「グレアム尊士の好き勝手放題」

      

 

      

『コンコンコレクター - SIDE STORIES -』

- Another Episode -

【 Haddy - Legacy of Darkness - 】

 

 

 

 

 

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「おっはよー首太いなイェーイ!」

「あーもう朝っぱらからウッセーわおめーはよ!」

 朝日のなかで、布団の上から覆いかぶさってくる少女を、ハディはやや強引に突き返した。

 まったくガキってのは、朝も早くからフルスロットルで難儀なことだと頭を抱える。そのくせ急に燃料が切れたように疲れて眠ってしまい、本来ならば彼女がこなさなければならない仕事をハディが肩代わりする破目になるのだ。

 立場上は少女のほうが先輩ではあるが、そのことを真剣に考えたことはない。

 あくまで年長者として、子供の面倒を見るような気持ちで…まあ、後輩として?せいぜい謙虚かつ精進に努めねばな、とハディは自嘲の笑みを漏らした。

「まったく、…………は朝から元気じゃのー。起きたか、ハディよ」

「ええ、おかげさまでね。あれほどやかましい目覚ましは家電屋を十件巡ったって見つかりゃしませんよ」

「これこれ、滅多なことを言うものではないぞ?」

 やいのやいのと少女が騒ぐなか、この屋敷の主人である老狐がハディの憎まれ口を聞いて笑った。

 これが日常。いつも通りの一日のはじまり。

 いつぞや自分の生まれ育った村で起きた事件を解決した彼らに、弟子入りを申し出たのはいつの話だったろうか。

「…… …… …!?」

 いつ…いつだ?

 そもそも、こいつらは…誰だ、何者だ?

 たしかに見覚えがある…ような気がする。よく知っている、ような気がする。でも、名前が思い出せない。

 そういえばさっき、老人が少女の名を呼んでいた。なんと呼んでいた?よく聞き取れなかった。

 違う、違う、違う…!

 これは、俺の未来じゃない!

 

「…… ……ッ!!」

 暗闇のなかで、ハディは血相を変えて飛び起きた。

 CIAが秘密裏に所有する狐魂研究所地下の秘匿文書庫。

 決して日の光の差さぬこの場所にほぼ住み込みで勤務しているハディは、心配そうに鼻をすりよせてくる使い魔の頭を優しく撫で、ふーっとため息をついた。

 あの夢は、何度か見たことがある。あの少女と老人には、何度か会ったことがある…夢の中で。

 だから旧知の仲であるように錯覚してしまったのだろう。実際に会ったことなどないというのに。

 そもそも、実際には存在しない人物なのだろう。夢にしては奇妙なリアリティがあり、それゆえ、妙な勘違いをしそうにもなってしまうが。

「…くっだらねぇ」

 おそらく夢の中の彼らが知っている自分とは性格が違うのであろう、ハディは生来の口の悪さで自らの思考を嘲りながら、宿直室に備え付けのキッチンで湯を沸かしはじめた。

 常人なら歩くこともままならない暗闇のなか、まるで明かりの下にいるかのようにハディは動く。

 もとより彼は闇の中でも物が見え、そのうえ抜群に記憶力が良い。秘匿文書庫の管理人として重用される由縁である。

 棚から静岡県産の茶葉が入った缶(近所に輸入雑貨を扱う店があり、そこは日本食を数多く取り揃えている。有り難いことだ)を取り出し茶器を用意しながら、ハディはふたたび夢について思案を巡らせた。

 夢の中では…自分は生まれ育った村を出て、あの少女や老人のもとで暮らしていることになっている。

 だが、そんなことは有り得ない。そう、有り得ないのだ。

 たまたま村の誰かが有能な誰某と知り合いで、正義の味方のように登場したそいつらがスッキリと問題解決…そんな都合の良い話があるはずがない。

 少なくとも、ハディの身には訪れなかった。『この世界のハディには』。

「…いや、似たようなものか?」

 そう言って、ハディはややぬるめの湯で入れた茶に口をつける。

 たしかに、「誰か」は来た。あのときにも。夢に出てきた連中とは違ったが。そいつらが問題をスッキリ解決したわけでも…いや、どうだったか。それについては物の見方で意見が変わってくるだろう。

 ハディは自らの過去を反芻した。生まれ育った村での出来事、ここへ来る前の記憶を。

 

「威勢のわりには大したことがなかったのう、ハディよ」

「…… …… …ちくしょう……!!」

 力を封じられ、村の男たちに組み伏せられた少年ハディは、身体中にできた痣と傷の痛みに苦しみながら、悔しさのあまり涙を流した。

 人間と狐魂が共存する平和な村、異種同士が争うことなく暮らす理想郷。

 しかし、それは表向きの話。

 森林開発と環境破壊によって住む場所を追われた狐魂たちは、いずれ人里に降りなければならなかった。待ち受けているであろう蔑視と迫害に怯える狐魂たちに、しかし救いの手を差し伸べる者たちがいた。

 それこそがこの村の住人、そして、実質村を統率する権力を有していた神社の神主だった。

 だが、狐魂たちがこの村に住むには一つだけ呑まねばならない条件があった。

 それは年に一度、神社に祀られている山神の怒りを静めるため、幼い狐魂の娘を生け贄に奉げよ、というものだった。

 他に行くあてのない狐魂たちはこの条件を呑まざるを得ず、毎年奉げられる子供が神社の本殿の置くに姿を消し、そのまま行方知れずとなる光景に涙を流しながらも、必要な犠牲と割り切って村のために従ってきたのである。

 それは触れてはならない村の闇であり、詮索する者は山神の怒りを買う。

 幾ばくかの疑いを持ちながらもそう信じざるを得ない狐魂たちの中にあって、ただ一人、真実を追い求めた者がいた。

 それが、まだ幼い少年だった頃のハディだった。

 生け贄の日、神社の本殿へと招かれる少女の後を尾け、その中で行われている行為を目撃したハディは、あまりの現実の醜悪さに言葉を失う。

 山神の名を借りて行われていたのは、まだ初潮が訪れているかも怪しい少女に対する村の男たちの陵辱行為。

 すべてが終われば、殺され山奥に捨てられるか、あるいは奴隷として売られるか。

 あまりの凄惨な行為にハディは我を忘れ、その頃すでに発現していた使い魔を伴って村の男たちに襲いかかった。明確な殺意のもと、本気で男たちを皆殺しにするつもりで立ち向かった。

 しかし、そのときハディは知ることになる。村に住む狐魂たちが人間に逆らわない、もう一つの理由を。

「ほっほっほっ、無知とは罪なりや?未熟な妖狐風情が、身の程を知るがいい」

 神主の手の一振りでハディの全身から力が抜け落ち、次の瞬間、村の男の拳の殴打で吹っ飛ばされた小さい身体が壁に叩きつけられる。

「ごはっ!?」

 無様にも床に転がったハディは血を吐き、気を失ったようにぐったりしている使い魔を起こそうとする暇もなく、村の男たちから立て続けに執拗な暴力を受けた。

 四肢が痺れ、感覚がなくなり、やがて痛みすら感じなくなってきたとき、男たちの背後から笑顔で自分の姿を見下ろす神主を見つめながら、ハディは自分が「しくじった」ことを確信した。

 神主が誇らしげに手に持っていたのは、かつて強力な呪術の使い手として狐魂たちを退治してきた陰陽師の祖先が作り、現在に至るまで子孫へと受け継がれてきた呪符。

 狐魂の力を封じ、無能な存在へと落とす「魔封符」。

 その使い手である神主がいる限り、村の狐魂は誰も人間に逆らえないのだ。

「これに懲りて、もう人間様に逆らおうなどとは思わないことですね。なに、そのうちハディも、『こちら側』に立つようになりますよ。男ならね…ほっほっほっ」

 村長よりも強い権力を持ち、村を裏から支配する神主の本当の力と、その本性を見つめながら、ハディは気を失った。

 

 その忌まわしい日から、どれだけの歳月が過ぎただろうか。

 青年に成長したハディは、貴重な村の働き手として農作業に従事していた。

 肉体労働が不得手な細腕は傷だらけで、指は節くれだち、白かった肌は日に焼けている。

 蔑むような村の男たちの視線を無視しながら、ハディは堆肥として使う糞尿が詰まった樽を荷車に乗せ、腰が悲鳴を上げるのも無視して納屋まで運びこむ。

「おいおい、クソを運ぶのに何をグズグズしてやがるんだ!」

 非力ゆえ、ときおり罵声とともに腰を蹴られることがあっても、ハディは黙って作業を続けた。

 怒りが湧かなかったわけではない。受けて当然の仕打ちだと諦めたわけでもない。

 一見従順であったハディの心の奥底では、身を焦がすような怒りが燃え続けていた。今すぐにでも村の人間たちを皆殺しにできれば、どれだけ気分が良いだろうかと考えなかった日はない。

 だが、まだそのときではない。

 ときおり心配そうに顔を覗き込んでくる使い魔をあやしながら、ハディは眼光鋭く納屋に積まれた堆肥の樽を睨みつけ、いずれ来たるべき日に向けて思考を巡らせる。

 焦ってはならない。

 反抗心を失ったふりをして村の男たちに従い、長い労働時間に身を削られながらも、わずかに存在する自由時間を勉強に費やしてきた、この準備期間を無駄にしてはならない。

 そう、すべては予定通り。樽にクソを詰め込む忌々しい作業ですら。

 

 その年の生け贄は、ティエールと呼ばれる娘だった。長い銀髪と、褐色の肌が特徴的な子供だ。

 無口で、人間のみならず狐魂ともあまり打ち解けない娘だ、ということしかハディは知らない。ハディ自身も親しいわけではなく、どちらかというと、たまに身を案じてくれる母親のマリーのほうをよく知っていた。

 ついに、我が子の番が…悲しみに暮れる母狐を、ハディは遠くから無言で励ました。

 大丈夫だ。あなたの娘を、あんな連中のいいようにはさせない。

 

「いったい、どういうつもりですかね?ハディのやつ」

 村の所業を外に漏らされたくなければ、俺のもとへ来い…

 そう書かれた手紙をヒラヒラと振りながら、村の男は神主に尋ねた。

 ハディによって名指しで呼び出されたのは、かつてハディの目の前で少女を蹂躙し、そしてハディを手酷く痛めつけた者たち全員。それは、彼が当時のことを仔細漏らすことなく覚えていたことを意味していた。

「しかも、呼び出した場所が堆肥置き場の納屋って。いくら自分の作業場だからって、発想が貧困すぎる」

「ほっほっほっ、まあ、良いじゃありませんか。あの若者がいったいどれだけの知恵を絞って謀(はかりごと)を企んだのか、じっくりと拝見させて頂きましょう」

 やがて数十人はいるであろう村の男たちがぞろぞろと納屋に到着し、安全灯の火をつけて周囲を見回す。

「あー、くっせぇ。あの野郎、呼び出しておいて自分は遅刻かよ。このままじゃあ、俺たちまでクソの臭いが染みついちまうぜ」

 納屋の中にハディの姿は見当たらず、男たちは口々に悪態をつきはじめた。

 ただの悪戯か?このまま帰ろうか…そんな言葉まで出始めたところで、男たちの背後からハディの声が響く。

「雁首揃えてお出ましだな。ご丁寧に欠員なしか、あのときの全員が揃ってるわけだな。結構なことだ」

 不遜な笑みを浮かべるハディに、掴みかかろうとする男を制し、神主が一歩前へ出る。

「ハディ…あなたが従順なフリをしていたことはわかっていましたよ。ずっと復讐の機会を窺っていたことはね」

「ほう、そうかい。アンタは賢いからな、クソッたれな妖狐の考えることなんざ全部お見通しってわけだ」

「わからなかったのは、あなたがどうやって復讐する気なのか、です。私の力は身をもって知っているはず。どうやってそれを覆すつもりなのか、ですね」

「俺は昔の俺とは違う。随分と力をつけてきたんだぜ」

 ニヤリ、不敵に口端を歪めるハディを、神主は大声で笑い飛ばした。

「ほっほっほっ!何を言い出すかと思えば!力をつけた?霊力を高めた?その程度で私の魔封符を打ち破れるとでも?どうやら、あなたは私が考えていたほどには賢くなかったみたいですね。頭の中身があの日から変わっておられないようだ」

「それじゃあ…試してみるかい」

「ほう」

 神主の挑発に乗ることなく、ハディは村の男たちを牽制しながら、内に秘める力を解放する。

 溢れだした闇が周囲を覆い、普段は穏やかな顔つきの使い魔が歯を剥き出しに威嚇する。狐の第六感、「闇の使い魔( Familiar of Darkness )」…屈辱的な敗北から今日に至るまで練り続けてきた力がいま、顕現した。

 村の男たちが息を呑む一方で、まったく動揺の色を見せない神主が、世間話の水でも向けるかのように尋ねる。

「一応聞いておきますが、私たちを呼び出したのはたんに復讐のためだけですか?」

「他に理由があるなら俺が知りてぇな」

「交換条件によっては対立せずとも済むのでは?願いがあるなら聞いておきますよ」

「悪いが、俺は最初から貴様らの命を全部刈り取るつもりなのさ」

「ならば仕方がない」

 ハディが闇と同化した使い魔を身に纏うのと同時に、神主が魔封符を取り出す。

「相も変わらず身の程をわきまえぬ愚か者には、ふたたびお仕置きが必要ですね!」

「来い!闇よ、いまこそ俺に力を!」

 

 その、次の瞬間…

 山を揺るがす大爆発とともに納屋が吹っ飛び、村の男たちはばらばらになって死んだ。

 

 辛うじて一命を取り留めたものの、虫の息で地面に這いつくばる神主を、「装甲と化した使い魔の鎧」を解いたハディが冷たい目で見下ろす。

 未だに何が起きたのか理解できていない神主はおびただしい量の血を吐き、弱々しく魔封符を握り締めたままつぶやいた。

「いったい、なにが…」

「アンフォ爆弾って知ってるか?肥料硝安から作る手軽で威力のでかい、テロリストが大好きなヤツだ。匂いがキツくて日保ちもしないんだが、肥料のついでに爆弾を作って、それを納屋に置いてたって、いちいちクソ樽の中身を確認になぞ来ねぇとわかってたんでな」

「爆弾…だと……」

「そのありがた~いお札は、物理攻撃は防げないんだろ。全部わかってたんだよ、俺が能力を見せれば、嬉々として呪符を見せびらかしてくるだろうってことなんざ」

 僅かな自由時間を読書に費やす本の虫、と蔑まれたハディが、よもや爆薬の作り方を調べていたなどと、村の男たちは知る由もなかったのだろう。

 そろそろトドメを刺してやろうか…ゆっくりとハディが近づいたとき、神主が笑い声とも、泣き声ともとれぬ、奇妙な呻き声を上げた。

「ク、ク、ククッ…ハディ…それほどまでに儂が憎いか……」

「いまさら舐めたクチをきくんじゃねぇ!この日をずっと待ち望んでいた…テメェを八つ裂きにして、その臓腑をあの穢れた神殿にばら撒くこと、そのことだけを支えに俺は生きてきたんだ!」

「ならば、あなたが今まで生きてこれたのはなぜか…その理由を考えることです…これまで、真相を追究したのがあなただけだったと、本気で考えているのですか…?」

「俺以外にもいただろうさ。そして、そういう不都合な連中は始末してきたんだろう」

「その通り。そして、あなたは生きている…なぜです?あのときはまだ幼かったから?そんな理由で生かしておいたとでも…」

「やめろ!」

 激昂したハディが神主の脇腹を蹴り上げ、骨が折れる音が響く。

 踏み潰された蛙のような悲鳴を上げながら、神主が血を吐き続け、それでもなお言葉を続ける。

「ゲッ、ゴホッ…ハディ、可哀相な男、哀れな子よ。どうあっても、儂を…父とは…呼んではくれぬのか」

「やめろ…!」

 固く握り締めた拳から血を滴らせ、憎悪に顔を歪めながら、ハディは吐き捨てるように言い放つ。

「この身体に、貴様の血が流れていると思うだけで…俺は自分で自分を殺したくなる!この身を引き裂いて、血を全部流し、四肢を切り落としてもなお足りないほどに、俺は怒りで気が狂いそうになるんだ!貴様が憎い、貴様が!貴様の血を引く自分自身が!憎くてたまらないんだよ…!」

 いまではハディの絶叫が、悲痛な声に変わっていた。

 目をきつく閉じ、唇を震わせ、必死に涙をこらえながら…この十年間、抑え続けてきた感情の堰が一気に外れたかのようだった。

「俺は…母さんの顔を知らねぇ…名前も、声も、身体の温もりも、なにもかも……」

「あなたの母、あの娘、そう、儂のお気に入りだった…だから、すぐ殺さなかった。殺すつもりはなかった」

「十歳そこそこで身篭り、無理な出産で死んだ。俺を遺して…俺は生まれたときから母親という存在を奪われた!貴様という、穢れた存在に!殺してやる、貴様だけは。絶対に……!!」

 血の涙を流し、全身から溢れ出す邪気を刃の形に変えるハディ。

 怒りと悪意に染まった凶刃を振り下ろそうとしたそのとき、ハディの動きがピタリと止まった。

 なぜ止まったのか?ハディにもわからなかった。

 かけらに残った最期の良心が、実の父親の命を奪うことを拒絶したのか?

 そうではない。

 いつの間にか、ハディの周囲に結界が張り巡らされていた。水が縄のように絡み合い、複雑な印を結んでいる。

「それ以上はダメだよ」

 そう言って、ハディの背後に降り立ったのは…見知らぬ二人組だった。

 水の結界師マグダラ、風の戦士ラゴゥル。

 CIAの新任狐魂調査チームとしてコンビを組んでいた二人は数年前から人間と狐魂が共存するこの村を監視しており、やがて異常な風習の存在を確認すると、本部からの許可を待って狐魂の保護と不穏分子の制圧に乗り出したのである。

 本来ならば儀式が始まる直前に到着し、現場を押さえてから一網打尽にする予定だったのだが…なぜこんなことになってしまったのか……

 そんな二人の素性や目的など当然知る由もないハディは、宿恨にケリをつける瞬間を邪魔されたことで相当に気分を害しており、突如として現れた闖入者たちを見据えた。

「おい…最高の時間を邪魔してくれたな。何者だ、手前(テメエ)ら」

 おぞましいほどの虚ろなハディの眼窩を直視してしまったマグダラは、思わず背筋が凍りつく。

 たとえ相手がどんな悪党でも、命を奪ってはいけない。ハディを止めたのは、そう思っての反射的な行動だったが、よもやそれが軽はずみであったかもしれないなどと考えたところで後の祭りだった。

「(というか、こんな力を持ったヤツが潜伏してたなんて、想定外なのよ───!!)」

 ここ数年の調査で、マグダラとラゴゥルの二人は村に住む狐魂を「すべて非戦闘員」だと見做していた。ゆえに、人間にいいように扱われているのだ、と。

 特にハディに関しては「非力ゆえに隷属を余儀なくされた哀れな若者」だと報告書には書き続けてきたのだ。

 マグダラとラゴゥルの二人には知る由もなかった。神主が持つ魔封符の存在も。ハディが背負う宿命も。

 しかし…マグダラは思う、この若者にどんな目的があろうと、殺人は止めなければならない。そしてこの邪気を放っておくわけにはいかない。

 彼女が思考していたのは僅かな時間だったが、ハディが再三の質問を繰り返すには充分だった。

「答えろ。誰だ、貴様ら」

「ある国の政府職員、とだけ言っておくわ」

「あ……?」

 ある意味で…その返答は、もっともハディの神経を逆撫でするものだった。

 誠実さに欠けるばかりか、本来まったくの部外者であることを露呈したからである。

 もちろんマグダラにも立場があるので、彼女の言動は必ずしも批難されるべきものではない。が…ハディには、そんなことは関係なかった。

「余計な邪魔を…するんじゃあねえぇぇぇえええええッッッ!!」

 ドジュウゥゥッ!

 爆発的に膨れ上がったハディの邪気でマグダラの結界が蒸発し、茨のように複雑に絡み合う影が夜闇を覆いつくす。

 結界を破られたマグダラはふたたび胸の前で印を結びながら、ラゴゥルに呼びかけた。

「計画変更、あいつ止めるよ!」

「承知」

 使い魔が井戸から導きだした水を紡いで方陣を組み上げるマグダラに、全身に風の渦を纏ったラゴゥルが応じる。

 ハディの暴走の阻止は予定にない行動だが、状況がこうまで変化してしまっては任務どころではない。

 ふわり、身体を宙に浮かせ戦闘態勢に入るラゴゥルが、マグダラに尋ねた。

「オプション(交戦規定)は?」

「無力化、話聞きたいし!」

「承知」

「やりすぎないでよね」

「…承知」

 ドンッ、爆音とともにラゴゥルが飛翔し、右腕に纏っていた風の渦をハディに向けて放つ!

 風の渦は地面を削りながら凄まじいスピードで前進し、影を払いながらハディを切り刻んだ!

「うおっ!?」

 風の刃が到達する直前にハディは使い魔を鎧に変化させ、ふたたび身に纏う。

 バリバリバリバリッ!!

 木材が工業用機械で粉砕されるようなけたたましい音が響き、鉈で滅多打ちにされたような傷が鎧に残る。もしこれを人間が受けていたら、重傷…どころか、バラバラに吹き飛んでいただろう。

 野郎、加減するんじゃねえのかよ…!

 内心で毒づきながら、ハディは使い魔を鎧から鎌へと変化させて両腕に装着する。

 しかし舞い上がった塵が霧散し視界が開けた瞬間、ラゴゥルの拳がハディの胴を捉えた!

「(こいつ…早い!?)」

 ドガッ!

 発達した筋肉から繰り出される純粋な腕力と、手に纏った竜巻による風圧でハディは吹っ飛ばされた。

 一瞬気を失いかけたハディはかなり長い間地面を転がり、やがて腕に装着した鎌を地面に突き立てて停止すると、もう片方の腕の鎌を装甲に変化させて半身を覆った。

 ふたたび風の渦を纏った両の腕を突き出したラゴゥルは、油断のない構えでハディを見据える。

「これ以上痛い目に遭いたくなかったら投降するがいい」

「痛い目だぁ?たしかに…牛のお産のとき、後ろ足で蹴られたときは今くらい痛かったがな。この程度でネを上げるとでも思ってんのか」

「使い慣れない力を振るうものではない」

「っるっせーよ、余計なお世話だ…!」

 余所者がいきなりしゃしゃり出てきて偉そうに説教してくるとか、冗談じゃねーぞ。

 今度はこちらから仕掛けようとしたとき、ハディは自分の動きが鈍くなっているのに気がついた。

 原因は考えるまでもない、マグダラ…この短時間、ラゴゥルがハディに仕掛けたわずかな時間で結界を再構築したのだ。

 上空で青白い光を放つ水の結界を睨みつけ、ハディはふたたび闇の力を顕在化させる。

「ちゃちな結界なんぞもう一度吹っ飛ばしてやる、二対一だからって調子こいてんじゃねーぞ」

 怒り、恨み、悲しみ、恐怖、嫉妬、あらゆる負の感情を媒介に力を強める闇の使い手にとって、逆境はかえって好都合だ。

 それゆえコントロールが難しく、ときに望んでもいない破壊や、身の破滅を招くことがある。

 マグダラとラゴゥルが懸念しているのはそれだった。

 もっともハディは、たとえ今日死んでも復讐という目的さえ遂げられればそれでいい、と考えていたのだから、両者の主張が対立するのも当然なのだが…

 ラゴゥルが拳をかまえ、ハディが邪気を解放しようとしたそのとき、ずっと地面に伏していた神主が笑い声を上げた。

「ふ……フフ…」

「!?」

 突如聞こえた不気味な笑い声は、ハディのみならずマグダラとラゴゥルの注意をも惹いた。

 死んでなかったのか…?

 とどめを刺す機会を奪われたとはいえ、爆発で致命傷を受けていた神主はとっくに死んだものと思っていたハディに、神主がほとんど音にならない声で言った。

「ふほほ…滑稽、なんと滑稽よ…ハディ、そして余所者たち…揃いも揃って道化た真似を…笑わせて……くれる…」

「テメエ、なにが言いてぇ」

「あなたがたは…私が…村の男たちが…本当に、ただ己が欲望のためだけに…あのような、おぞましい行為に手を染めていたと…本気で…考えているのですか……?」

「なに……!?」

「村の、儀式…狐魂の、幼い、娘…惨く、無残に汚される…その行為こそ…山神の、怒りを、静める……」

「この期に及んでそんな言い訳を、デタラメを抜かすな貴様ッ!」

「ほははは…儀式が、成されなかったいま…山神の怒りが…かつて私の、魔封符でも、封じることが…できなかった……」

「なんだと…!?」

「知らんぞ…私はもう、なにも知らぬ…」

 そして、ニヤリ…血まみれの顔に笑みを浮かべ、神主は最後に言い放つ。

「地獄で…待っているぞ…すぐに…会える……ハディ…」

「てめえ……ッ!!」

 神主が事切れ、ハディがラゴゥルとマグダラの二人に背を向けて神主のほうへ駆け出す。

「ねえ、ちょっと!」

 追撃しようとするラゴゥルを制止し、マグダラがハディに呼びかけた、そのとき。

 ドゴオオォォォォオオオオンンッッ!!

 爆発音とともに神社の本殿が吹き飛び、地鳴りとともに黒い炎が噴き出す。まるで火山が噴火したかのような衝撃にハディは圧倒され、他の二人も注意を向けざるを得なかった。

 とてつもなく大きな、そして邪悪な力の存在を感じる……!!

 社(やしろ)を、土を、草を、木を、森を…焼き払い、卵のような形をした物体が胎児のように蠢き、やがて巨大な狐の姿となって三人の前に立ちはだかる。

 謎の存在を覆っていた闇がどろどろと溶け出し、完全武装した鎧武者が覚醒した。

『我が名は…禍々美(マガミ)……貴様らか…我が安寧の時を邪魔したのは……』

「まさか、本当に山神が…!?」呆然とつぶやくハディ。

「ねえ、ちょっと。本当に、冗談じゃないわよ…!」マグダラは成り行きのあまりの酷さに言葉を失った。

  禍々美はハディの姿をじっと見つめ、自分よりも遥かにちっぽけで弱々しく見える存在が纏っている漆黒の力に気づく。

『ほう…小僧、そなた、我と同じ闇の力を使うのか……』

「同じ、力…?」

『邪悪なる感情を具現化させ、力へと変える初源の闇( Legacy of Darkness )…しかし、そなたの力はあまりに脆弱。理解できよう、同じ力を扱う者ならば』

「う、うぅっ……!!」

 ハディは禍々美に本能的な恐怖を覚えていた。

 冷や汗が頬を伝い、足が震える。

 そう、禍々美の言う通り…わかるのだ。同じ力を使うからこそ、互いの力量に歴然とした差があることに。

 例えるなら、生まれたばかりの小鳥と獰猛な虎のように。猫を前にした鼠ほども分のない圧倒的な存在に、ハディは跪かず立っているのがやっとだった。

『さて興を邪魔されたとあっては、もうこの村にいる理由もなかろう。我を必死に喰い止めていた人間たちも…居なくなったようだし…こんな村は焼き尽くし、滅ぼしてから余所の土地に移るとするか』

「ま、待て…ッ!なぜだ、なぜ村を滅ぼす!?オマエは何を恨んでいるんだ?あの儀式はいったい何だったんだ!」

『…なにも聞いておらぬか』

 じろり、禍々美はハディを一瞥し、わずかな沈黙ののち語りはじめた。

『大昔に外の国との戦争があった。この村の山の裏手に海があるのは知っていよう、そこから外の国の大軍勢が船を使って上陸しようとしていたのだ』

 まだ日本が一つの国ではなかった頃(と禍々美は言ったが、その言い回しの意図がハディには理解できなかった)、この地では古くから人間と狐魂がともに暮らしていた。

 外国からの侵略軍を前に人間の兵士たちは海岸に防衛線を築いたが、そのままでは敗北は必至。

 そこで狐魂たちは「森に隠れている狐魂たちを全員連れてくるから、それまでなんとか持ちこたえてくれ」と人間たちに頼む。人間はその言葉に頷き、救援が到着するまでのあいだ、数のうえで圧倒的に不利な戦いに挑んだ。

 しかし狐魂たちは来なかった。森へ避難した彼らはそのまま姿を隠し、時間稼ぎの捨て石として利用された人間たちは助けを待ち侘びながら倒され、戦いで死ななかった者は捕らえられ、その場で処刑された。

 狐魂に裏切られ、亡霊と化した兵士たちの魂はやがて怨念の集合体として一つの存在となり、狐魂「禍々美」となって生まれ変わった。

『狐魂に裏切られ、狐魂を恨む我ら自身が狐魂へと姿を変える…皮肉なものよ』

「なんてことだ、それじゃあこの村は…この村の狐魂たちは…!!」

『左様、かつて我らを騙し森に隠れた者どもの末裔。どうして許すことができよう、なにゆえ忘れることができよう。我らが苦しみを忘れ、痛みを癒すのは、幼い狐魂の娘子(むすめご)の恐怖に満ちた顔、その感情のみ』

 禍々美は目を細め、虚空を…黒い炎が照らす夜空を見つめた。

 幼い娘が惨い目に遭っているときの光景を思い出しているのか。あるいは、もっと昔のことを思い出しているのか。

 自分がまだ狐魂ではなかった頃、自分がまだ一つではなかった頃、自分がまだ「自分たち」だった頃のことを。

『あの狐魂たちは…良き隣人であった。裏切ったことを除けばな。わたしたちのために命を捨ててくれと、そう正直に言ってくれさえしたら、喜んでそうしたやもしれぬ。死んだあとで、誰かを恨むことなぞなかったやもしれぬ。誇りを持って死ねたやもしれぬ。それを許さなかったのはあやつらぞ。我らが望んだことではない』

「しかし…」

『結果は問題ではない、必要なのだよ…対価が。さて』

「?」

『おぬしは人間か?それとも狐魂か?ルーツなき者よ…歴史なき者、自覚なき魂。ならば問おう、おぬしの言うままに信じよう。汝の正体を』

「聞いてどうする。俺が狐魂なら殺すのか?」

『おぬしがそう言うならば。命惜しさに人間を名乗ったならば、そなたはすでに狐魂にあらず。我が身可愛さに半身を捨てた人間としてしか生きる道はない。我が殺すに値せぬ』

 俺が人間か、狐魂か、だと…?

 イヤなことを聞いてくれるな、そう思いながらもハディは禍々美の指摘に動揺していた。

 考えたこともなかったのだ、自分がどちらに近いか…いや、自分自身で「どちらに近いか」と思っているか、などとは。

 人間を憎んではいたが、かといって、自分が狐魂であるという自覚もなかった。母の顔を知らず、村の狐魂たちと親しくしてきたわけでもない。

 いまにして思えば、村の狐魂の何人かは自分の出生について知っていたのだろう。どこか遠巻きに煙たがられているのを感じ、得体の知れない疎外感に苛まれながら、ハディ自身も自然と距離を置くようになっていたのである。

「俺は……ッ!!」

 拳を固く握り、ハディが顔を上げたそのとき、禍々美の体表に網目状の光線が浮かび上がり、動きを縛りつけた!

 ビュウゥゥゥウウウンッ!

 電子ノイズのような異音とともに、マグダラの水の結界が禍々美を捉える!

「おまえっ…!」驚きの声を上げるハディ。

 しかしハディのことは眼中にないらしいマグダラは、目前に迫った脅威に対処するため相棒に呼びかけた。

「ラゴゥル、頼んだわよ!」

「交戦規定は?」

「殲滅( Eliminate )!」

「承知」

 風を纏い、航空機のような爆音を上げながらラゴゥルが禍々美に向かって突進する!

 ボゴガァッ!!

 屈強な肉体からマッハの速度で繰り出される拳が禍々美の胴を捉え、命中の際に生じた衝撃波が粉塵を巻き上げる。

 が、しかし。

『余所者奴、汝邪魔者也(ヨソモノメ、ウットウシイゾッ)!!』

 眼光鋭くラゴゥルを睨み据えた禍々美は木の幹ほどもある巨大な腕を振り払い、ラゴゥルの身体を軽々と吹き飛ばした!

 きりもみ回転しながら飛ばされたラゴゥルは宙で一転し体勢を整える。咄嗟に風のシールドで攻撃を防いだのか、派手にやられたにしてはダメージはさほどでもないようだ。

 それよりも禍々美が攻撃してきたということは、マグダラの結界がそれほど効果を発揮していない証明だった。

 それでも僅かではあるが禍々美の動きを鈍らせているのは確かなようで、思うように身動きが取れないことに対する禍々美の苛立ちが遠くからでも感じ取れるほどよくわかる。

『出しゃばりめが…!』

 忌々しげにつぶやく禍々美をじっと見つめていたハディに、マグダラが声をかける。

「ちょっとアンタ、なにボサッとしてんのさ!?これはあんたの村の問題でしょうが!」

 おい、待て…ハディはマグダラを見つめ、無言のまま質問を投げかけた。

 なんで俺もこいつと戦わなきゃいけない、みたいな雰囲気になってるんだ?

 そこでようやくハディは、そもそも復讐すべきは神主ではなく、自らの復讐のために何も知らぬ娘たちを嬲り死なせたこの山神なのではないか、ということに思い当たった。

 たとえ当人的には立派な動機があったとしても。相手の目的も復讐だったとしても。

 もっと大きな問題もある。自分はこの強大な山神と戦って勝てるのか、ということだ。

 神主の魔封符が相手でなければ全力を出して正面から戦うこともできるが、それが通用するかどうかは別だった。

 改めて禍々美と対峙するハディに、禍々美が口を開く。

『おぬしは人間か、狐魂か。行動で示すがよい』

「…俺は……俺は……ッ!!」

 漆黒の装甲を纏い、腕に闇の刃を宿らせたハディが禍々美に向かって突進する!

「うおおおおおおおおおおおおッッッ!!」

 ドズシャアッ!!

 ハディが咆哮とともに腕を振り抜き、闇の一閃が禍々美の肉体を切り裂いた!

 だが禍々美は痛みを感じた素振りも動揺した様子もなく、ただ静かにハディを見下ろす。一方のハディも攻撃を直撃させたにも関わらず、その表情は先刻より絶望に満ちていた。

『実際に触れて理解したであろう、狐魂…濃い影に薄い影を重ねても、何にもならぬ。ただおぬしの形が我の影に呑み込まれ消えるだけ』

「馬鹿なッ…」

『強大な闇に、脆弱な闇の力は通用せぬ。まったく、ただの、一ツ欠片も。愚かな』

 そして…ドスッ!

 身を翻した禍々美、その手に握られた太刀の一撃を受けたハディの全身から血が噴き出した!

「ぐあああぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 攻撃を受ける直前、すべての力を装甲化して防御に回したにも関わらず、まるでそんなものは存在しないかのようなダメージを受け、あまりの激痛にハディは悲鳴をあげる。

 禍々美の言葉を要約すれば…闇の力は他の属性に比べ、優位性や序列がはっきりしている、ということ。

 強者はすべてにおいて弱者を圧倒し、弱者の力はまったく通用しない。

 俺にできることは…なにもないのか!?

「クソッ!」

 怒りと絶望にまかせて地面を拳で叩き、ハディは歯軋りする。

 そもそも相手は神だぞ?神を相手に、いったいどうやって戦えっていうんだ?

 ハディが葛藤している間にもマグダラが結界の効力を強め、ふたたびラゴゥルが禍々美に拳撃を繰り出す。

 あいつらもあいつらだ、とハディは思う。およそ勝ち目の薄い戦いに一片の疑問もなく立ち向かう理由はなんだ?

 見たところ死にたがっているようにも、決死の特攻を仕掛けているようにも見えなかったから、当人的には勝算があるのだろうが、その自身がどこからくるものなのか、それについてハディにはまったく見当がつかなかった。

 やがて、ドサッ、禍々美の攻撃を受けたラゴゥルが吹っ飛ばされ、ハディのすぐ傍に落下した。

「おい、あんた」ハディがラゴゥルに声をかける。「なんでこんな無茶な攻撃を続けるんだ?」

 すっくと立ち上がったラゴゥルは身体中が傷だらけであるにも関わらず、まるで無傷ででもあるかのように振る舞う。

「それは私の攻撃が通用するからだ。たとえ僅かであってもな。コンピューターゲーム風に言えば、1か2のダメージといったところか」

「おいおい…」

「0ダメージなら、完全に無効化されるなら、勝算はない。だが1ダメージでも与えられるなら、相手のヒットポイントが1000あろうと、1000回攻撃を与えれば倒せる。なら、それを実行するまでだ」

 そう言いきり、ラゴゥルはふたたび風の渦を身に纏った。戦闘態勢だ。

 こいつは気が長いのか、我慢強いのか…そう思いながら、ハディは尋ねる。

「もし相手が自動回復持ちだったらどうすんだよ」

「そうでないことを祈ろう」

 そう答え、ラゴゥルは禍々美に立ち向かっていった。

 ラゴゥルは戦いに迷いはないらしい、ならマグダラは?

 ハディは大声でマグダラに問いかける。

「おい、オマエも神と戦おうなんて大それたことを考えるもんだな」

「神?あれが?」

 そのマグダラの態度は、ハディにとって意外なものだった。

 驚くハディにマグダラは言葉を続ける。

「あんたはあれが神だと思ってるのね?村でそう伝わってたから?あいつがそう名乗ったから?いいこと…あれはね、あいつは、山神を、神を自称する、『わたしたちと同じ』ただの狐魂よ」

「…… …な」

 それは疑問の提示ではなかった。答えだった。マグダラは言い切っていた。

 禍々美はちょっとサイズのでかい、ちょっとばかり力の強い、ただの狐魂である…と。

 それを聞いていたのはハディだけではなく、その言葉は禍々美の耳にも届いていた。

『ハッハハハハハハ!!小娘、良い度胸をしているな。この我を…ただの狐魂呼ばわりするとは!』

 その笑い声だけでマグダラが構築し続けていた結界が破られ、禍々美の胴から伸びた触手がマグダラの首筋を掴んで締め上げる。

 ぐっ、苦しそうな呻き声を上げるマグダラに気づき、ラゴゥルが拳を振り上げて風の渦をカッターのように飛ばした。

「断て、真空波( Sonic Boomerang )!」

 ザンッ!!

 派手な炸裂音とともに触手が斬り飛ばされ、マグダラの首に巻きついていた欠片が力を失ったように地面に落ちる。

 その様子を見た禍々美が興味深そうにつぶやく。

『ほう…我を攻撃するため蓄えた力を仲間のために使うか。我があの小娘に気を取られている隙を突いてくると思ったがな』

 そして鎧の胴部分を開放し…縦にばっくりと裂けた腹から、無数の牙が姿を覗かせた。

 もし接近戦に持ち込んでいたら、と考え、ラゴゥルはごくりと息を呑む。そのままあの大口に飲み込まれ、喰われていたかもしれない。

 この山神を名乗る狐魂、ただ強いだけではない。思った以上に小賢しい戦いをするぞ…!

『罠を見破っていたわけはあるまい。手抜きで犠牲もなしに勝てると思わぬことだ、若造』

「見損なってもらっては困る。この程度の気を練ることなど造作もないこと…私が果てるが先か、貴君が滅ぶが先か、試されるがいい」

『ならば来るがよい!』

 禍々美に対し果敢に立ち向かっていくラゴゥル、その姿をハディは歯痒い思いで見つめていた。

 千回殴れば殺せるだと?悠長なこと言いやがって…!

 もはや格下の自分になど興味がないかのような素振りを見せる禍々美を睨みつけ、ハディはゆっくりと立ち上がる。

 俺は何をすべきだ?俺に何ができる?

 闇と闇の戦いに、1ダメージなどというものは存在しない。0か100、そのどちらかのみだ。

 ハディが禍々美と戦うには、ハディ自身が禍々美の力を上回る必要があった。

 どうやって…必死に頭を悩ませるハディに、やがて一つの案が浮かんだ。

 自分一人ではどうしようもない。どうにもできない。自分一人では。

「おいッ!!」

 突如叫び声をあげるハディ、その尋常でない様子にラゴゥルとマグダラ、そして禍々美が注意を向ける。

 一人だけではどうにもならないなら、他者を利用するしかない。それが可能なら。それが何であっても。

 そう…それが、「何」であっても。

「おい、女ども!聞こえてるんだろ?見てるんだろ?」

 女ども?

 ハディの言葉に、マグダラが眉をひそめる。

 てっきり自分とラゴゥルに呼びかけたのだと思っていた、だが、そうではない。禍々美に言っているのでもない。

 彼は、ハディは、いったい「誰」に呼びかけているのだ?

 だが次の一言で、その場にいる全員がハディの意図を理解した。

「復讐する機会は今しかない、おまえらを殺したクソッタレな神に復讐するチャンスは!これが最初で最後だ!だから…俺に力を貸しやがれーーーッッ!!」

「なんてこと…」

『……ほう』

 驚愕するマグダラ、一方で禍々美は「興味深い」といった様子でため息をつく。

 ハディは…彼は、いままで禍々美の犠牲になった狐魂の少女たちの霊に呼びかけているのだ!

『クルシイ、クルシイ』

『ツライヨ、カナシイヨ』

『エーンエーン』

『ドウシテ?ワタシ、ナニカ、ワルイコトシタ?』

『コロシテ。アイツヲコロシテ』

 雷鳴に似た轟音とともに漆黒の影が渦を巻き、ハディにまとわりつく。

 無垢な少女たちの抱える純粋な負の感情がハディの心を支配し、心臓を握り潰されるような圧迫感が襲った。

「ぐっ、あぁ……!!」

 爆発的な力の増長と、脳が焼き切れそうな灼熱の痛みにハディは肩膝をつく。

 これは想定済の影響だった。少女たちの心の闇を一身に受け、ハディは気が狂いそうになりながらも、どうにか意識を保とうとする。

 わけのわからぬまま村の男たちに陵辱され、命を失うその瞬間、その光景を楽しそうに見つめる禍々美の姿を誰もが目に焼きつけていた。自分たちが得体の知れない存在のために犠牲になったということを理解していた。

『ニクイヨ。コロシテヨ。アイツヲ、コロシテヨ……!!』

「うぅぅ…よし、いいぞ…力が漲ってくるのがわかる…俺があいつを殺してやるよ。だから、俺に手を貸せ」

 顔面が紙のように蒼白になり、汗を顎から滴らせながら、ハディは少女たちに呼びかけた。

「俺に力を貸してくれ…母さん……!!」

『ほう、ほう、ほう。どんな悪あがきをするかと思えば、幼き娘子の手を借りるとはな。そんなもので我に勝てると思うたか』

「じゃあ試してやるよ!」

 黒色の刃を携え、ズアッ、ハディが一度の跳躍で遠く離れた禍々美の懐まで一瞬で距離を詰める!

 ガギンッ!!

 重厚な金属音を立ててハディの闇の刃と禍々美の太刀がぶつかりあい、火花を散らす。

 どちらが譲るとも劣らない、二人の力は、拮抗していた…!!

『クッ!』

 禍々美が太刀を大きく振り払い、ハディが跳ね飛ばされる。

 刃を地面に立てて華麗な着地を決めるハディに、禍々美は忌々しげな声で言い放った。

『なるほど、所詮は子供の力と見くびっていたが…見通しが甘かったようだ』

「俺は千回殴るなんて悠長なことは言わねー。一回でブッ殺してやる」

 そう言いながら、しかし、このままでは決定打に欠けるとハディは思っていた。

 まだだ、まだ足りない。あの山神を殺すには、まだ何かが…!

 そのときハディの視界に、奇妙なビジョンが写った。黒髪の少女がゆっくりと腕を上げ、なにかを指差す。

『アレヲ…』

 そうか、ハディは少女に向かって頷いた。利用できるものは何でも利用する。それが何であっても!

 禍々美が投擲してきた棒手裏剣のような飛翔物をかわしながら、ハディは少女が指差した方向へ向かって駆け出す。

 そこにあったのは…力尽き、息絶えた神主の亡骸!

「力を…借りるぜ、クソオヤジ!」

 ハディは神主が後生大事に握り締めていた魔封符を掴み、禍々美に向かって突き出す!

「一族の血を継ぎし我が前にその力を示せ、妖魔駆逐…破除詛咒!!」

『なんだと!?』

 ハディが取った意想外の行動に禍々美がハッとする。

 魔封符からほとばしる白い光が颶風となって禍々美を襲い、悲鳴を上げる禍々美の身体からどす黒い血が噴出し続ける。

 思った通りだと、ハディは確信を得た。禍々美に対しても魔封符は効果がある!

 おそらく神主が禍々美を倒せなかったのは、魔封符で力を半減させてもなお、神主の実力では…人間の力では禍々美に及ばなかったからだろう。

『おのれ、貴様ッ!!』

 ガンッ、禍々美の振るった太刀を受け止め、ハディは怨念の力をすべて使い魔に吸収させる。

 やがて禍々美よりも強く巨大な存在になった使い魔は、神を名乗る狐魂を真紅の瞳で見下ろし、嘲笑するかのように鼻を鳴らす。

 そして、ハディの死刑執行命令が下った。

「喰らい尽くせッ!!」

 ォォォオオオオォォォンンンッッ!!

 おぞましい雄叫びをあげながら、漆黒の獣は禍々美目がけて飛びかかり、鋭い牙で禍々美の身体を引き裂く!

 目の前の凄惨な光景にマグダラとラゴゥルは言葉をなくし、一方でハディは怒りと歓喜を湛えた恍惚の表情で獲物がばらばらにちぎれ、粉砕されるさまを見つめ続けている。

 やがて肉片と化した禍々美が、使い魔の牙にだらしなくぶら下がった眼球と顎の一部を動かし発声する。

『おのれ…いまに見ておれ。いつの日かふたたび、必ず…復活……!!』

「失せな。おまえは現世で恨みを買いすぎた…おまえにはもう、他人を恨むために現世に留まる資格はねぇ」

 神を名乗った狐魂を見下し、ハディは脈打つ核(心臓)を自らの手で掴むと、それを握り潰した。

 巨大な爆発とともに禍々美が四散し、黒い雨が…禍々美の血が…村中に降り注ぐ。

 終わった、とハディは思った。

 哀れな娘たちの仇を取り、村に平和をもたらし、すべてが解決…

『コレデ、オワリナノ?』

「ああ…すべてが終わった。感謝するぜ、俺一人では…やつを倒せなかった…」

 少女たちの亡霊に、ハディは感謝の言葉を述べる。

 だがハディは気づいていなかった。少女たちを甘く見ていた。彼女たちの怨念を軽く見ていた。あたかも禍々美のように。

『ヤダヨ』

「え?」

『モット、コロソウヨ』

「なにを…」

『ウラギラレタ』

「!!」

『ミステラレタ』

『カナシイ、カナシイ』

『オトウサン、オカアサン、ドウシテ?』

『ドウシテ、ワタシヲ、ステタノ?』

『ジブンタチガ、タスカルタメニ』

『ワタシタチヲ、ミステタンダ』

『ウラギッタンダ』

「おい、やめろ…」

 なんてことだ、ハディは少女たちが抱える闇の深さに絶望する。

 彼女たちは…自分の両親を恨んでいるのか!?

 幾重にも重なる嘆きの声が、少女たちの泣き声がハディの脳をぐるぐると回り、魂の悲鳴が臓腑に重く響く。

『コロシテヨ、ミンナ、コロシテヨ!』

『エーン、エーン』

『ユルセナイ』

『ドウシテ』

『ドウシテ……?』

『シニタクナイヨ』

『シニタクナカッタヨ』

 やめろ……!!

 吐き気をこらえきれなくなり、ハディはその場にうずくまる。

 禍々美では足りないのだ。村の男たちを殺しただけでは足りないのだ。彼女たちはすべてを恨んでいる。

 自分の両親も。同胞である狐魂たちも。この村そのものまで。

 そうだ、殺そう、やがてハディの意識、彼の魂も少女たちの声に同調しはじめる。

 ずっと虐げられてきた。誰も救いの手を差し伸べてはくれなかった。

 ただ無力で、他人を犠牲にすることでしか生きられない害虫ども。俺が殺したって、いったい誰が咎められる?

 みんながそれを求めているのに?

「そうだな…殺そう。みんな殺そう。死んで当然の連中だ。皆殺しにしてやる」

『コロソウ』

『コロソウ』

『ミンナ、コロソウ』

 そうだ、みんな殺してやろう…

 もう吐き気は収まっていた。怨念に逆らう必要などない、受け容れてしまえばいいのだ。

 なにを悩むことがあっただろう?

 ゆっくりと立ち上がり、獲物を求めてぐるりと周囲を見回した、そのとき。

『だめだよ』

「!?」

 いままで聞くことのなかった、優しい声がハディの脳内で反響する。

 次の瞬間…視界がホワイトアウトし、ハディは意識を失った。

 

「ここは…どこだ?」

 意識を取り戻したとき、ハディは異様な光景に目を疑った。

 なんの変哲もない、小さな公園。どこの団地にもありそうな、二、三の遊具が適当に置かれた広場。

 公園に異常があったわけではない。自分がここにいることが異常なのだ。

 ハディはふたたび自問する。ここはどこだ?これは…なんだ?

 そこにいるのはハディ一人ではなかった。年齢のまばらな、しかしいずれも十四を過ぎていないであろう少女たちがじっとハディを見つめている。

 存在が不安定なのか、彼女たちに焦点を合わせようとしても、像(ヴィジョン)がぶれて確たる姿を認識できない。

 だが、一人…たった一人だけ、はっきりと姿を捉えることができる少女がいた。

 黒のショートヘア、赤い着物、物憂げな表情。

 身長はハディの胸の高さほど、おそらく十歳前後であろう少女の顔つきはどこか大人びている。

 見た目より長生きしているというよりは、精神的な成熟が他人よりも早いという感じで、落ち着いてはいるが、その振る舞いはあくまで歳相応という雰囲気であった。

 やがてその少女は…ハディにとって見覚えのない、赤の他人の少女は、ハディに近づき、膝をついたまま呆然と見つめる彼の頬にそっと手を添えた。

『じかんがたつのは、はやいね』

「きみは…?」

『わたしの、ちいさな…あかちゃん』

「!!」

 少女の言葉を聞いて、ハディは愕然とする。

 まさか、彼女が…この少女が、俺の……!?

 言いたいことがいっぱいあった。聞きたいことがたくさんあった。もっとよく見つめ…その存在を確かめたかった。

 だが、その行動のいずれもハディは起こすことができなかった。

 ただ精神的な衝撃が大きく、なにもできなかった…なにも考えることができなかった。

 愛おしそうにハディの頬を優しく撫で、少女はつぶやく。

『いっしょに…くらしたかったな……』

 少女は、涙を流した。

 それまでずっと堪えていたのだろう、感情を表に出すまいとしていた反動だったに違いない。

 いままでの大人びた表情が嘘のように、少女は破顔し泣き崩れる。

「母さん!!」

 ハディの悲痛な叫びが、虚空へと呑まれていき……

 

「ラゴゥル、待って!」

 怨念に取り憑かれたハディの背中に渾身の一撃を叩き込もうとしたラゴゥルを、マグダラが呼び止める。

 それまでハディの体内から放出され続けていたどす黒い怨念の気が霧散し、ラゴゥルとマグダラの心を圧し潰しかねなかったプレッシャーが波のように引いていく。

 一方で、まさか二人が自分を始末しようとしていたことなど考えにも及んでいないハディは、頬に残る微かな感触を思い出し、束の間自分が見た幻影に思いを馳せた。

 すでに先刻まで自分の魂を蝕んでいたドス黒い怨霊の気は失せている。

 禍々美を喰らった使い魔もすっかり元の温和な姿に戻り、鼻を鳴らしながら心配そうにハディに寄り添っている。

 あの少女だ、とハディは思った。

 身も心も、魂すら邪念に委ねようとした自分を、あの少女が救ってくれたのだ。

「…母さん……!!」

 湧き上がる感情を堪えきれず、ハディは泣き叫ぶ。

 夜明けが近づくなか、泣き叫び続けるハディの声が村中に響き渡った。

 

「あたしたちと一緒に来てくれる?いろいろ、聞きたいこともあるし…」

 夜が明け涙も枯れたころ、ハディはマグダラたちと向かい合っていた。

 依然として彼女たちの素性や目的は知れず、ハディとしては特に従う義理も理由もなかったのだが。

「いいよ、ついていってやるよ。どこまでも行ってやるさ」

「やけに素直ね」

「なんだ、逆らってほしかったのか?」

「そうじゃないけど」

 いちおう、二人に恩はなくもない。

 おそらく自分独りでは、あの山神は倒せなかった。

 ラゴゥルの牽制、マグダラの結界、そして「どれだけ強大な力を持とうとも、狐魂である以上、本質は自分たちと変わらない」という、あの言葉。

 あれがなければ、ハディの心は萎えたまま、山神に逆らうことを考えなかっただろう。

 そしてなにより、もう、ハディはこの村にはいられなかった。

 朝になり、度重なる爆発、戦闘音に目を醒ました村人たちは一部始終を目撃しており、ハディの驚異的な戦闘力、その危険性をはっきりと目に焼きつけていた。

 一度は亡霊たちに拐かされ、その牙を村の狐魂たちに向けようとしたことも。

 ハディは視線を巡らせ、母屋の影に隠れていた、今夜生け贄に奉げられるはずだった娘の母狐の姿を見つけ、じっと視線を据える。

 それまで優しく接し、なにかと世話を焼いてくれた母狐は怯えた瞳でハディを見返し、物陰に隠れる。

 こんなものだ…ハディはどこか達観したような面持ちでそう考える。

 後悔はない。怒りもない。なるようになっただけだ。

 村に…これまでの人生に背を向け、ハディは余所者に連れられ出て行こうとする。その背中を、一人の少女が追いかけた。

「?」

 小さな足音に気づき、ハディが振り返る。

 そこにいたのは今夜生け贄に奉げられるはずだった狐魂の少女、名をティエールといったか。

 村人たちがハラハラした様子で見守るなか、ティエールはハディの顔をじっと見上げると、両腕を伸ばし、人差し指と、中指を立てた。

 両手のVサイン。

「…ぷっ、アハハ」

 無愛想な顔で精一杯の感謝と、激励の気持ちを表現するティエールを見つめ、ハディは思わず噴き出してしまった。

 そしてハディ自身もVサインを返し、晴れ晴れとした顔で、一言。

「ちょっと行ってくるぜ。元気でな」

 そして彼は、新たな人生への第一歩を踏み出した。

 

 その後米国へと渡ったハディはCIAが擁する狐魂調査チームと合流し、事情聴取やら情報交換やら各種手続きを踏んだのち、彼の能力を見出したライアンの推薦もあって、研究所地下秘匿文書庫の管理人として採用されたのであった。

 まあ、無難な落としどころ…というやつなのだろう。

「まさかCIAだとは思わなかったけどな。世の中せめーわ」

 そんなことをつぶやき、ズズ、ハディは急須から注いだ緑茶をすする。

 マグダラとラゴゥルはあの事件の直後に配置転換され、それぞれ研究所の守衛、そしてライアンのボディガードとして新たな任務に従事している。

 このところ研究所に移送されてくる狐魂の数が激増しており、施設内の保安体勢の強化と、不慮の事故等による機密漏洩を防ぐための措置だ。内務に転向したとはいえ、決して左遷されたわけではない。

 トラブルが発生した場合はハディも対処に駆り出されることがあるものの、最近はこれといった問題は発生していない。

 今日の仕事は…特になし。文書庫の整理は昨日終わったし、侵入者に注意し(そもそも地上階が制圧されなければ地下に侵入者など来ようもないのだが)、職員からの資料の貸し出し要請に応じるほかは別段やることもない。

「公務員はァー、気楽な稼業ときたもんだ…っと」

 勉学に励む時間だけはタップリあるわけだが、しかし、これまでの過酷な人生との落差がありすぎて、このままだと若ボケしそうだ。

 そんなことを考えるハディに、ピスピス、と鼻を鳴らしながら使い魔が頬をすり寄せてくる。

『つぎはいつ、たたかえる?』

「今度な」

 見かけは大人しい小動物そのものだが、元来の性格か、それとも激闘を経験したせいか、この使い魔はわりと血の気が多い。

 だからといって特に悪さをするわけではないので、ハディはそのことに頭を悩ませたことはないが。

『おれはやるぜ、おれはやるぜ』

「今度な」

 適当に使い魔をあやし、ハディはベッドに腰掛けると、携帯ゲーム機のスイッチを入れた。

 てれってれってってれってー♪

 わっはっはー♪

 平和な日々…自堕落、と言ってもいいかもしれない。

 力のない者は何もできない。が、力のある者は、べつに力を使わなくてもいいのだ。

 望むと望まざるとに関わらず、そのうちトラブルは勝手に向こうからやって来る。あるいは、このまま無為に時が流れて老いていくだけかもしれないが、たぶん、そうはならないだろう。

 なぜなら、自分は「そういう世界」に生きてるからだ。

 だから、それまでは…多少腑抜けていたって、バチは当たらないだろう。たぶん。

 なあ?……母さん。

 

 

 

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