手空き?」

「なによぉ」

 虹彩異色の少女は不機嫌そうな顔つきでフーコを見つめ返し、苛々と爪を噛みはじめる。

 彼女が腰かけるテーブルの上には、大量の本がうず高く積まれていた。相手に気持ちを上手く伝える方法、手紙の書き方101、恋愛に関するハウツー本といった他愛のないものから、暗号解析に関する専門的な学術書や市販されていない軍事用無線のマニュアルなどが雑多に散らばっている。

 ヒナゲシはそれらを乱暴に押しのけると、プラスチック製の薬瓶を幾つか掴み、複数種の錠剤やカプセルを適当に混ぜ合わせて口の中に放り込んだ。

 プロザック、ソラジン、ザナックス、ジアゼパム、アンビエン…いずれも抗鬱剤・精神安定剤・睡眠剤で、依存性や副作用がかなり強く、まして同時に服用するような代物ではない。

「あのねーヒナちゃん、それ駄菓子じゃないんだよ?毎日そんなふうにオクスリばっか食べてたら死ぬよ?ていうか人間ならとっくに死んでるよ?」

「うるっさぁーいな、このおしゃべりフーコ!いいじゃんまだ死んでないんだからぁ!」

「…ついでにその薬、タダじゃあないんだけどねぇ…」

 大口を開けて喚くヒナゲシに、フーコはぽつりと本音をこぼす。

 ちなみにヒナゲシが濫用しているこれらの薬は、フーコが持っている薬剤師の免許を悪用して(個人クリニックで運用するという名目で)調達したものだ。

 本来であれば薬の濫用をやめさせ長期的な治療を施すのが理想的なのだが、ヒナゲシの精神は相当に危うい状態であり、標準的な治療プログラムでは快方に向かうより先に発狂してしまうだろう、というのが過去の医療記録から判明していた。

「…はぁ。あーそうそう、あなた宛てにお手紙が来てるから、それを届けに来たのよ」

「ッ、お手紙!?誰から!?」

 ガバッ。

 フーコの一言に、それまでだるそうにテーブルの上に突っ伏していたヒナゲシが目を丸くして起き上がる。

 その態度の変わりように苦笑しながらも、フーコは手にした一枚の紙切れをヒナゲシに投げて寄越した。

「あなたの大切なヒトからよ」

「うあーもーなによもうー!それを早く言いなさいよフーコったらうわーキャーッ!」

 宙を舞う紙切れを、まるで五千ルーブル紙幣を扱うように慌てて掴んだヒナゲシは、そこに書かれた文面を食い入るように見つめた。

 やがてその顔に浮かんでいた熱気が失せていき、面白くなさそうにつぶやく。

「…なぁによこれ、わたしのことほとんど書いてないじゃん」

「なんて書いてあったの?」

「ティーティーが見つかったって。例の男も。コノワロヴァ通り東のマーケットだってさ」

「そう。ありがと、教えてくれて」

「べっつに。あんな連中どうでもいいよ、それより手紙の返事書かなきゃ!思いっきり文句書いてやるぅ、カレはわたしの王子様なんだからぁ!うふふふうふうふふ」

 なにやら不気味な笑い声を上げながら、ヒナゲシは棚を開けてレターセットを取り出し、やおら長文を書きはじめる。

 その様子をなんとも言えぬ表情でしばらく見つめてから、フーコは部屋を出て別のフロアへと向かった。

 しばらく廊下を歩き、両開きの扉を開けた先にいたのはミンブとハクオウだった。そこはクレインが捕らえられ、今はもぬけの殻となったガレージだった。

「あの娘、なんだって?」

「ティーティーと、例の西側の工作員が見つかったって」

 ミンブの問いかけに、フーコはヒナゲシから聞いたことを仔細余さず伝える。

 じつはフーコがヒナゲシに渡したのはラブレターなどではなく、他の組織が情報伝達のために用いた暗号文のコピーで、ヒナゲシはそれをあっという間に解読してしまったのだ。

 かつてKGBの暗号解読員として活動していたヒナゲシは、その高い知能と超常的な直観力で数多の暗号を解読してきたベテランの諜報員だった。その能力はまさに人智を超えたもので、過去のテストでエニグマによって書かれた暗号文をマシンも乱数表もなしに一瞬で解いたほどだ。

 しかし八十年代にアフガニスタン紛争の現地暗号解読員として派遣された際、砂漠地帯を移動中に反政府ゲリラの襲撃を受けて拘束された彼女は、ムジャヒディンの軍事顧問として現地で活動していたCIA工作員の手によって執拗な尋問を受けることになる。

 まさか直観力で暗号を解いているなどとは信じなかったCIA工作員は彼女の身体と心がばらばらになるまで拷問を繰り返し、それでも成果が得られないとわかると、瀕死の彼女をそのままパンジシール峡谷のはずれに放置した。

 息絶える寸前の彼女を救ったのは、当時日本赤軍の一員としてアフガニスタンで活動していたミンブとハクオウ、そしてフーコだった。

 拷問を受けている最中、ヒナゲシは「いつか素敵な王子様が自分を助けに来てくれる」という妄想にすがることで苦痛に耐えていたが、やがて彼女は妄想の中の王子様が実在するものと思い込み、すべての暗号文は「王子様からのラブレター」として認識されるようになった。

 不思議なことに、彼女の暗号解読能力は精神に変調をきたした後のほうが優れており、今では暗号化されたバイナリデータですら簡単に解析してしまうほどだ。

 ヒナゲシ曰く、「カレは照れ屋さんだからぁー、わざわざ難しい文章を送ってくるんだよねー。でもわたしにはすぐに何が書かれてるかわかっちゃうんだ、だってわたしはカレを愛してるから!」だそうだ。

「あの娘もねぇ、もうすこし薬を控えてくれるといいんだけど。どうにかなる見込みはないのかしら?」

「ヒナの精神状態に過去の臨床データを当てはめて物を考えるのは危険ね。たぶん、薬を切らすとすぐ死んじゃうよ、彼女…危険そうに見えるし、たしかに危険ではあるんだけど、あれが今の彼女にとっては一種の生命維持装置にもなってるのよ。他に方法がないか探してるけど、いまのところ見当がつかないな」

 ハクオウの質問に、フーコは即答する。

 彼女が知識として持っている医療データはすべて人間に関するもので、それは狐魂ですら狐魂の生態をほとんど把握していないことの証左だった。一つの種として括るには個体差があまりにも大きすぎるため、データベース化することが非常に困難なのだ。

「いずれにせよ、ヒナゲシの能力は役に立つ。しかし、ティーティーには困ったものだな」

 腕を組んだまま壁にもたれかかっていたミンブは、やれやれとため息をついた。その態度はそれほど不快そうでも、苛立った様子にも見えない。

「あの、クレインとかいう変人の前に捕まえたやつも勝手に連れ出したんだ。悪い癖だよ、まったく」

「なぁに言ってるのよ、そんなあの娘を一番大事にしてるのはミンブちゃんじゃないのさ」

 呆れたようにつぶやくミンブに、ハクオウが優しい口調で話しかける。

 ミンブとハクオウはかつて日本赤軍のメンバーとして共に活動していたが、ここウクライナで再会したのはほとんど偶然だった。

 無軌道なテロ活動に走る同志のやりかたについて行けず、2001年の解散よりずっと以前に組織を抜けた彼らは最近までずっと別々に行動していた。ミンブは自らの活躍の場を求めて世界各地を転戦し、フーコはヒナゲシを連れて東欧諸国に潜伏。ハクオウはロシアの港湾地区でマフィアの用心棒をやっていたという。

 それがウクライナの内戦勃発とともにふたたび集結し、かつての仲間とともに活動を再開することになったのだ。

 世界中の紛争地帯を転々と渡り歩き、その身体に数多くの傷を刻みつけてきたミンブは、かつての仲間と再会したときに開口一番こう言ったという。「庶民が求めているのは政治的イデオロギーなんかじゃなく、生活の安定だ」と。

 最低限の衣食住の確保、雇用の安定、治安の改善こそが人々の求めるものであって、先のビジョンの見えない「ウクライナ独立」などという甘言に踊らされて西側諸国の対ロシア政策の道具として国民が利用されている状況はミンブにとって我慢し難いものがあった。

 そもそも西側諸国やロシアに優劣つけず平等な外交を望んでいたウクライナを、「EU加盟を望むならロシアと手を切れ」と焚きつけたのは西側諸国だったのだ。

 どちらか一方の勢力への加担を余儀なくされれば、ウクライナ独立とEU加盟を切望する西ウクライナと、ロシアとの繋がりが強い東ウクライナの間で争いが起きるのは必定である。

 いまは東西ウクライナ分裂という形をもって小康状態を保っているが、実際は平和などほど遠く、いつまた全面戦争に突入するかわからない状態だ。

 ミンブにとって不愉快なのは、この状況を作り出した誰もが市民の生活について何も配慮していないことだった。

 戦争の犠牲になるのは、いつだって無力な一般人だ。だが争いが避けられないのなら、誰かが力なき者のための刃とならねばならない。ただ普通に生きることを望む者たちを、有象無象の悪意から守らねばならない。

「ティーティーの…あの娘の過去を考えれば、ああいう行動に走っちまうのも理解はできるよ。でも、だからこそ、ああいう娘の存在を『歴史の犠牲者』なんて無責任な言葉で片付けるわけには、いかないだろう」

「普通に生きることが大事なんじゃない、そう望む者がそのように生きれる環境を作ることが大事なんだ…あんたの口癖だったよね、ミンブちゃん」

 そう言うハクオウは、しかしミンブの信条を頭から信じているわけではない。

 彼自身に政治的な信条はなく、彼の行動目的はミンブの活動を補佐すること、ミンブが望む世界の実現の手助けをすることである。それは打算や下心からではなく、崇拝に似た純粋な庇護欲からだった。

 理想を持たない者が、理想のために人生を捧げる者に対して抱く憧憬とでも言おうか。

 もともとハクオウが日本赤軍に参加したのもたいした理由はなく、ありがちな言葉を使えば「若さゆえの過ち」というやつだったが、ミンブは心の底から自らの大義を信じ、それがゆえに上層部と諍いを起こすことも珍しくはなかった。

 これまたありふれた話だが、ハクオウは彼女のそんな部分に惹かれたのだ。

「それでミンブちゃん、どうするの?ティーティーちゃんを放っておく?」

「いや、目撃地点の周辺にパトロールを出そう。なんだかイヤな予感がするんだ…それと、酸味ッ狐?」

 ミンブの呼びかけに、死臭を放つ狐魂の娘が影から姿を現した。

 不可なる酸味ッ狐と呼ばれるその狐魂はかつて光の加護を受ける強大な力の持ち主であったらしいが、いまは襤褸布を纏った少女の姿で活動している。彼女はミンブたちとはあまり面識がなく、もとはティーティーと同じ組織にいたらしい。

 音や気配といった存在感が極めて希薄な酸味ッ狐に、ミンブが指示を出す。

「話は聞いてただろう?ティーティーを探してやっておくれよ」

「…わかった」

 酸味ッ狐は一言だけそうつぶやくと、また影に溶け込み、そして姿が完全に失せた。

 彼女は優秀なトラッカー(追跡者)で、誰にもその存在を悟られることなく目標を探し出す能力に長けている。

 

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「ここは…」

「見覚えがあるかい?といってもあのとき、キミはいなかった気がするけどね」

 いまクレインとティーティーが立っているのは、マーケットから東に抜け国道M18号線を北上した先にあるホテルの前だった。なかなか洒落た外観で、いかにも外国人観光客向けといった趣だ。もっともいまこの国へ観光に来る者はそうそういないだろうが。

 ティーティーが心配そうな顔で見守るなか、クレインは無表情のまま玄関戸を開けると、ずかずかとカウンターに向かって歩いていった。このときクレインは表面上でこそ冷静さを装っていたが、明らかに「ムカついて」いた。

 カウンターで新聞を読んでいた受付嬢は顔を上げると、挨拶の言葉を口の中で飲み込む。

「いらっしゃ、あっ……!?」

「やあ、また会ったね。あのとき、キミの耳についていたピアスは今のよりずっと安物だった。それがボクを売った報奨か」

「あ…ああ……」

「まあ、キミはまたボクに会うとは思ってなかったんだろうね。ミスター・スティーブの部屋はまだ残っているかい」

「…あ…その…あの…」

「残っているだろうね。片づける理由がない、彼は向こう半年の宿泊代を先払いしてあったんだから」

 それだけ言うと、クレインは哀れな羊役を演じる受付嬢に興味をなくし、階段を上がっていった。しばらく躊躇してからティーティーもそれに続く。

 いったいなにがあったのか、と無言のうちに訊ねるティーティーに、クレインは前を向いたまま説明した。

「ここはボクがキミの仲間に連れ去られた場所だ。彼女たちはボクがここに来るだろうってことを予測していた、だからスティーブの部屋を訪ねてくる外国人がいたら連絡するよう受付嬢を買収していたんだろう。実際、見事な手際だったよ」

 やがてクレインはある部屋の前で立ち止まり、ドアノブに手をかける。

 扉には鍵がかかっていたが、クレインはポケットから使用済みのプリペイドカードを取り出すと、それを使ってあっという間に鍵を外し、易々と扉を開いた。

 カーテンの隙間から漏れる光に塵が浮かぶ部屋は、しばらく掃除をした形跡も、また何者かが滞在していた気配もない。

 テーブルの上には客が持ちこんだものと思われるペーパーバックの小説や、食べかけのまま湿気たスナック菓子の袋が無造作に放置されている。床には紙片やグラスが散乱し、何らかの争いがあった痕跡が残っていた。

 クレインはテーブルの裏側に手を伸ばし、隠してあったナイロン製のチェストリグを取り出す。ミンブたちの襲撃を受けた際、咄嗟に隠したものだ。標的を捕らえたあとに部屋の検分をすることはないだろうと予測したからだが、それでも確率は半々だと考えていたため、装備が残っていたことにクレインは安堵のため息を漏らす。

 コートの下に身につけたチェストリグの両肩部分にはナイフシースが装着されており、それぞれ軍用のコンバットナイフがささっている。刃を上向きに、素早い抜きうちが可能なスタイルだ。

 いよいよ観光客では有り得ない身の振りにティーティーが疑問を投げかけようとしたそのとき、先に口を開いたのはクレインだった。

「見ての通り、ボクは観光客なんかじゃない。とある…政府機関の職員だ」

「…… …… ……」

「数年前、この国の現状を調査するために一人のエージェントが派遣された。そして一週間前に行方不明になった…ボクは、行方不明になったエージェントを捜索するためこの国に来た」

「…この、部屋を借りた人?」

「ミスター・スティーブ。そう、彼はこの部屋を拠点に活動していた。拠点の一つと言うべきか。それを知っていたボクはこの国へ到着して間もなくこの部屋を訪れた。そしてキミの仲間に捕まった。キミの仲間はボクがここへ来ることを知っていた、だからすぐボクを捕まえることができた…なぜ?」

「……それ、は…」

「失踪したミスター・スティーブを探しに仲間がやってくることを予測していた。ミスター・スティーブがいなくなったことを、彼がこの部屋に宿泊していたことを知っていたからだ。誘拐したのか殺したのかは知らない、ただ彼の失踪にはキミの組織が関わっている」

「ぅ…」

「キミは…なにか知っているんじゃないのかい」

「…ぇと…その……」

 答えを躊躇するティーティー、それは明らかに部外者が見せる反応ではなかった。

 しかしクレインは彼女の言葉を待つことなく、彼女を詰問しようとはせずに、コートのボタンを閉じ、乱雑に散らかったテーブルの上から一冊の手帳を拾い上げポケットに入れると、ふっと笑みを浮かべた。

「まあ、いいさ」

「…… ……?」

「それより、どうしようか…ボクは、キミの敵かもしれない。といって、ボク自身はキミをどうこうしようとは思わないけど」

「ゎ、たし…ぁの…」

「ボクについてくるなら、キミを亡命させる用意がある。この国にいられないと思うのなら。協力者へのサポートは常に怠らない主義でね、ただもしそれがお気に召さないのなら…」

 クレインがそう言ったとき、ティーティーは咄嗟に一歩身を退く。

 その視線はクレインの肩…コートの下に隠されたコンバットナイフに集中している。一方でティーティーの小さな手も、スカートの下のハンティングナイフのハンドルに触れかかっていた。

 あからさまに警戒するティーティーを見つめながら、クレインは肩をすくめた。

「さっきも言ったように、ボク自身がキミをどうこうしようって気はないよ。ただ、これ以上キミの心配をすることはできないって、それを言いたかったのさ。ここで別れたいなら、ボクは止めない。仲間を呼びたいなら、まあ…好きにすればいいさ」

 そう言って、クレインはティーティーに背を向けた。口には出さなかったが、そう…刺したいなら刺せばいい、とでも言うかのように。

 十秒待って何の反応もなかったら、クレインはそのまま立ち去るつもりだった。

 クレインを誘拐した時点でこの部屋の利用価値をなくしたミンブたちが監視の目を置かなかったのは予想通りだったが、マーケットでの騒ぎを察知して追及の手が迫るのは時間の問題だった。それに、あのお節介な受付嬢がすでに連絡しているかもわからない。

 ティーティーがふたたび組織に戻るつもりなら、ここで待つのが最善策だろう。

 しかしすぐ、クレインの手に温かく柔らかい感触が触れた。

 俯くティーティーの表情は見えなかったが、それでもクレインについて行く意思があることだけは確かなようだ。

 無言のティーティーを一瞥し、クレインは彼女の手を引いて部屋を出た。

「それじゃあ、行こうか」

 

 国道を南下しふたたびマーケットに入るクレインを、ティーティーが心配そうに見上げる。

「ぁの…これ、駅と…逆方向…」

「わかっているよ。悪いけど、もう一箇所だけ調べたい場所があってね」

 人混みにまぎれた二人は、油断なく周囲を見渡す。

 自警団気取りの若者たちをぶっ倒したのはここからかなり距離が離れた場所だったが、警戒が遠方にまで及んでいる可能性は充分にある。

 いつまでこの状態が続くのか…ティーティーがそう思ったとき、だしぬけにクレインが言った。

「なにか食べるかい?この国に来てからこっち、ボクはまだマトモな食事をしてないんだ」

 そう言うが早いか、クレインはティーティーの返事を待たずに露店が並ぶスペースへと向かう。

 縦置き型のグリルで肉を炙り焼きにしている屋台を見かけたクレインは、さっそく店主に話しかけた。

「それ、なんだい?」

「шаурму(シャウルマ)。肉の焼けた部分から刃物で削ぎ落としてだね、野菜と一緒にクレープに挟んで食べる。サワークリームと一緒にね、おいしいよ」

「いわゆるドネルケバブってやつかな。二つもらえる?」

「あいよ。それにしても兄さん、酷い顔だね。喧嘩でもしたの?」

 鉈に似た形状の包丁で串に刺さった肉を削り取りながら、店主はクレインの痣だらけの顔を見て言う。

 ああ、とクレインは苦笑し、適当なでまかせを口にした。

「彼女とね。ちょっと…腹が減って気が立ってたんだろうね、たぶん。でも美味しいものを食べれば機嫌も良くなるんじゃあないかな。вы знаете(どうかな)?」

「それじゃあこのシャウルマは彼女さんの機嫌を直すのにうってつけだね、なんたってうちのは絶品だからさ」

「まったくその通り。ところで、会計なんだけど…ここ、クレッド(電子)マネーは使える?」

「нет(ノー)。うちは現金取引だけさ、ここいらの店はみんなそうさ」

「ルーブル?」

「да(イエス)」

 2021年現在、紙幣や硬貨といった現金はほとんど使われていない。

 二十一世紀以後加速度的に普及したクレッドマネーは旧態依然の貨幣を駆逐し、一般的な商売はすべてクレッドマネーかクレジットカードでのみ取り引きされるようになった。その背景には、硬貨の製造に必要となる鉱物資源の不足や偽造紙幣による経済の混乱を避けるといった思惑がある。

 しかし政情や治安が不安定な地域では未だに旧貨幣への信頼が根強く、硬貨や紙幣を取り引きに使うことも珍しくはない。移民や不法居住者、市民権を得ていない者はクレッドマネーの使用を許可されていないからだ。

 ウクライナはかつて通貨にフリヴニャという単位を用いていたが、東西分裂に伴い西側はユーロに、東側はルーブルにそれぞれ統一されていた。

 クレッドマネーの使用はすべて履歴が残り、企業はそれを追跡することができる。それを避けるため諜報員は複数の名義のクレッドマネー・カードを所持していたが、それに加えクレインは現地で使用されている旧貨幣の用意も怠ってはいなかった。

「両替屋にはぼったくられたけど、おかげでいい買い物ができたよ」

「どうもね、お客さん。はやく恋人と仲直りしてくださいよ」

 クレインは数枚の硬貨を払って屋台の店主からシャウルマを二つ受け取り、それを両手に持った状態でティーティーのもとへと戻る。

「ここいらの人間は愛想はないけど、心根は良い連中が多いね。おっと…」

 そう言ってシャウルマを手渡そうとしたクレインは、ティーティーの背後に迫る影に気がつき一歩退いた。

 まだ日中だというのに、そこだけ真夜中になったように暗かった。空間を切り取ったような、そこだけ出来の悪いコラージュのように影が投射されている。高層ビルの隅に隠れるように、しかし近くに背の高い建造物はない。

 焦りとも動揺とも取れぬ表情を浮かべるティーティーの背後に、襤褸布を纏った狐魂の少女が佇んでいた。

 不可なる酸味ッ狐…ミンブの放った刺客を目前に、クレインが口を開く。

「これ、食べる?」

「不要」

「つれないな。影使い…かな?」

「影にとって光は不可侵の領域。しかし光を操る者は、自在に影を作り出すことが可能」

「光の化身か。それにしては酷い格好をしているけど…事情を訊いても、説明してはくれまいね」

 そう言って、パクリ、クレインは手にしたシャウルマを一口かじる。うまい。

 ムシャムシャとジャンクフードを頬張るクレインを前に片眉を吊り上げる酸味ッ狐、この緊張感のない男は無視して構わぬものだろうかと首をかしげながらもティーティーの肩に手をかけようとするが、ティーティーはそれを身一つ捻ってかわした。

 その動きが予想外だったのか、目を丸くしてティーティーを見つめる酸味ッ狐。

 一方でシャウルマを素早く食べ終えたクレインは、ティーティーのために買ったもう一つのシャウルマを持て余しながら言った。

「彼女を連れて行かせるわけにはいかない…特に、彼女の同意がないなら」

「余所者は余計な口出しをしないで」

「その余所者を強引に連れ去ったのは誰だったっけ?放っといてくれれば、こんな面倒は起こらなかったよ」

「口の減らない男…」

 酸味ッ狐は両腕を交差させ、いままで歪な影を形作っていた投光器をすべてクレインに向ける。酸味ッ狐の霊気によって生み出された擬似投光器がいっせいにグルリと向きを変え、目前の標的ただ一点に眩い光を収束させる。

 刹那、酸味ッ狐が攻撃のモーションを見せたその「そぶり」の段階でクレインはコートの下から軍用のごついバヨネットを抜き放ち、自らの眼球十センチ先を覆った。

 それは酸味ッ狐の攻撃の正体を悟ったからではなく、ほとんど本能的な防御姿勢そのままだったが、クレインの眼を灼くべく放たれたレイライン(光線)は銃剣の刀身に反射され酸味ッ狐の顔面に飛び込んだ。

「…ッ、くっ!」

 他の狐魂であれば視覚を失うほどの光量に、しかし酸味ッ弧はただ顔をしかめる。

 一瞬だけ前後不覚に陥ったものの、すぐに目をかっと見開いた酸味ッ狐はクレインの姿を追った。

「力さえ奪われていなければ、こんな不覚は取らなかったのに…!」

 かつて自らの美しさを誇示するそのためだけに光を放ち、数多の者の目(視覚)を奪ってきた妖狐。しかしその傍若無人さゆえ人間に捕らえられ、自己の消滅と天秤にかけた末に腐り落ちた肉体へと堕することを選んだ酸味ッ狐は自らの力に一瞬でも行動の自由を奪われたことに歯噛みする。

 まして全盛期であれば子機を生み出すまでもなく光量や指向性を操ることなど造作もなかったはずだが、どのみちそれも慢心に鈍り人間に阻止される程度の力だったことを思い出し、改めて自戒せねばなるまいと考えることにした。

 ヤツはどこだ?

 いつの間にか傍にいたティーティーの姿も消えていることに気づいた酸味ッ狐は焦りを覚えたが、ほどなくして二人を発見した。

 すこし冷めたシャウルマをティーティーに手渡すクレインに、酸味ッ狐が近づいていく。

「余裕があるのね」

「そうでもないさ」

 顔を上げ、低くつぶやくクレイン。その手がふたたび銃剣にかけられるその直前、酸味ッ狐は腕を振り上げると、袖から無数の鏡の破片をばら撒いた!

 それまで一方向にのみ光を照射していた投光器の表面が虫のように蠢いたかと思うと、変形しミラーボールのように全方位に光を照射する。それが宙を舞う鏡の破片すべてに干渉し、デタラメに光を拡散させるだけに見えるそれはしかし一瞬一瞬がすべて計算され尽くしたものだった!

「Бесконечные призма(無限の偏光屈折)!」

 宙を舞いきらめく鏡の破片と光が映し出す虚像…いまこの空間に、酸味ッ狐の姿が同時に幾つも現れては消え、無数の酸味ッ狐の姿が明滅しながら出現と消失を繰り返していた!

 それは鏡の破片が地面に落ちるまでの僅かな間の幻想だったが、酸味ッ狐にとってはそれで充分だった。

 酸味ッ狐はただ悠然とクレインに近づく、しかしその姿でさえ第三者からは不可知のものとして写り、やがて酸味ッ狐はクレインの首筋を掴む。

「悪いけど、このまま目を奪わせてもらう。その後は…」

 右手を掲げ、視覚を奪う光球を顔面に叩きつけようとした酸味ッ狐。しかしすぐに違和感に気づき、クレインを捕らえていた手を放した。

 いま目前にいる男は服装こそ似ていたが、その顔はクレインとは似ても似つかぬ別人だったのだ!

「…!?あなた、誰ッ!?」

「いや、誰と言われましても…」

 気弱そうな声でつぶやく男を押しのけ、酸味ッ狐は自分が失態を演じたことに気づき舌打ちする。

 あの男はどこだ?いや、それよりティーティーの安否だけでも…

 またもや視覚に頼ったばかりに失敗したことを自覚した酸味ッ狐は冷静さを取り戻そうと深呼吸し、そのときシャウルマの匂いが鼻に飛び込んできたことに糸口を見出した。

 そうだ、ティーティーはシャウルマを渡されていた。匂いで追跡することは可能だ!

 普段はあまり頼らない嗅覚によってシャウルマの持ち主を嗅ぎ当てた酸味ッ狐は赤頭巾をかぶった少女の肩に手をかけると、すぐさま彼女の前に回った。

「げっ!?」

「はつぱかなにかやつておられる?」

 ティーティーとまったく同じ服装の少女、その顔は彼女とまったく似ても似つかぬ不細工なオッサン顔だった!

 …いったい、なにが起きている?自分は「なにをされた」!?

 やがて鏡の破片がすべて地面に落ち、いっとき生み出された幻影の姿がすべて消失する。

 往来を行き交っていた人々が驚きの声を上げるなか、すでにクレインとティーティーの姿はなく、また二人によく似た別人の姿も消えていた。

 どこからともなく転がってきたタンブルウィードが足元を通り過ぎるなかで、酸味ッ狐はただ唖然とするしかなかった。

 

 

 

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