「グレアム尊士の好き勝手放題」

      

 

      

『コンコンコレクター - SIDE STORIES -』

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【 Sirocco - Origin - 】

 

 

 

 

 

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 風を感じていた。

 思うままに宙を舞い、行きたいと思った場所へ行く。

 たとえ行きたい場所なんかなくても、どこにでも行けるという開放感さえあれば充分だった。

 空、それは故郷であり魂の在り処。

 眼下に広がるは、途方もなく大きな地表。海面。水平線。

 広大な空間を見渡す瞳、縦横に空を裂き舞い踊る翼。

 そのなにもかもが愛おしく。

 生への愛着、自分が自分に生まれてよかったという充足感、安堵。

 彼女は、自分の身体を気に入っていた。そう、「かの地」に放逐されるまでは。

 

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 意識を取り戻したとき、シロッコはとてつもない違和感を覚えた。

 いやに空気が重苦しい…土、草、自然の風が流れる場所では有り得ない。ゆっくりと瞼を開け、彼女は自分が巨大なガラスケースに閉じ込められていることを認識した。

 ガラスのさらに向こう側には空はなく、LED灯が嵌め込まれた鋼鉄製の天井があるのみ。

 いったい、自分はどうしてしまったのか。

 身体を動かそうとして、シロッコは自分の動きが重く…そう、自分の身体そのものがひどく重いことに気がついた。それどころか肉体の構造、五感のすべてが以前とはまるで異なっていることに驚く。

 以前と変わらぬ白い肌には産毛のような薄い体毛しか生えておらず、すこし身体を動かすたびに耳煩わしい駆動音が響く。義手・義足の装着を想定した左腕・両脚の断面からはビクビクと脈打つケーブルがはみ出し、全身の骨格は重厚な金属製のものに置き換わっている。

 身体が、重い。

 そう認識したとき、シロッコの心の奥底から動揺と焦燥の感情が噴き上がった。それはたんに、体重が増えたというそれだけのことではなかったからだ。

 この身体では、飛べない。

 本能的にそう悟ったとき、シロッコはまともな思考能力を失った。

 …飛べない?

「…あぐ……ぅあ…ぁぁあああ……!」

 まるで食屍鬼のような呻き声を上げ、シロッコは膨れ上がり続ける恐怖心を抑えることもできずに自らの右手を見つめた。

 これはなに?指?爪?見慣れない五本の細い物体、この得体の知れない「もの」は本当に自分の身体にくっついている部品の一部なのか?

 シロッコの意識は朦朧としていたが、それでも以前までの自分の姿までは見失っていなかった。空を飛ぶことに至上の幸福を見出し、それそのものが生きる目的とまで感じていた自分の姿を。

 だからこそシロッコは認識できたのだ、自分が「ひどく醜く造り変えられてしまった」ことに。

 なに、これ。

 ここ…どこ?

 帰りたい。

 帰りたいよ。

 帰して…

 帰してよ。

 …返してよ!

 私の、身体を、返して!

 彼女は大声で叫ぶと、ガラスの壁に右腕を叩きつけた。

 

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「博士、被検体が…!」

 壁を一枚隔てた観察用ブースの向こう側で、UFSO(狐魂権利保護団体)の研究員の一人が青ざめた顔で口を開く。

 USFOオランダ支部に併設された狐魂研究所、そこでは先日捕獲した瀕死の狐魂の蘇生実験が行われていたのだが…

 ついさっき目を醒ましたばかりの被検体…シロッコが絶叫しながら右腕で強化ガラスを殴り続ける異様な光景に、ただ一人を除く研究員全員が騒然としていた。

「なんということだ、非常にまずい状態になっている!」

 自らの腕が裂けようと、そんなことはまるで気にしていないかのように防壁を殴り続けるシロッコ。やがて壁は血まみれになり、シロッコは声をがらがらに枯らしながらもなお絶叫し続ける。

「いったい、どうすれば…」

「麻酔ガスを実験ケース内に充満させろ」

「やっています!しかし、彼女にはあまり効き目がないようで」

「だったら量を増やせ」

「これ以上の投与量の増加は危険です、命に関わります!」

「だとしたら、なんだね」

 間髪入れずに差し挟まれた冷淡な言葉に、研究員の一人が思わず顔を上げる。

 この状況下でただ一人、冷静さを保っている男…USFOオランダ支部の研究室長であり、今回の狐魂蘇生プロジェクトの主任、そして自らも狐魂であるノーマッド博士は、部下を一睨みすると、言葉を続けた。

「だったらどうだというのだね。このまま彼女が狂い死ぬのを待つか、それとも施設が破壊されるのを座して見届けるのが最善手だとでも?麻酔ガスの量を増やすのだ」

「…わかりました」

 どこか釈然としない表情を浮かべながらも、部下の一人がコンソールを操作してガラスケース内の麻薬ガス噴出量を増加させる。

 そのうちシロッコの瞼が下がり、壁にもたれかかったまま、その場にぐったりと倒れこんだ。

「…収まった、のか?」

「なにをぼうっとしている、すぐに隔壁を解除し医療措置の準備をしろ。君はこの実験の重要性を本当に理解しているのか?」

「あっ、す、すいません…」

 安堵する部下を、ノーマッド博士がすかさず叱咤する。

 彼自身に悪意はないのだが、やや厳しいと思われる態度は部下にあまり快く思われていなかった。もっともノーマッド博士からすれば部下の緊張感が足りていないだけなのだが、そのあたりは自分の能力を基準に部下の統制を考えることに疑問を抱かないゆえの思考のズレだろう。

 隔壁開放と同時に血まみれのシロッコに駆け寄る医療班の姿を眺めながら、ノーマッド博士は一つ、ため息をついた。

 

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「手荒な真似をしてすまなかったな。あのときは他に手段がなかったのだ」

 半年後。

 UFSOの制服であるローブに身を包んだシロッコは、施設内の通路を歩きながらノーマッド博士の言葉に耳を傾けていた。もっとも、その言葉に反して彼の態度はまったく申し訳なさそうではなかったが。

 責任を感じていないわけではない(それどころか彼は「実験の全責任は私が負っている」と語った)、この謝罪は責任逃れを意図したものではない。ただ、「恨むなら恨むで構わないが、私は自身の判断に過ちはなかったと確信している」と、そういう態度だった。

 …変な人だな。

 シロッコが抱いた、ノーマッド博士に対する第一印象はそんなものだった。

 しばらくの間続いた療養生活によって精神の均衡を取り戻したシロッコは、自分の身になにが起きたのかをノーマッド博士に質問した。

「私は…なぜ、ここに」

「君はおそらく他の惑星から地球へ送り込まれてきたのだろう、そういった事例は過去に多く報告されている。しかし地球に転送された狐魂の多くは命を落としてしまう、我々はその現象を『バーンドアウト』と呼んでいるのだが…君も、ほぼそれに近い状態だった」

「燃え尽きる寸前だった…私が?」

「そうだ。それがちょうど、私の提唱する狐魂蘇生プログラムが議会の承認を得たタイミングと一致していた。だから君を回収した直後に蘇生実験を開始することが可能で、あらかじめ用意されていた義体に核となる魂を移植することができた」

 いま二人は記者会見の会場へと向かっていた。

 世界初の狐魂蘇生実験成功…その成果の発表のためである。

 かつて軍事利用されていた狐魂の保護に失敗したこと、それに伴い露見した組織の腐敗体制への糾弾など、このところUFSOは厳しい立場に置かれていた。それら負のイメージを払拭するため、ノーマッド博士は被検体であるシロッコを伴い記者会見を開いたのだ。といってもそれ自体は彼の意思ではなく、組織の意向だったが。

 実のところ、狐魂の蘇生実験に初めて成功したのはUFSOではない。先述の軍事利用されていた狐魂、彼らこそが真に世界初の蘇生実験に成功した被検体であり、当時資料を押収したUFSOもその点については把握していたが、そのことを公表する気はないらしかった。

 真実を伏せておけば実験成功によるUFSOの株が上がるし、軍の機密保持の観点からも望ましい。

「君も一言、二言コメントを求められるかもしれないが、基本的には隣にいるだけでいい」

「はい。まだ、うまく話せないので」

「無理もない。心配する必要はない、ゆっくりやればいい」

 心配そうな、というよりは不満気な表情を見せるシロッコを、ノーマッド博士が諌める。

 もともとシロッコは人語でコミュニケーションを取る習慣がなかったし、それどころか人間のような発声器官を持っていなかった。身体の動かし方一つ取っても勝手がまったく違うので、新しい肉体と環境に慣れるにはまだ相当な時間がかかりそうである。

「ところで、ここに…地球に来る前の記憶はあるかね?」

「…少しだけ」

 シロッコはためらいがちに頷いたが、「少しだけ」の内容が何であるかは言おうとしなかった。

 もちろん後ろめたい過去があるわけでもなく、たんに思索に耽っていただけだが…空を飛ぶ感覚、気ままな生活の一端が辛うじて思い起こされただけで、それすら具体的なイメージが浮かばないことにシロッコは失望していたのだ。

 なにより…自分は、「誰か」と一緒に生活していたような気がするのだが?

 そう、敬愛していた「誰か」と…それは同属ではなく、たとえば、そう人間のような…ずっと一緒に生活していて、無垢な愛を享受していた記憶が僅かに残っている。そして、その「誰か」の笑顔が、虚空を彷徨う直前に見た最後のイメージ…

 そこまで考えて、シロッコは記憶を掘り返すのを中断した。

 思い出さないほうがいいのかもしれない。根拠はないが、なぜか、脅迫概念にも似た思いが急に湧きあがる。

 会場に到着すると、すでに記者たちがカメラを構えて待ち構えていた。二人が姿を見せると同時に、いっせいにフラッシュが焚かれる。

 事前にノーマッド博士に聞かされていた通り、シロッコは右目を閉じ、光量補正機能をオンにした左の義眼だけで目の前の様子を観察したが、無遠慮な閃光はたしかにあまり愉快なものではなかった。

 断続的な明滅に晒されながら二人が着席する。シロッコが折り畳み椅子に腰かけたとき、安物のスチールパイプが軋む甲高い音が響いたせいで一瞬記者団がざわついたが、しばらくすると通常通りの手順で会見がはじまった。

 ノーマッド博士が自己紹介と、簡単な状況説明を終えたあとで、各国の報道機関から派遣された記者による質問が行われる。

『今回の蘇生実験は世界初、ということですが、当人に了承を得たうえで実行されたのでしょうか?』

 かねてより悪評の蔓延していたUFSOが相手とあって、基本的に記者の質問は辛辣な内容のものが多い。そのことを充分に理解しているのか、ノーマッド博士による返答もかなり手厳しかった。

「たとえば、交通事故で意識不明の重態となった患者がいたとしよう。君が医者だったとして、その患者の手術をするのにわざわざ当人の了承を待つのかね」

『つまり、当人の意思に関係なく実験を強行したのですね?』

「そうだ。そして、その判断は間違っていなかったと私は確信している」

『実験に成功したから良かったものの、もし失敗していたらどう責任を取るつもりだったのです?』

「誰に対して、どう責任を取れというのかね?今回の実験は国連の監視下のもとで行われた正当なもので、結果の成否に関わる契約が執り行われた記憶はない。狐魂の生命の扱いに関する法律は現状で存在しないし、隣にいる彼女の縁者はいない…すくなくとも、この地球上には。失敗していたら、実験のデータをもとに検証を重ね、後でより精度の高い実験が行われただろう。もちろん、成功した現在でもその指針に変わりはない」

『つまり責任を取る気はなかったと?』

「実験の失敗により発生する法的責任についてはすべて私が負うことになっていた。それ以外の法で明文化されていない倫理的、感情的な問題については考える意味がないし、そもそも起こらなかった事態への責任の追及をする君の質問そのものが無意味の最たるものだ」

『あなたの言動は責任逃れに思えてなりませんが』

「君がそう解釈したいのであればそれで構わない。私は法の規定に従うまでだ」

『法律で取り締まることができないのであれば、何をしても構わないと仰るのですか?』

「いいかね、それは私が決めた法律ではない。『君たち』が作った法律だ。君たちの世界で生きる以上、君たちの作ったルールに沿って私は活動しているし、そのことに異存はない。もし法律に問題があるのなら、それは私ではなく君たち人間に責任がある。君は質問する相手を間違えている」

 記者とノーマッド博士のやりとりを聞きながら、シロッコは思わず頭痛を覚えた。

 ここは、まるで悪意の巣窟だ。

 どれだけ言葉を堪能に操ろうとも、いかに優れた文明を享受していようとも、彼らが言語すら持ち合わせていなかった過去の自分より微塵も幸福に思えないのはどういうわけだろう?

 長時間に渡って不毛な質疑の応酬が繰り返されたあとで、記者の一人がシロッコにコメントを求めてきた。

『そろそろ時間も押してますし、このあたりで一つ、ご本人がどう思っているかを訊かせてもらってもいいですか?』

「いいだろう。シロッコ君、大丈夫だな?」

『あなたは今回の実験をどう感じていますか?無理矢理だとは思いませんでしたか?』

「シロッコ君…シロッコ君!?」

 記者が質問をする前で、ノーマッド博士がシロッコの肩を揺する。しかし、彼女は微動だにしない。

 まさか、実験の悪影響か?記者たちがどよめくなか、ノーマッド博士は素早くシロッコの健康状態を調べると、深刻な表情で一言、マイクに向かって呟いた。

「…寝ている!」

 

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『【悲報】記者会見が退屈すぎて寝ちゃった件wwww』

『【衰弱?怠惰?】会見中に熟睡していた噂の狐魂(*動画あり)』

 ふざけた見出しで飾られたニュースサイトの記事を見ながら、シロッコはノーマッド博士に頭を下げた。

「すいませんでした…」

「好ましいことでは勿論ないが、健康被害がなかったのなら些細な問題だ」

 はじめて立った公の場でのアクシデントなだけに、シロッコは会見終了後に急遽精密検査を受けることになった。

 そして結果は、軽い疲労とストレスによるものと診断。「ナルコレプシーというわけでもなさそうだし、当人の…その…睡眠状態に陥りやすいという、先天的な資質によるものだろう」とは、検査を担当したノーマッド博士の言である。

 けっきょく記者会見中に起きることができず、シロッコ自身のコメントは後日改めてセッティングされた会見ではじめて公表されることになった。

「私は…良かったと思っています。生きてますから。大事なことです」

『実験によって以前とはまったく違う姿に生まれ変わった点についてはどう考えていますか?』

「生まれ変わった…その通りです。生まれ変わった、のだと捉えています。おそらく死んでいた状況で、生きて、まったく違う人生を歩める。貴重な体験だと思っています。UFSOには感謝しています」

 それはUFSOが求めるコメントであると同時に、彼女自身の本音でもあった。半分は。嘘ではないが、自分が本心からそう思っているのか自分自身で確信が持てない半信半疑の状態だった。だが、それを口にして得られる利益はない。誰も、何も。

 判で押したような返答に対し、これはUFSOの洗脳の結果なのではないかと疑問を呈する記者もいたが、そういう無粋な物言いは同伴していたノーマッド博士が一蹴した。

「もし狐魂を洗脳できる技術があるなら発表している。ノーベル賞級の大発見だからな」

 今回は特に問題なく会見を終え、二人は研究所に戻ろうとする。

 そのとき、シロッコとノーマッド博士の前に一人の男が現れた。UFSOオランダ支部長だった。

「なかなか良い会見だった。シロッコさん、ご協力感謝します」

「いえ…」

「それとノーマッド君、きみはもう少し愛想を良くすることを考えたほうがいいな」

「他人に好かれようとすると自分を見失います。それが生物の本質ですから」

「あー。わかった、わかった。研究者の仕事は他人に好かれることじゃないと言いたいんだな?しかし我々が活動するうえで民衆の支持は不可欠だということを理解できぬきみではないだろう。組織の一員である以上、職員の最優先事項は役職の全うである以前に組織への貢献だ。そのことを忘れないでくれたまえ」

「熟慮します」

 どうやらこれは度々あるやり取りなのだろう、互いにうんざりしたような視線を交わしたあと、支部長は立ち去った。

 普段と変わらぬ、眉間に皺を寄せた仏頂面で鼻を鳴らすノーマッド博士に、シロッコは内心で苦笑しながら言った。

「あまり、外聞を気にしないんですね」

「人から好かれようと思ったことがないのでな」

「誰かを好いたことは?」

「ある」

「その、気持ちを伝えたことはありますか?」

「ない。私の気持ちを相手が知っている必要はない」

 そこまで言って、ノーマッド博士はシロッコに向き直った。話を続ける。

「私の人生は実験研究がすべてだ。これまでずっと、私は狐魂と機械工学の融合に関する研究に生涯を捧げてきたし、これからもそのつもりでいる。そして周囲が私に望んでいるのは、そうした技術に優れていることだ。私はその期待に応えることを生き甲斐としているし、私はそれで満足なんだ」

「なんだか…予防線を張っているように聞こえます」

「そうかもしれない」

 それだけノーマッド博士が言うと、二人はそれ以上言葉を交わさないまま研究所へと向かう足を進めた。

 そういえば…シロッコは考える。

 彼は、ノーマッド博士は私の過去を知らない。けど、私も彼の過去をまったく知らない。彼はいつ、どこから地球へやって来たのか。それとも、ずっと地球にいたのだろうか?

 狐魂というのは個体によっては非常に長寿であるらしく、数千年ものあいだ地球で活動を続けてきた者もいるという。ひょっとしたら、彼もそういった賢狐の一人なのかもしれない。もちろん、この考えに根拠などないのだが。

 ただ一つわかっているのは、ノーマッド博士が自分にとって命を救ってくれた恩人だということだ。多少は不本意な形であるにせよ。

 

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 地球に降り立ってから二年の歳月が経過し、シロッコはUFSOのスポークスマンとして働くことになった。

 役職そのものは自分が望んだものではないが、組織のために役立ちたいと言い出したのはシロッコ自身だった。無駄飯喰らいは体裁が悪いというのもあるし、それ以上に命を救ってもらった恩を返したいという気持ちが強かったためだ。

「組織によって命を救われた狐魂が、組織の代弁者としてメディアに情報を発信する。これ以上の効果はないだろう」

 そう言ったのはUFSOオランダ支部長だった。シロッコはそれに同意し、彼女の保護者であるノーマッド博士もそれを承認した。

 その取り決めはかなり早い段階で行われたが、実際に役職に就くためにはまず言語の習得や社会学などの基礎学習をこなす必要があった。頭は悪くないが、学校教育的なものを一切受けた経験のないシロッコにとってそれは厳しい道のりだった。

 可能な限り余分なステップを廃し、短時間で最大効率の教育…人間社会で生きるうえで不自由しない、必要最低限の知識の習得…のプログラム案が同時期に提唱されたことが幸いとなったが、それ自体はシロッコのために用意されたものではなかった。

 UFSOが擁する狐魂はノーマッド博士やシロッコだけではなく、目撃情報をもとに捕獲した幾多の狐魂が施設内で生活していた。その中にはかつてのシロッコと同様に人間社会のルールに疎い者(あるいは言語基盤を持たない者)も多く、そういった狐魂への一括教育方法が模索されていた時期だったのである。

 また2015年当時、狐魂に関する法整備が未だに遅れている各国情勢にあって、犯罪を犯し捕らえられた狐魂をそのまま人間と同じ刑務所に入れるわけにはいかず、彼らの一時収容施設を管理していたのもUFSOだった。悪意から罪を犯した者もいたが、大半は人間社会のルールを知らずに力の使い途を間違えただけであり、そうした狐魂の更生と再教育という面からも、効率的な教育法の確立は急務であった。

 かくして実験的に導入された狐魂の基礎教育プログラムにシロッコは積極的に取り組み、努力の甲斐あってか僅か一年半足らずで学習内容の習得に成功した。「まるで彼女の存在はUFSOの成果そのものだ」とは、支部長の弁である。

 そして2017年、UFSOと狐魂の代弁者としてシロッコはスポークスマンの役職に就いた。

 

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 その日の会見は、先日捕獲した狐魂についての公式見解の発表だった。

「…肉体の自己変容を続ける当該狐魂の素性は判明しておらず、当局はしばらく慎重な保護観察体制のもとで調査を続行する予定です」

 手元の書類を視界拡張した義眼で覗き見しながら、シロッコが淡々とコメントする。

 その後、あらかじめ設定されていた質疑応答の時間で記者による質問が寄せられた。

『保護対象の狐魂が増え続ける現在、UFSOは維持管理費の圧迫に窮していると聞きましたが』

「当局の運営が苦しい状況に立たされていることは事実です。営利団体ではないので、狐魂の保護には皆様の善意が必要であることを今一度ご理解願います」

『寄付や募金ですね。しかし、そうやって得た資金が私的に利用される可能性はないのですか?』

 口調こそ丁寧だが、些かの悪意が含まれたその質問にシロッコは片眉をピクリと吊り上げた。

 これはもちろん、2014年に暴露された不祥事を踏まえての質問だろう。当時はUFSOの規模縮小に伴い多数の民間団体が狐魂の保護を請け負ったが、けっきょく管理手順のずさんさや多発する事故によりふたたびUFSOが復権したのである。

 それは状況によるものだけではなく、情報開示や不正の撲滅といった当局の努力によるところが大きい。しかし今なおUFSOに対する不信が消えていないのは憂慮すべき事態だった。

「現在、当局でそのような不正が行われている事実は確認していません。また、そのような不正を犯した職員は厳しく処罰されることになるでしょう」

 内心の苛立ちを抑えながら、抑揚のない態度でコメントするシロッコに対しそれ以上の追及は行われなかった。

 UFSOの資金繰りが悪化しているのは事実で、このところ保護対象の狐魂の生活レベルの低下も槍玉に上がっている。しかし職員の待遇も悪くなる一方で、これは当局の努力だけでどうにかなる問題ではないのだ。

 そんな状況だから、もし資金の不正利用が発覚したら、現在保護されている狐魂たちが一斉に暴動を起こすだろう…などとは、シロッコの口からは言えなかった。人間が八つ裂きにされる光景に興味はあったが。

 会場を後にしたとき、その場に居合わせた支部長が苦笑しながらシロッコに話しかける。

「きみはノーマッド博士に似たな」

「そうですか?」

「個人的にはもうちょっと笑顔を見せてほしいが、まあ、無理は言えんだろう。きみはよくやってくれている」

「…すいません」

「いや、責めたつもりはない。そのように聞こえたのなら、わたしこそ謝らなければ」

 そう言って立ち去る支部長の後姿を見つめながら、申し訳ないと思う一方で、シロッコは苛立ちも感じていた。

 あなたにはわかるまい。人間のあなたには。翼を持たぬあなたには。

 背中の翼を揺り動かしながら、シロッコは「ただ一つノーマッド博士を恨む理由があるなら」と考えた。敬愛する博士を憎く思う、たった一つの、とても大きな理由。

 かつて、空を飛ぶのは自分自身のアイデンティティだった。登山家が山に登るように、作家がペンを握るように、自分にとって、生きるためになくてはならないファクターだった。

 シロッコの蘇生実験を成功させるにあたって飛行能力の喪失は必然であり、そのことに異論を挟むつもりはなかった。死ぬよりはましだから、生きてさえいれば違う生き甲斐を見つけることもできるだろうと、当時は思っていた。

 しかし歳月の経過とともに、シロッコの苛立ちは膨れ上がるばかりだった。

 それが、翼の存在だった。

 飛べなくなるなら、飛べないなら、翼なんかなくてもよかった。この役立たずの翼、かつて愛しただけに今は吐き気を催すほどに憎らしい。

 自らの肉体に付属している不要部品、大きくて邪魔なだけの翼の存在を生活の中で意識するたび、不本意ながらシロッコは空への渇望を思い出さずにはいられないのだ。

 しかしその不満を誰かに言ったことはなかった。

 翼を持たぬ者に、この気持ちはわかるまい。

 その思いがシロッコの抱く疎外感を強め、それが結果として保護者であるノーマッド博士とも心の距離を広げてしまっていた。

 これはまるで、かつてノーマッド博士が「他人が自分の気持ちを知る必要はない」と語った通りではないかと思い、シロッコは自虐の笑みを浮かべる。なるほど支局長の指摘した通り、自分は博士に似たらしい。

 そして他者の求める能力を発揮することで、内心の不満を誤魔化す点も同じだった。

 UFSOは優秀なスポークスマンとしてのシロッコを求めており、その要望に応えることでUFSOに対する恩義に酬いることができるのであれば、それでいい。

 巨大な鉤爪状の義手を動かしながら、身体の大部分を機械部品で補っているシロッコは、ままならない現状を嘆いても仕方がないと思い直した。

 身体が機械であるなら、いっそ心も機械のようにあれ。それが楽な生き方だ。

 

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 すでに自らの故郷と化した研究所へと続く通路の途中に設置された休憩用のベンチで一休みしていたとき、ノーマッド博士がやってきた。

 自販機でエスプレッソを淹れ、一口啜りながらシロッコの隣に腰かける。

 このところ会話らしい会話をしていなかった二人だが、その日はノーマッド博士の様子がすこしおかしかった。

 それとなく様子を見るシロッコに、ノーマッド博士が小さな包みを取り出す。

 無言のまま差し出されたそれを受け取りながら、シロッコは疑問を口にした。

「なんですか、これ」

「プレゼントだ」

「プ…え?」

 プレゼント?

 ノーマッド博士の口から飛び出してきた単語に、シロッコは目を丸める。

 この人、こんなに気の利いたことができる人だったろうか?

 シンプルな包装紙が巻かれた箱を開けて出てきたのは…

「…眼鏡、ですか。これ」

「そうだ」

 ハーフリムの金縁眼鏡を取り出し、シロッコはそれを自身の顔面に装着する。どうやら度は入っていないようだ…もともと裸眼の視力はそれほど良くないが、義眼がそれを補って余りある情報を提供してくれている以上、眼鏡自体が不用品である。

 しばらく周囲を見回してから、シロッコはためらいがちに口を開いた。

「あの、これ…何の意味があるんです?」

「君には眼鏡が似合うと思ったから、アクセサリーの代わりにでもと思った。不服かな」

「そうではありませんが。ただ、意味のない服飾品を身につける習慣がなかったので」

「生きるうえで無駄というのは必要なものだ。無駄なものを許容できる心の余裕というものが必要なのだよ…もし君がそれを気に入ったのなら、もし身に着けてくれるなら、そのことを忘れないでほしい」

「突然なにを言い出すんです」

「ときには煩わしく感じることもあるだろう、こんなものは外したいと…そう思って眼鏡に手をかけたとき、いま私が言ったことを思い出して欲しい。無駄というのは、存在しなくても良いという意味ではないことを」

 それだけ言って、すでにぬるくなりはじめたコーヒーを近くのテーブルに載せると、ノーマッド博士は真剣な表情でシロッコを見つめた。

「ずっと君を観察していた。ずっと気になっていたんだ、スポークスマンとして活動するにつれて、どんどん冷淡になっていく君のことが」

「そんな風に…見えてましたか?」

「まるで身も心も機械のようだった。心が身体に合わせようとするかのように…だが、君は機械ではない。生きた心なのだ。だから、身体が機械だからといって、心も機械のように冷たくなる必要はない」

「それは命令ですか」

「願望だ。私の」

「…え?」

「正論を説きたいわけじゃない。これはたんに、私の我が侭だ」

 いつになく熱っぽく語る…といっても、それは常に近い距離にいたシロッコだからこそわかる機微だったが…ノーマッド博士の姿に、シロッコは虚を突かれっぱなしだった。それは命令か、などという無粋な言葉が口から出たのも、そうした動揺からだった。

 ずっと近い距離にいたからこそ、彼が研究に没頭し他を省みない性格であることをより実感として理解しているシロッコは動揺せずにはいられなかったのだ…この人は、こんなにロマンチックなことを言うような人格だったろうか?

 それでも、いや、だからこそ、シロッコの中で「なにを身勝手なことを」という思いが強くなっていたのも事実だ。

 だからこのとき、いままでずっと胸の奥にしまっていた質問が口を突いて出てしまった。

「…なぜ、翼を残したんです?」

「なんだって?」

「以前、言いましたよね。この翼は、私の原型からサルベージできた唯一の部位だと…飛べない翼を授けるくらいなら、なぜ破棄しようと思わなかったのですか」

 口調だけは冷静だったが、そのときのシロッコの表情は冷静とはおよそ程遠かった。

 憎しみや怒りに歪む表情に、しかしノーマッド博士は目を逸らすことなく話をはじめる。

「生体部品の保存としてもっとも効率的なのは、肉体の一部として生物に管理してもらうことだからだ」

「貴重な狐魂の部品の一部ということですか。そのおかげで、この役に立たない翼のために私は心臓に余計な負担がかかり、過重な生命維持ユニットを埋め込む破目になったのではないですか」

「蘇生実験中、君の魂に触れたとき…君の感情が見えた。空への憧れが。だから、翼を破棄したくはなかった」

「それがわかっているなら!私の空への憧れがわかっているならなおさら、なぜこんなものを残しておいたんです!?どうしようもない未練を抱えたままずっと生きろっていうんですか!?」

 最後の、ほとんど絶叫に近いシロッコの言葉は、まさしく彼女の魂の叫びだった。

 このとき周囲に誰もいなかったのは幸いだったが、もし誰かが近くにいたとしても、この二人は気にしていなかっただろう。

「その点については…本当に申し訳なく思う。これは本心だ」

 目の前の少女の激情に晒され、辛そうに言葉を吐き出すノーマッド博士。しかし、その視線をシロッコから逸らすことはなかった。

「当時は無理だったが、研究が進めば…より軽量な骨格、最適化された身体構造、改良した生命維持装置、それが完成すればふたたび君が空を飛ぶことができる肉体を造ることができる。そう思ったから…翼は残しておきたかった」

 その言葉を聞いたとき、シロッコは「男というのはどうしてこう、いつも卑怯なんだろう」と思ってしまった。大事なことは、いつも最後にとっておくなんて。

 つまり彼は、ノーマッド博士は、最初からずっとシロッコのことを気にかけていたのだ。

 そうとわかったとき…シロッコの左目の義眼がチリチリというノイズを発し、右目の裸眼から大粒の涙がこぼれた。

「あ…わ、私…そんなふうに思われてたなんて、少しも……」

「言わなかったからな。今回も、君に訊かれていなかったら…いや、誤魔化しはやめよう。君には、嫌われたくなかった」

 そう言って、ノーマッド博士がシロッコの肩を抱く。同時に、シロッコも嗚咽を漏らしながら彼の胸に顔をうずめた。

 君に嫌われたくない、なんて。

 これがかつて、「他人に好かれる必要はない」と言った男の言葉だとは。

 このとき、ノーマッド博士に対するシロッコの感情が変化した。これまでは複雑な想いの上に成り立つ敬意だったのが、異性に対する好意にはっきりと変わった瞬間だった。

 

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「これから会見か。カフェインと人口甘味料は苦手だったな?」

 あのときのベンチ、あのときの自販機の前で、短い休憩を過ごしていたシロッコにノーマッド博士がスポーツドリンクの入った紙コップを差し出した。

 あれから四年。

 敬意や庇護欲が恋愛感情に変わったからといって、二人の関係にそれほどの違いが現れたわけではなかった。シロッコは世話女房のようにノーマッド博士のまわりをつきまとうような真似は謹んで控えたし、ノーマッド博士も「これは俺の女だ」というような卑しい態度は素振りさえ見せなかった。

 もちろん互いに忙しい身の上だったから、という理由もあるが、それ以上に二人は自身が奔放であることを望み、また両者の奔放さを尊重しての結果でもあった。

 わざわざ愛情を態度で示して互いに安心しあうような習慣が世間一般の恋人同士にあることを知らぬ二人ではなかったが、二人にはその必要はなかった。わざわざ愛の重さを確かめ合うような真似をする必要はなかったのだ。

 つまり周囲からすれば、二人の間になにがしかの変化があったとは見られなかった。もっとも、一部の職員は「それ」と察したようだが。

 残念ながら、シロッコのための新しい義体の開発はそれほど進んでいなかった。単純な予算不足と、他の研究に時間を取られているせいだが、そのことをシロッコが不満に思うことはなかった。

 狐魂の寿命は長い。先はまだ長い、焦る必要などないのだ。

 いまはそれほど邪魔に思わなくなった翼を揺らしながら、そうシロッコは思う。

 ただ、現状にまったく不満がないわけではなかった。それはUFSOが現在置かれている状況だった。

 ここ数年で狐魂による犯罪被害は増加の一途を辿り、それも無知や文化の相違ではなく明確な悪意のもとに犯罪が行われるケースが多くなっているのだ。

 そういった狐魂を「再教育」の名目で保護するUFSOも「狐魂犯罪の共謀者」のように扱われることが多くなり、このところ穏やかだったUFSOへの風当たりがふたたび強くなっている。

 当局に迷惑がかかるのは…あの人が所属するこの組織に今以上の風評被害が及ぶことは、耐え難い。

 その思いはシロッコを、ノーマッド博士の同僚が担当する開発セクターへと足を向かわせた。

「やぁ、シロッコさん。こんなところにまで来るのは珍しいですね」

「じつは、義手についてお訊ねしたいことがあるのですが」

「どうしました、なにか不具合でも?」

「いえ。この義手、戦闘用の武器に換装することはできますか?」

「えぇー!?」

 予想外の質問に、研究員は磯野家の家長のような素っ頓狂な声を上げる。

 研究中の義手のストックを探しながら、研究員が訊ねてきた。

「ところで、これは何かの公務ですか?」

「いえ、個人的な興味から…その、博士にも知られたくないので。ですから、直接ここへ」

「そうですか。あまり詮索はしませんが、無茶だけはしないでくださいよ?ところでこれ、趣味で作ったんですが」

「すいません、火薬の匂いがあまり好きではないので」

「そうですか~…」

 いったい何の目的で作ったのか、セミオートマチック式のショットガンが内蔵された義手を手にした研究員は残念そうな声を上げる。これに関しては一度ノーマッド博士に聞く必要があるな、と思いながら、シロッコは幾重にも連なった回転式のブレードを装備した義手を指した。

「あれは?」

「ああ、これですか?もとは工場作業用のボランティア向きという名目で作ったんですがね」

 けっこうな重量があるらしい、「よいしょ」と声を上げながら研究員が持ってきたそれを、シロッコは感心したような目つきで眺めた。

 勝手気ままに暴れ、保護されてからも食料を浪費するだけの存在。そういう狐魂が、最近はあまりにも多い。

 それはUFSOの、そして狐魂そのものへの評判を下げる原因となっており、種族間の軋轢をも生じさせている。しかし犯罪被害があったからといって、貴重な狐魂への殺傷が認められないのが現状なのだ。

 人間が狐魂を殺せないなら、狐魂である自分がけじめをつけるしかない。

 寝るときでも滅多に外したことのない眼鏡を指でずり上げながら、シロッコは固い決意のもとに回転式ブレードを左腕に装着した。

 

 

 

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