「グレアム尊士の好き勝手放題」

      

 

      

『コンコンコレクター - SIDE STORIES -』

- Shop Flaurein Series -

【 Sachiko - The End of Karma - 】 Part_6

 

 

 

 

 

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「頑丈な壁だな」

 怪物と化した虜囚が一心不乱に魔封牢の壁を叩く姿を、ジュリアスは腕を組んで観察していた。

 魔封牢の結界は狐魂の霊力を封じるためのものだが、どうやらγに大しても効果があるようだ。おそらくは意図したものではないだろう、もしγの封印さえ視野に入れたものなら、いまこうして自分たちが無事でおれるはずがない。

 黒い薬…結晶化したγ細胞を摂取したジュリアスは、全身から禍々しいオーラを放ちつつ、同様に黒い薬を与えられた囚人たちの姿を見つめる。

 肉体が半ば崩壊し、自我を失った「元」狐魂たちは、牢に拘束されたままの他の囚人を襲撃するとγ細胞を植えつけ、自らの同胞として意識を共有する眷属へと変貌させたのだった。

 特にいま壁を攻撃しているγ共生体は他の個体の倍近いサイズであり、その戦闘能力は圧倒的である。彼はジュリアスの機転により、通常の倍の量の黒い薬を与えられたのだ。それは肉体が完全に崩壊する限界に近い投与量だった。

 γ同士はすべてが分裂した一つの生命体であるかのように意識が繋がっており、テレパシーのようなチャンネルで結ばれている。

 しかしそのほぼすべては原始的な意志の方向性が残るのみで、いわゆる知性と呼ばれるものは残っていなかった。

 そう、ジュリアスを除いては。

 γとの親和性…それこそミツアイが、いや、スドーがジュリアスに目をかけていた理由であった。

 そして魔封牢に閉じ込められていた囚人たちが皆ただの怪物と化したいま、ジュリアスの才能が稀有なものであったことがまさに証明されたのである。

 必然的にγ共生体たちの統率者となったジュリアスは他のγの存在を探ってみたが、どうやらいま地球上にいるγは自分たちだけのようだった。…組織が仁清の地下で用意している個体を除けば。

 そのとき轟音とともに壁が破壊され、同時に室内に張り巡らされていた結界も剥がれ落ちた。

 霊的な力を封じる結界は物理攻撃に対して無力だ。もちろん、たんなる馬鹿力の狐魂が収容されることも考慮され、魔封牢の壁は鉛合金と、複合繊維補強を施した対爆用コンクリートで覆われている。まるで銀行の地下金庫か、原子力発電所並の堅牢さだ。

 ヒュウ、とジュリアスは口笛を鳴らす。

 金属の地肌が剥き出しになっている壁は、対テロ警戒でゲリラの手製爆弾などでは傷をつけるのがせいぜいな重要施設用の建築だった。

 γを大量に投与された共生体が、打ちつけるたびに砕ける拳をその都度再生させながら破壊に成功したのだ。おそろしいまでの幸運の産物だった。

「ついてるぜ。もうしばらくツキが続いてくれよな」

 霊能局を潰し、建物を脱出する。

 その後は…

 その後は?

 γに犯されたこの肉体は、もう元には戻らない。そしておそらく、ミツアイも…スドーも、自分たちが帰ってくることは望んでいない。

 それは、わかっている。

 それは…わかっていた。

 前進しようとしたとき、長い階段の先から三人の人影が現れた。

 ハクロウ、ミレグラ、サチコ…霊能局の刑事たちだ。

 γ共生体の一人がハクロウに飛びかかった。確実に捉えたはずだったが、γ共生体のタックルはハクロウの身体をすり抜けて背中の向こう側に飛び出す。

 他の二人の刑事が咄嗟に飛び退くなか、ハクロウはホルスターから拳銃を抜くと、ゆっくりと180度ターンし、まっすぐにワンハンドで狙いをつけた。

 銃身の下部に取りつけられた魔導器が起動し、レーザーセンサーが目標を補足、対象を解析する。プログラムのように呪文を構築した魔導器が出力計算を終え、銃身内部で紋様がルビー色の光を放った。

 その間、約一秒。

 ハクロウがトリガーをひき、ハンマーが落ちる。フレームに固定されたシリンダーに装填された一発の魔導弾が発射され、銃身内部を通るさい、ジャケットに刻まれたルーンと弾頭底部の魔方陣が魔導器の構築した呪文に共鳴する。

 加速した弾頭は銃身を離れたあと、空中で分解した。

 サボット弾だ。弾頭のコアを外殻で覆い、発砲後に空中で分離する仕組みになっている。通常は小口径弾頭を大口径銃で撃つときに使うもので、高い初速を得ると同時に、ライフルマークが残らないという副次的効果もある。どちらかといえば、ショットガン用の一発(スラッグ)弾の精度向上に用いられることが多い。

 魔導弾の場合は、本来の弾頭の形状が特殊なため、安定した弾道を得るために考案された措置だった。

 ワッズの外れた魔導弾のコアは釘のような形をしており、素材には鋳鉄が用いられる。これは古来より呪術に用いられる呪い釘を起源としており、本来は鬼(あるいは、精霊)の力を借りて人を呪うためのものであったが、霊能局ではこれを鬼退治用の秘術に転化して利用しているのだ。

 魔導弾が突き刺さったγ共生体は大きく膨れあがり、爆散。階段と壁、天井に黒い染みをべっとりと残して消失した。

「(あれが、対怪異用の魔導銃か…)」

 事前にスドーからその存在を知らされていたジュリアスだったが、その威力を目の当たりにして思わず息を飲む。

 まともにあれを喰らったらひとたまりもない。だが、数の部はこちらにある。

「なんてこと……!」

 ジュリアス以下γ共生体、そして彼らに攻撃され異形と化したγ感染者の姿を目の当たりにし、サチコは絶句する。無事でおれた囚人は一人として存在しなかった。力を封じられた環境で襲撃を受けたのだ、無理もない。

 ショックを受けたのは他の二人の刑事も同様だった。

「なんなんだよ、このバケモノどもは…?囚人?囚人たちなのか?」

 鉄格子がバラバラに切断され、開放され空になった独房を眺め、ミレグラは額にうっすらと汗を浮かべる。

 ただ一人、ハクロウだけは彼らの正体に薄々の見当をつけていた。

「これは、まさか…γ?」

「γ?」

「昔、大学で民俗学の研究をしていたときに文献を目にしたことがあります。世界の存在を否定する破滅の因子、この目で実際に見たのは初めてです。まさか実在していたとは…」

 弾丸を再装填しながら、ハクロウは狐魂の宿敵たる邪悪な存在を真っ直ぐに見据える。彼の持つ魔導銃は単発式だった。

 無駄と知りつつ、サチコは銃を構えながらジュリアスに向けて勧告を放つ。

「いますぐ投降しろ!そうすれば、お互い、命までは失わずに済む!そうすれば…」

「投降だと?ハッ、この状況を見て、そんな台詞が吐けるとはな」

 サチコの言葉をジュリアスは鼻で笑い、素早く後方へ下がる。

 それと同時に膨大な数のγ感染者たちがサチコたちに襲いかかった。

「うおおおおおぉぉぉッッ!!」

 サチコとハクロウが発砲をはじめると同時に、ミレグラが咆哮をあげてγ感染者に掴みかかる。

 なんだ、あいつだけ丸腰なのか…?ジュリアスは眉をひそめる、彼はミレグラが魔導銃を持たされていないこと、その理由を知らない。

 ミレグラは掴みかかってくるγ感染者の胸部を左手で鷲掴みにすると、瞬間的に高めた霊力を左手に集中させた。ミレグラの左手が白熱し、次の瞬間、爆音とともにγ感染者の全身が砕け散る。

 バゴオッ!

「デストラクション・ハンド(破壊の手)!!」

「なにッ…!?」

 まるで爆弾の直撃を受けたような有様で粉々になったγ感染者の姿を目の当たりにしたジュリアスは驚きの声をあげる。

 そうか、そういえば、そんな能力を持っているやつがいると、スドーから聞いていた。

 だが魔導銃にしろ、破壊の手にしろ、たったいま連中が易々とγを葬っているように見える攻撃も、その実、γに対しては最善の手ではない。

 そのことをいまに思い知らせてやる…ジュリアスは一見して余裕のなさそうな表情に不敵な笑みを浮かべる。

 その様子を自身の第六感で感じ取ったサチコは、銃の照準をγ感染者にポイントしながら、胸の奥にざわめきを覚えた。

 あいつ、いま、笑った…?

 悩んでいる余裕はなかった。敵の数が多すぎる、このままのペースで撃ち続けていたら、すぐに弾が足りなくなってしまうだろう。かといって、雑魚の相手はすべてミレグラに任せる、というわけにもいかない。彼女はそんな素振りを欠片も見せようとはしないが、彼女の能力は強力な半面、消耗が激しい。

 司令塔を撃破しなくては!

 どうやらハクロウも同じことを考えたらしい、蠢くγ感染者の隙間を縫ってジュリアスに魔導銃の狙いをつける。

 ドンッ、ハクロウの撃った魔導弾が呪文の軌跡を描きながら飛翔し、ワッズの外れた弾針がまっすぐジュリアスに向かっていく。そのまま直進すれば、間違いなく弾はジュリアスの心臓に突き刺さるはずだった。

 怪異との戦いにおいて、クリティカルな弱点は脳ではなく心臓とされている。循環器系の中枢部である心臓に呪法を打ち込めば、それが血液の流れに乗って全身を巡り、身体全体にダメージを与えることができる。

 ジュリアスは裂けた肩甲骨のあたりから伸びる触手で魔導弾をキャッチし、致命的な一撃を回避した。

 刺されずに掴んだはずだったが、回転する魔導弾を受け止めた触手は霊力の余波で灼かれ、炭化する。ボロボロと崩れる触手にエネルギーを集中させたジュリアスは、すぐにそれが徒労であることを知った。

 …再生できない!

 たとえ一発でもまともに喰らうことはできないな、だがいい、すでに充分種は蒔いてある…いや、そうではない、とジュリアスは脳内で自身の考えを訂正した。種は連中が勝手に蒔いたのだ。

「目覚めよ、γよ!いまこそ、その神性を顕せ!ファ・アルバーカ・マドウ(黒き開放)!!」

「…… …… ……ッ!?」

 ジュリアスの呼び声とともに、獰猛なまでの悪しき気配が爆発的に膨れ上がる。

 やがて…ドグンッ!

 どこからか、いや、あらゆるところから鼓動が響き、破裂し泥濘と化したγ共生体とγ感染者の残骸が蠢きはじめた。それらは床や壁と一体化し、無機質な石壁に血管が走る。それはまさしく、闇の胎動だった。

「なんてことだ、γは…無機物にも寄生するのか!?」ハクロウの顔に、普段とは違う畏れの表情が浮かび上がる。

 根を張ったγの塊が波打ちをはじめ、そこから無数の硬質な球体が飛び出した。

「分散型γクラスタ!」

 それは弾丸のような勢いでハクロウに向かって飛翔し、悉く命中、ハクロウの肉体に喰い込んだ。

「課長!?」サチコが目をかっと見開く。

「ぐっ……!!」

 ハクロウの身体に侵入した分散型γクラスタは増殖モードに切り替わり、彼の細胞を汚染していく。衝撃でヒビの割れたゴーグルが地面に落ちた。

 しかしハクロウは恐怖にうろたえることなく、自らの両腕に力を集中させる。

「あらゆる壁は…我が前にて脆く崩れ去り…無力と化す…この力は無闇に使うまいと誓っていましたが、止むを得ません!ルイナ・マチェリア(障壁崩壊)!!」

 ズグンッ!!

 ハクロウの全身を汚染していたγが両腕に集中し、やがて、ハクロウの掌からすべてのγが零れ落る。ビチャビチャと音を立てて床に広がったγはふたたびモゴモゴと動きはじめたが、床に根を張ることも、新たに分散型γクラスタを生成することもなかった。

「馬鹿な、陪餐が否定された…だと!?」

 その光景を目にしたジュリアスは驚愕の表情を浮かべた。

 一方で、ハクロウも朦朧とした様子で荒い息をつき、ヒビ割れたゴーグルを拾ってかけなおす。

「どうも…このγ相手では、私の力は相性が悪いようです。これほどまでに消耗するとは」

「寝惚けたこと言ってんじゃねーぞ白いの!このっ…!」

 ミレグラが語尾を荒げる。白いの、というのは、かつてハクロウと敵対していたときに彼に向かって吐いた台詞だ。

 ルイナ・マチェリア…ミレグラの右腕を吹っ飛ばした技だ。右のデストラクション・ハンドでハクロウの胸を掴み、ハクロウはバラバラに吹っ飛ぶはずだった。だが、そのさいに生じた破壊のエネルギーを、ハクロウはそのままミレグラにすべて返したのだ。

 たったいま体内に侵入したγをすべて無力化したのを見る限り、ただの攻撃反射能力でないのは確からしいが、その詳細は今もってミレグラにもわかっていない。

 一つだけわかっているのは、ハクロウがその能力を事故で亡くなった妻を生き返すために使ったこと、そして彼の妻は生き返らず(生き返らせず?)、以後、彼は自身の能力を封印してしまったということだけだ。

 その決意は、この状況においてもさほどには揺らいでいないらしい。

「腑抜けたか、白いの!」

 ミレグラは叫ぶ、彼女が右腕を喪ったのは、ハクロウがまだ能力を封印する前のことだ。

 彼女としてはどうにかして課長を鼓舞したかったのだが、しかし、ミレグラ自身の身体にも異変が起きはじめていた。

 デストラクション・ハンドで木っ端微塵に吹き飛ばしたγ感染者の破片、幾らかミレグラの身体に付着したそれら黒い塊が脈動をはじめ、木の根のような無数の触手を伸ばしてミレグラと一体化しはじめたのである。

「アッ、ちくしょう、このっ…!」

「ミレグラ!!」

 慌ててミレグラに駆け寄るサチコ。

 魔導銃をホルスターにおさめ、ミレグラの肉体に喰らいつくγ細胞に手を重ねたサチコは、自分にもγの触手が伸びるのも構わず術の詠唱をはじめた。

「巽下艮上、錷元亨離解无眚(そんかごんじょう、ががんこうりげむせい)…ガンマコラプション、キャストアウト!」

「おまえ、なにを…?」

「エーテルを集中させて、この程度なら浄化できる…早く!」

 指先で素早く五芒星の印を結び、術を口にする…それは、ミレグラが初めて見る「狗錷禊の巫女」としてのサチコの姿だった。

 たんに、予知まがいのことができる、それだけの小娘かと思っていたが…

 ハクロウがγ感染者の接近を阻止するあいだ、サチコとミレグラは寄生したγへの対抗を続けた。

 やがてミレグラに取り憑いていたγ細胞は何かに引っ張られるように伸びはじめ、ばらばらにちぎれて霧散した。ミレグラの身体には傷跡が残っていたが、そこにγの痕跡は残っていない。

「またγをッ、貴様ら、何者だ!?」ジュリアスが叫ぶ。

 ハクロウとはまた違った方法でγの侵食を阻止したサチコを相手に、動揺を隠せていない。

 その言葉に答えることなく、サチコはふたたび魔導銃を抜くと、銃身下部の魔導器に指先を走らせて印を結ぶ。

「モードチェンジ、輝晶風華(クリスタルアイス)!」

 バチッ、魔導銃がスパークし、赤く燃えていた銃身が蒼色に輝きはじめる。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ!

 連続して発射された魔導弾がγ感染者に突き刺さり、撃たれた像の姿が歪む。先刻までのように爆発することはなく、γ感染者は弾が命中した部分から急速に凍りついていった。

 氷の彫像と化したγ感染者は間もなく自然に砕け散り、破片が周囲に散らばる。しかし、そこからγの気配が感じられることはなかった。

 サチコの放った魔導弾は対象を凍らせたのではなく、分子構造そのものを変化させてしまったのだ。

 つまり、いま魔封牢の廊下に広がる氷の破片は、ただの水の結晶体に過ぎなかった。

 このモードチェンジはサチコにしかできない、というより、他の二人は魔導銃にそのような機能があることすら知らなかった。なぜならそれは武器本来の機能ではなく、使用者の能力…狗錷禊の血が成せる巫術だったからである。

『グエルゥゥルルキィィュュュウウウワワワ』

 巨躯のγ共生体が電子音に似た不快な異音を発しながらサチコに向かって突進する。

 凄まじい速度で接近するγ共生体を前にサチコは臆することなく、冷静にその頭部に向かって一発、銃弾を放った。

 ドンッ!

 銃弾が蒼い軌跡を描いて巨大γ共生体の頭部に命中し、鎖骨のラインから上の部分が氷結して砕け散る。しかし、γ感染者の全身を吹き飛ばしたはずの一撃はその程度のダメージに留まり、巨大γ共生体は足を止めることなくサチコに突進を続ける。

 パワーが足りていないのかっ!?

 あるいはこれが、たんにγに汚染されただけの感染者と、寄生主として能力をコントロールする共生体の違いなのか。

 弾倉を交換しながら巨大γ共生体の突進をかわそうとしたサチコだったが、サチコがその場を飛び退いたまさにその瞬間、さらなる加速をつけた巨大γ共生体は電信柱ほどもあるサイズの腕を振りかぶり、サチコを殴り飛ばした。

「ぐぷっ!?」

 攻撃を避けきれなかったサチコの胴体の中心ラインに巨大γ共生体の腕がめりこみ、ピンポン玉のようにはじき飛ばされたサチコの手から遊底が下がったままの魔導銃が転がり落ちる。

 独房の鉄格子に叩きつけられたサチコが昏倒する…叩きつけられたときの衝撃で鉄格子が大きく変形していた…まず間違いなく骨折は免れないダメージだ。

 それでも気を失っていないらしく、サチコは血を吐きながら、どうにか立ち上がろうともがいていたが、その動きは無様な痙攣以上のものにはならなかった。

 一方の巨大γ共生体はブレーキがきかず、速度を出したまま壁に激突したが、まるで痛覚など無いかのように振り返ると、全身の傷や失った頭部などものともせず、サチコにとどめを刺そうと近づいていった。

「あっ、野郎……ッ!」

 自身に寄生していたγの駆除でかなり消耗していたミレグラだったが、それでも目前の光景を見過ごすことはせず、立ち上がると瞼にかかった血を拭って巨大γ共生体に立ち向かっていった。

「デストラクション・ハンド(破壊の手)!!」

 ミレグラは背後から巨大γ共生体の背骨のあたりを掴むと、重機ほどのサイズがある巨大γ共生体の腰を吹っ飛ばした。

 そうしたところで、吹っ飛ばされた残骸からふたたび分散型γクラスタが出現するのはわかっていたが、なによりもまず、目前の脅威をどうにかする必要がある。そう判断しての攻撃だった。

 上半身と下半身が分断されれば、さすがに能力が低下するはず。

 そう考えたまさにその直後、巨大γ共生体の上半身から肋骨が飛び出して床に突き刺さり、さらに胸のあたりが大きく開いたかと思うと、開口部に何重もの鋭い牙を揃えてミレグラに喰らいついた!

「なにっ!?」

 ミレグラはその攻撃をバックステップでかわそうとしたが、床に突き刺した肋骨を高飛びの棒のようにしならせて喰いついてくる巨大γ共生体のほうが動きが早い!

 ガリッ!

 相手を押しのけるためにミレグラが咄嗟に右腕(義手)を突き出したが、巨大γ共生体はそれに噛みつくと、身体を大きく揺すって義腕を喰いちぎってしまった。

「うっ…うおぉぉおおおおおっっ!!??」

 断面から金属製の骨格とケーブルを剥き出しにしたミレグラが叫び声をあげる。

 彼女の装着していた義手は旧式とはいえ精密作業が可能な高級モデル…当時は…で、正確なシミュレートではないものの痛覚を備えている。それは義手に異常が生じたさいにすぐ気づくための機能で、生身の腕ほど強烈な信号を脳に送るわけではない。

 じっさい、義手を喰いちぎられたとはいえ実際の痛みはそれほど感じなかったはずだが、それよりも精神的なショックがミレグラを動揺させていた。

 一つは生身の腕を失った過去のトラウマが原因であり、もう一つは、金属骨格の義手が容易く喰いちぎられたということは、生身の肉体はそれよりも一層容易に咀嚼されるだろうという事実だ。

 相手は上半身だけだったが、機動力にハンデを抱えているとは考えないほうがいい。

 逃げることはできない、それをやっても追いつかれて食われるか、自分のかわりにサチコが食われるかの二択だ。

 ミレグラは覚悟を決め、左手の拳を固めて構えをとる。

 生きるも死ぬも、次の一撃で決まる!

 ハクロウは他のγ感染者と、ジュリアスの足止めで手一杯だ。協力を望めるような状態ではない。

 巨大γ共生体はふたたび胸部の口を開放すると、奇怪な唸り声をあげながら突進してきた!

「強いのは良いことだがよ…動きが単純なんだよ!」

 単純と表現されてはいるが、ふたたび肋骨をバネにコンマ一秒で距離を詰め喰らいかかってくるγ共生体、それを相手にミレグラは一歩も引くことなく、腰を落とした姿勢から閃光のように鋭い左手の一撃を繰り出した。

「セイント・ハーケン(崩魔の鉤爪)!」

 分子構造を破壊するデストラクション・ハンドのパワーを爪の先端に集中させ、アッパーのように打ち上げられた拳はγ共生体を十字型に切り裂き四散させる!

 ばらばらになったγ共生体の破片は床に落ちてからもしばらく蠢いていたが、やがて淡い燐光を放つと、ぶすぶすと煙を噴いて炭化した。

「アタイだって霊能局の刑事だ…たんにぶっ壊すだけが能じゃねぇ」

 そう言いつつ、しかし、ミレグラは苦しそうに呻いて膝をついた。

 セイント・ハーケンがγを滅ぼした原理は、γに侵されたミレグラが霊力、即ちエーテルを使って感染を逃れたのと同じ。それを治療や防御ではなく攻撃に用いたのである。

 しかし狐魂にとって、エーテルとは生命エネルギー。それを燃やして攻撃するということは、体力の消耗をも意味していた。

 すでに大技を何度も繰り出しており、またサチコの助力があったとはいえ自身に取り憑いたγ細胞の消去に大量のエネルギーを使っていたミレグラの肉体はすでに限界に近づいていたのである。

 瞼が重くなり、ミレグラの意識が落ちかけた。急激な眠気、不自然なほどに…

「…… …… …!?」

 こめかみに重圧をかけて必死に睡魔を振り払おうとするが、脳に絡みついた鉄鎖は重みを増すばかりだ。

 鼻腔が詰まったような感覚、異物感。

 この眠気は…薬か?それとも、何者かの能力か!?

 その可能性に行き着いたミレグラはどうにかして意識を保とうとするが、精神を集中させ続けることができず、ついに昏倒した。

 ミレグラだけではなく、ハクロウも同様に強烈な睡魔を感じていた。ミレグラほど消耗しているわけではないので、即座に眠りに落ちるようなことこそなかったが、それでも戦闘能力の低下は免れない。

 いったい、誰の攻撃だ?

 正面を見据えハクロウが驚く、γ感染者やジュリアスの動きまでもが鈍くなっている。彼らの仕業ではないのか?

 また謎の攻撃を察知し、逆に意識を取り戻した者もいた。

 さっきまで気を失っていたサチコは苦しそうに咳こみ、全身の激痛に身悶えながらも、階段の先…「自分たちが来た方向」から、謎の攻撃の発信源を察知していた。

 そして……

 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ!!

 立て続けの銃声と同時に紅い火線が伸び、釘弾の命中したγ感染者の身体が砕け散る。

「ああ、スイマセン。僕の能力は相手を選べないので」

 ハクロウの耳に、ほんの少し鈍りのある、というか、舌を巻いて発音する男の言葉が届く。

 悠然と階段を下りながら、遊底の下がった拳銃に弾倉を再装填するトレンチコート姿の男、それは完成した魔導銃を受け取るため京都に出張していたJJだった。そして、その手に握られていたのは間違いなく魔導銃、彼のために造られたものだった。

 そうか、この睡魔はJJの能力か…ハクロウは心中で頷く。このような力を持っていたことは、彼に関するどの報告書にも記述がなかった。当然、FBIのファイルにもだ。

 おそらくは誰も知らなかったのだろう、戦うときにのみ使い、敵対者はみな死に、そうでない者は彼の仕業だと気づくことはない、奥の手。

 魔導弾によって破壊されたγ感染者の屍骸が分散型γクラスタを生成しようと蠢くが、それはゴボゴボと音を立てて表面を泡立たせたあと、やがて動かなくなった。

 その様子を少し離れた場所から見ていたサチコが、驚きの表情を浮かべる。

 なんということだ、JJの能力は…γ細胞そのものにも作用しているのか!

 ドガッ、ジュリアスの背中から伸びた漆黒の鉤爪が壁を破壊する。それは眠気を振り払うための荒々しい一撃だった。すでに取り巻きのγ共生体、γ感染者ともに死滅し、休眠状態にあるγ細胞のほかは彼一人が残されるのみだった。

「テメエッ、殺してやる!!」

「キミにやれるかね、坊や?」

 挑発するJJに返事をするかわり、ジュリアスは背中から伸びる無数の鉤爪を暴れさせて壁を破壊する。

 その動きは駄々をこねる赤子に等しかったが、そう思われるのも計算のうちであることにJJはすぐ気づいた。

 脈絡の無い暴力と思われたジュリアスの行動はすぐに、乱雑に抉られたコンクリートの塊となって次々とJJのもとへ飛来した。ジュリアスの鉤爪は壁を破壊し、掴み、投げ飛ばすという一連の動作を、実に器用にこなしていた。

 およそ超常現象とは無縁な(それでいて、非常に有効な)物理攻撃を避けながら、JJは再装填済みの魔導銃を左手に持ち替え、右手にしっくり馴染む.45口径を握る。

 石塊を撃ち落とそう、などというアイデアを思いついたわけではない。そんなことをしても一部が抉れるだけで、石塊の飛ぶスピードが落ちたり、まして、その軌道を変えることなどできないとわかっていたからだ。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ!

 JJの放った銃弾は、危険に晒されながらの射撃とは思えないほど正確な軌道を描き、二インチ以内の誤差でジュリアスの左目に命中した。

「があっ!?」

 目玉を抉られ、一発か二発は確実に脳に達していたはずだが、ジュリアスは倒れるどころか気を失う素振りすら見せず、残った右目でJJを睨みつけた。

 傷口からどす黒い“何か”が溢れだし、それが意志を持つ生物のように揺らぎはじめる。

 牽制のつもりか、JJは銃を撃ち続けながらジュリアスに近づいていく。一方のジュリアスはモードを攻撃から防御に切り替えたらしく、壁の破壊を止めて鉤爪で銃弾を防いだ。

「なるほど、鉛の弾はたいして効かない…ってわけですか」

 遊底が後退し、弾の切れた.45口径拳銃を再装填することなくホルスターに戻し、JJはふたたび魔導銃を右手に握る。

 その隙を見逃さず、ジュリアスは鉤爪で独房に嵌っていた鉄格子の扉を枠ごと引き抜くと、それをJJに向かって放り投げた!一直線に、真っ直ぐに、まともに命中すれば無事では済まない質量の塊が剛速球と化し飛翔する。

 避けることも、受け止めることも難しい「それ」を…JJは、真正面から蹴り返した!

 ガゴンッ!

 自動車が正面衝突したような音を立て、鉄格子が弾き返される!

 さすがにジュリアスへ届くほどに遠くまでは飛ばなかったが、それでも、瞬間的にジュリアスの「視界を塞ぐこと」はできた。

 鉄格子が地面に倒れた瞬間…ジュリアスの視界に、紅い閃光が飛び込んだ。

 ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ、ドンッ!

 機関銃のような速度で撃ち出された魔導弾が、ジュリアスの両手、両足、そして額に撃ちこまれる!

 一見するとまるで狙いの定まらない乱射だったが、実際は未だ意識が朦朧としていたサチコの目を覚ますほどの鮮やかな手並みだった。

 射撃というのは標的を変えるとき、一度狙いを外し、ふたたび狙いをつけるというステップを挟む必要がある。未熟な射手であればその時点で精神の集中を乱し、まして連続した速射で正確に命中させるなど夢また夢だ。

 焦点の問題もある。射撃というのは「照星」そして「照門」という二種類の照準器、さらに標的という三点を同時に捉える必要がある。しかし通常、生物が同時に焦点を合わせることができるのは二点のみ。射撃を知らぬ射手はどこに焦点を置けば良いかわからず、その時点で躓いてしまう。

 射撃において「焦点を置くべきは照星(フロントサイト・フォーカス)」、しかし的当て競技とは違い、実戦ではただ標的だけを目で追っていれば良いわけではない。流動的な状況、どこから危険が押し寄せるしかわからないなかで、正確な照準姿勢(サイト・アライメント)を保つことは容易ではないのだ。

 射撃において、狙いを変えてまで別の箇所を撃つよりも、一点に銃弾を叩き込むほうが遥かに容易。

 であるにも関わらず、なぜJJは四肢末端…いや、頭部をも含む五肢を狙い撃ったのか?

 JJの射撃にサチコが驚いたのは、その意図をすぐに察したからだった。

 あれは、五芒星!

 おそらくは魔導銃を受け取ったとき、傍蘭から応用的な使い方を幾つか教わったのだろうが、こうも見事なタイミングでそれを使いこなすとは、なんという戦闘勘だろう。

 通常であれば着弾と同時に効果を顕す魔導弾が、光を帯びたまま燻っている。それは魔方陣を構築するための布石…いや、今まさに魔方陣を構築している最中なのだ!

 銃弾を使った呪術の儀式、JJが行ったのはそういうことだ。そして、術を完成させるための鍵は……

「ジョナサン、駄目ーーーッ!!」サチコが叫ぶ。

 だが、JJは耳を貸さなかった。術に拘束され身動きが取れないジュリアスの身体の中心を捉えた照準をピクリとも動かすことなく、引き金をひいた。

 ドンッ、放たれた銃弾はジュリアスの心臓に突き刺さり、その瞬間、完成した魔方陣が魔封牢全体を白く包むほどの眩い閃光を放つ。

 そして…グシャアッ!!

 破砕音とともにジュリアスの肉体が爆発し、γ細胞もろもと灼き尽くされる。

 あとに残ったのは粉砕された肉の欠片、そして肋骨の一部と脊髄の先にぶら下がった顔の半分だけだった。その断面は炭化し、もはやγ共生体といえど再生の余地はない。

 その哀れな姿を見るに耐えかね、自らも重症を負っているはずのサチコが駆け寄る。

 ジュリアスの残骸にそっと手を触れ、サチコは目元に涙を溜めながらつぶやいた。

「どうして…おまえ、どうしてこんなこと…どうして、ここまで…!こんなことしちまったら、もう、どこにも居場所なんてなくなっちまうじゃないか……!」

 それは黒い薬…γ細胞を取り込んでまで暴走したジュリアスへの叱責。

 それに応えるように、ジュリアスの口が開いた。半壊した顎が下がり、乾いた笑いが響く。

「……ハッ…ハハ……居場所?」

 ジュリアスはサチコを見つめる。その目はサチコを軽蔑しているようであり、怒っているようであり、悲しんでいるようであり、感謝しているようでもあった。

「見たまま…だろ。ここが、俺の居場所さ…だって、そうだろう?でなけりゃ、どこに…俺の居場所なんか、どこにあったっていうんだ?なあ、アンタ…答えられるか?よう、刑事さん。こたえて…くれよ……」

 崩れた。

 サチコの手の中に、ジュリアスの残骸が…かつてはそれが、ついさっきまではそれが生物の一部だったとは思えない「破片」が残る。それを見つめ、サチコが涙を流した。

 自分なら、なんとかしてやれたかもしれない。そんなことを考えるほど、自意識過剰だったわけではない。だが、それでもサチコは考えずにはいられなかった、「こうなるしかなかったのか?」と。

 ジュリアスの末路は、彼が生まれたそのときから、こうなるべく運命づけられていたのだろうか、と。

 

 

 

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 同時刻。

 会社のオフィスへ戻ったスドーは、荷物を纏めていたところで部下の一人に話しかけられていた。

「あっ、スドーさん!お疲れ様です、お茶いれましょうか?」

 およそヤクザ者が仕切る、影の多い社内の空気とは相容れない朗らかな声を聞いて、思わずスドーは手を止めてしまった。

 主人の帰宅を察したペットのように駆け寄る女性社員…絵美里(えみり)は昨年入社したばかりの新人で、入社する直前まで人間社会に溶け込んで生活していた狐魂の娘だ。

 早稲田大学法学部出身のエリートで、おまけにスポーツ万能という才人である。

 おそらくは引く手数多であったろうに、なにゆえこのようなヤクザ会社に就職してしまったのか。いちおうは日本有数の民間警備会社であるが、レツ社系列であれば他にも真っ当な部門は幾らでもあるし、彼女の経歴からすれば、もっと安全で給料も良い職場を選べたはずだ。

 大企業であること、かねてより民間警備会社というものに興味があったことを就職の理由としているが、元ヤクザとして今でも荒事に携わっている多数のミツアイ社員からすれば、職業選択を誤ったとしか思えない判断であった。

 当人は現場での仕事を希望していたが、元ヤクザではない貴重な人材であること、根が善良な娘を危険な目に遭わせたくないこと、何より彼女に汚れ仕事をやらせたくないという一心から、職場一同の満場一致で事務に配属されたのである。

 いまではすっかり、やさぐれた男どもの心を癒す一輪の花、会社のマドンナ(というより、マスコット)としての立ち位置を強固なものとしている。同僚からは「えみりん」、スドーからは「エミリー」と呼ばれていた。

「ローズヒップ、ローズヒップ、カーモミールにコリアンダー、オレンジピールにレモングーラスー♪」

 その場で思いついたらしい適当なメロディでハーブの名を口ずさむ絵美里。残念ながら、すこし音痴だった。

 絵美里のハーブティーは、相手の味覚と体調を考慮してその場で調合するというものだ。缶コーヒーを心の友とする男どもは最初こそ抵抗感を示したが、いまではすっかり彼女の淹れるハーブティーを気に入っていた。

 スドーがなにごとかを言うより先に、絵美里は湯気を立てるティーカップを彼のデスクに差し出す。

 早い。

 この娘ならきっと、荒事の渦中にあっても適切な行動が取れるに違いない…経験さえ積めば。

 もっとも、そんなことは他の職員が許さないだろうな、などと考えながら、スドーはティーカップに口をつけた。音を立てずにすすり、喉を鳴らす。

「ありがとう、エミリー。うまいな、気分がスッとする」

「リラックス効果を強めにしてみました!」

 リラックス…緊張しているのを気づかれたか、とスドーは内心で感心した。ヤクザ時代から、自分の表情を読める者はいなかったというのに。

 どういうわけか絵美里はスドーに懐いている。

 特にスドーが絵美里に優しく接している、というようなことはないのだが。あるいは、趣味であるバードウォッチングの話をしたときに盛り上がったせいかもしれない。

 スドー自身、同行の士に恵まれたことがなかったため、そのときはわりと熱を入れて話し込んでしまったのだが…

「ところで、今日はもうお帰りになられるんですか?」絵美里が尋ねる。

「え?いや…ちょっと行くところがあってな。仁清まで出張だ、当分ここへは戻らない」

「仁清…ですか」

 絵美里の表情がわずかに曇る。

 仁清の名が意味するところは彼女にも理解できるのだろう、むしろ事務職という立場上、現場で目前の問題を処理するだけの兵隊よりも実情を把握しているに違いない。

 世間知らずではあるかもしれないが、ここが真っ当な職場だと信じているほどお花畑ではない。それをわかっていて嫌な顔一つせず、また正論ぶったりせずに日々淡々と業務をこなしているのが、スドーにはすこし不思議に思えた。

「今回はすこし長くなる。しばらくここへは戻らないだろう…ところでエミリー、有給はまだ残っているか?」

「えっ?今年はまだ使ってませんけど」

「そうか。なら、この出張が終わったあと、俺と…」

「結婚ですか!?」

「言ってない」

「…… …… ……」

「…… …… ……」

「俺、この戦争が終わったら…」

「言ってない」

「面白い!」

「まだ言ってない」

「…あ、すいません、続きをどうぞ」

「……なんだったかな…?」

「ごめんなさい!ごめんなさい!」

 いきなりコントめいた会話をはじめる二人に、その場に居合わせた他の職員も微妙な面持ちになる。

 仮にもスドーは元若頭補佐であり、恐れを知らぬ鉄砲玉ぶりから「処刑人」「虐殺者」の異名を持つ、組織内でも畏怖の対象として見られる男である。そんな怪物が若い娘と面白い会話をしているという光景が、ある種のホラーというか、特異点のように捉えられていた。

 ようやく言わんとしていたことを思い出したスドーが、改めて言った。

「この出張が終わったら、一緒に北海道へ行かないか?」

「北海道?」

「シマエナガを見に行こう」

「ホントですかー!?えーっ、うわー、わー、やったー♪」

 シマエナガとは北海道に生息する、日本で二番目に小さな鳥で、その白く愛らしい見た目から「雪の妖精」と呼ばれている。一時期、インターネットで話題になり、ちょっとしたブームになったこともある。

 以前、絵美里とバードウォッチングの話をしたときに、シマエナガの話題が一番盛り上がったのをふと思い出したのだった。

「そういえばですねー、駅前の雑貨店に、すごく可愛いシマエナガのカップがあったんですよ!」

「ほう」

 スドーの誘いをどのように受け取ったのかは不明だが、絵美里はすっかり乙女モードだ。

 まんざらでもなさそうなスドーの態度に、そのうち本当に結婚とかするのではないかと他の部下たちは邪推するも、彼の場合はここまでやっておきながら異性としては脈無しの可能性もあり、それはそれで絵美里が可哀想だな…などと思うのだった。

 その後スドーはチバシティ上層エリアから姿を消すが、彼の出張が社の命令でもなんでもないでっちあげで、失踪後にミツアイのほうでも足取りが掴めなくなったのは、じつに一ヵ月後のことである。

 

 

 

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 γ化したジュリアスの脱獄が失敗に終わったあと、霊能局ビルは一時的に閉鎖となった。無力化された魔封牢の再建と、現場に残されたγの影響を調査するためである。

 職員は仕事に必要な最低限の資料を持ち出して他の建物へと移り、引き続き業務にあたっている。

 そして今回の事件に関する調書と資料作成を任されたサチコは、JJとともに自宅のマンションで作業をしていたのだった。これは「二束三文で借りたビルで仕事するなら家でやっても一緒でしょ」というハクロウの意向によるもので、タイムカードを押すのと業務日報の提出さえ怠らなければ、あとはどこに居ても構わないという指示が下りていた。

 もっとも、そんなやりかたがまかり通るのは捜査課だけだったのだが。

 なによりブラックショットは現場検証が主な仕事で、ミレグラに至っては入院中なので、実質、これはサチコとJJだけに与えられた配慮である。

 当時現場にいなかったブラックショットは、ジュリアスが死亡しミレグラが病院に搬送されたあたりのタイミングで遅れて到着していた。スドーを追って霊能局ビルを出たあと攻撃を受け、しばらく路上で気を失っていたらしい(ブラックショットにとっては知る由もなかったが、スドーからブラックショットの身柄を任された一般人女性はけっきょく、何もせずにその場を立ち去ったのだ)。

 サチコもミレグラと同様に酷い怪我を負っていたため、彼女と一緒に病院に搬送されたのだが、サチコの肉体は医師も驚く早さで回復していったため、一日の入院と数度の点滴だけで復帰したのである。

 医師曰く、あのレベルの打撲で骨や内臓にまったく異常がなかったのが奇跡としか言い様がない、とのことだった。狐魂でも、ここまで頑丈な個体はそう多くない、とも。

「サチコさんって本当にタフだったんですねえ」試供品のコーヒーを飲みながら、JJが言う。

 彼がサチコの家に上がりこんで一緒に仕事をしているわけは、むしろ、同じ事件の資料を作成するにあたって別行動を取る理由がなかったからだ。

 とはいえ、それならそれで喫茶店やJJの部屋でも良かったわけだが、たんにサチコの部屋のほうが仕事がやりやすかったという、それだけのことである。

 二人ともヘビースモーカーのカフェイン中毒ゆえ、互いの嗜好に気を遣う必要もない。

「状況を整理すると」自分が京都まで魔導銃を取りに行っているあいだに起きた出来事を一通り把握したのち、JJが言う。「いま最優先で追うべきはスドーですか」

「うん。そっちはいま、課長がミツアイに探りを入れてるけど、案の定向こうはトボけてるってさ。ま、こんな喧嘩の売り方をされた以上、こっちもいつも通りに黙ってちゃいないだろうけど」そう言ってから、ふとサチコは顔を上げた。「応対に出た相手が素人っぽい小娘でやりにくかったって、課長、言ってたな」

「ハア?」

「まあ、それもおおかた相手のやり口なんだろうけどね。よくわかんないけど」

 そうした、他愛ない会話を挟みつつ…JJにはずっと心に引っかかっていることがあった。

 サチコの制止を聞かずにジュリアスを撃ったこと、そのことをどうサチコが思っているのか。

 あのときの自分の行動は、状況がよくわからないなか、敵と判断した存在を抹殺したという、それ以上のものではない。いわば本能的、反射的な動きだった。深く考えてのことではない、「そうすべきだ」と心の中で思ったときにはすでに引き金をひいていたのだ。

 当時の判断は間違っていなかったと、今でも思っている。しかし、正しい判断が、必ずしも良い印象を与えるとは限らない。

 近いうちに仮のオフィスで事後報告会が行われることになっている。今後は条件反射的に動くのをすこし控えたほうがいいかもしれないな、といったようなことを、JJはぼんやりと考えた。

 なにしろ、あのとき自分は状況をほとんど理解していなかったのだ。京都から魔導銃を受け取って帰ってきた矢先の出来事で、パニックに陥っている他課の職員を制しつつ地下に下りたら、いきなりのあれだ。

「もし、スドーが一日早く…あるいは、一日遅く行動していたら、どうなっていたでしょうね」JJがつぶやく。

「一日早かったら、あんたは魔導銃を持っていなかったわけだから、もっと悲惨なことになっていたかも」サチコが相槌を打った。

「一日遅ければ、僕が魔導銃を持った状態で最初から戦いに参加できたわけですが…だからといって、実際よりも上手く状況を運べたかはわかりませんね。そういう意味では、まさしく、なるべくしてなった、という感が強い気がします。今となっては、ですが」

 そこまで言って、JJはサチコの顔色を窺った。彼女の表情が見えない。

 ええい、大の男が、なにをぐずぐずと思い煩っているのだ?JJは思い切ってサチコに尋ねた。

「ところで、僕がジュリアスを撃ったことについて、ですが。あれ、どう思います?」

「…それは、公的に?それとも、私的に?」

「怖いこと言うなあ。えぇと、いちおう、両方聞いておきたいんですが」

 サチコはすぐには答えなかった。言葉が思いつかなかったのかもしれない。

 JJから目を逸らし、所在なさそうにボールペンのペン先を見つめた。霊能局では未だに書類は手書きが義務付けられている。文書の内容だけではなく、紙に残った感情などの痕跡が後々に貴重な情報源となることもあるからだ。

 ワープロを使った場合、書き手の感情は印刷された文書ではなくタイプした機械に宿る。しかし古い機材を後生大事に保管しておく慣習はないし、なにより、たった一つの機械に数年分の雑多な情報が蓄積しても、それはあまり役に立たない。一貫性のない断片的な情報を山のように積み上げたところで、そこから意味のある情報を取り出すことは不可能に近い。

 サチコはペンを置くと、煙草をくわえて火をつけた。

 いまとなっては、JJがどんなやつか、だいたいわかっている。彼を傷つけないような言葉を選ぶのは難しくない。彼を喜ばせるような言葉を選ぶのも、そう難しいことじゃない。

 けれども、そうやって本心を偽るのは不誠実だし、なにより、そうやってつく嘘は、いつだってそのうち、相手にそれとわかるものだ。

 だからサチコは、正直に話した。

「あれは、正しい判断だったと思う。あのタイミングでジュリアスを撃たなかったら、たぶん、状況はもっと酷いことになってた。もしかすると、誰か一人くらい仲間が死んでたかもしれない」

「でもサチコさんはあのとき、僕を止めましたよね?」

「うん、止めた。あのときは、ああ言うしかなかった」サチコは自嘲気味の笑顔を浮かべる。「だって、そうだろ?あいつは敵だから殺せ、なんて、どうして言える?あいつは害にしかならない存在だから撃つしかない、なんて、どんな顔して言えばいいのさ?」

 まだ長い煙草を灰皿に押しつけ、サチコは口元を撫でる。深いため息…まるで、「そう言えればよかった」とでもいうような態度に、JJは彼女の意外な一面を見た気がした。

「あたし達は軍人じゃない。殺し屋でもない。『邪魔だから死ね』とは言えないんだよ、たとえ相手が誰であっても」

 言葉を続けながら、サチコは床に無造作に置かれていたハンドバッグから魔導銃を取り出し、テーブルの上に乗せる。ゴトリ、という、重い音が響いた。

「そしてこの魔導銃は、本来、怨念を糧に現世に留まる怪異を撃つために作られた武器だ。何の酌量の余地なく冥府へ送るべき存在を浄化するための銃なのさ、本来は狐魂に使うべきものじゃない、なぜなら、『殺せてしまうから』。といっても、まあ…あのジュリアス君の場合は、もう、大半がこの銃で撃つべき存在になっていたのかもしれないけど」

「なるほど、いや、気になってたんですよ。何をさておいても逮捕を優先すべき刑事が、なぜ必殺の武器を持たされているのか」

「こいつで悪党を撃って回ってりゃ平和になるような世の中なら、どんなにか楽なんだけどね」

「サチコさん、ひょっとしてあなた、危険な迷路に入り込もうとしていませんか?」

「決断はする。ただ、考えるのは止めない…そんだけ。物事全部を黒と白で切り分けられれば、そりゃあ、楽に生きれるんだろうけど。でも、分別を持つことに固執し続けると、いつかそれが原因で道を踏み外すことになる。そんな気がするんだ」

 そう言ってサチコはふたたび書類に目を落としたが、彼女は嘘をついていないにしろ、他に言うべき答えをはぐらかしたことにJJは気づいた。

 つまりは…もう一度同じようなことが起きたら、やはり彼女は自分を止めるのだろうか、というようなことを。

 きっと彼女は止めるだろう。それは善悪や道義など関係なしに、すでに彼女の信念になっているからだ。たとえJJが撃つとわかっていても、やはり制止の言葉を投げかけるのだろう。

 あるいは良心の呵責だとか、命を奪うことへの責任を避けるために、傍らの相棒が撃つとわかっていながら言うのかもしれない。自分の手を汚さないために。

 だとしたら?

 だとしたら…JJは思った。もしそうなら、自分が彼女のために手を汚す役を引き受けてやっても構わないのかもしれない。

 結局それは、自分のやりかたは今までとそう変わらないわけで…それでも、彼女と一緒に居るほうが、今までの自分よりも正しい行動が取れるような気がする。そんな、根拠のない曖昧な確信があった。

 どういうのだろう、これは?

 いままでJJはそんなふうに物を考えたことがなかったし、自分がそんなふうに物を考えるような性格だと考えたこともなかった。なぜこんな有様になったのか、その原因にははっきりと心当たりがあった。

 自分はサチコを同僚としてではなく、個人として見ている。それがすべてだった。

 あるいは公私の区別がつかないような現在の仕事環境がそう思わせているのかもしれない。ただ、自分がこんなふうになっていることに、誰よりも自分自身が不思議でならなかった。

 彼女はどう思っているのだろう?

 その答えは半日と経たずに目の前に現れた。

 夕方過ぎに霊能局の仮設本部へ日報を届けに行き、ついでに翌日分の仕事を少しばかりサチコの部屋で済ませたあとのこと。

「どうせ明日もうちに来るんだし、せっかくだから泊まっていけば?」

 日本へ来てから碌に荷解きもしていない仮住まいへ戻ろうとするJJに、サチコが声をかける。

 相手が同僚とはいえ、女の一人住まいに男を泊めるのはさすがに油断が過ぎやしないか、とJJは思う。

 それでも、いままでなら素直に了承し、相手の心積もりに関わらず自宅に居るように振る舞うところだったが、気がつけばJJは心にもないことを口にしていた。

「それはひょっとして、誘っているんですか?」

 軽い微笑、どう見てもジョーク以外の何物でもない発言、それはサチコも同様で。

「もし誘ってるんだとしたら?」

 そうくるとは思わなかった。

 挑発的な視線、似合わない流し目などしてみせるサチコに対して返事が詰まる。

 どう切り返そうか、改めて気の利いたジョークを言ってみせようと考えていたはずなのに、JJは無意識のうちにサチコを別の視線で見つめていた。

 サチコはサチコで、JJの下心に気づくと、それこそ「そうくるとは思わなかった」というような、こいつ、マジか…という表情をしてみせ、うつむき加減にうなだれてから、上目遣いでJJを一瞥した。

 気まずい緊張が漂うなかで、なにごとかを言おうとして唇を動かすものの声が出ない動作を何度か繰り返してから、ようやくサチコが声を絞り出した。

「もし…誘って、いるんだ…と、したら?」

 いま目を逸らしたらどちらかが死ぬかもしれない、というような、根拠のない強迫観念に取りつかれたまま、二人はじっと互いの目を見つめ合う。

 JJはサチコの目をじっと見つめたまま、彼女の頬をそっと撫でる。サチコは動かなかった。微動だにもしなかった。まばたきさえしていなかった。呼吸さえ止めていたかもしれない。

 JJはサチコの目をじっと見つめたまま、彼女の唇にキスをした。そのあいだもずっとサチコの目を見つめていた。サチコがじっと見つめ返していた。

 互いに考えていることは一緒で、だからこそ相手の気持ちが手に取るようにわかった。二人はこう考えていた。

 こいつ相手に、いったい何をやっているんだろう?

 

 

 

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