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「グレアム尊士の好き勝手放題」

      

 

      

『コンコンコレクター - SIDE STORIES -』

- Shop Flaurein Series -

【 Erostis - Origin - 】 Part_2

 

 

 

 

 

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 JJとともに大小さまざまな麻薬組織を潰して回っているうちに、二年の歳月が過ぎた。

 スリルに満ちたエキサイティングな日々はエラスティスにとって幸福とさえ言っていい時間だったが、無論、こんな生活が永遠に続くわけではないこともわかっていた。

 とはいえ、将来のことを考えたことはない。もうすこし、あとすこし、この時間が続けば…

 そう思っていた矢先に、エラスティスはJJの口からすべてが終わったことを、突然知らされた。

「こいつを受け取ってくれ」

 そう言って、JJは一通の封筒を差し出した。

 まるで罰ゲームで書かされたラブレターのように渡された封筒を開け、エラスティスは中に入っていた二枚の紙片を見つめる。

 高額の小切手。カンザスへの航空券が一枚。

 それに加え、いつの間に撮影したのか、エラスティスの顔写真が貼られた身分証が出てきた。それも、三枚。名前の記述はケイシー・モンティノ、メリッサ・ジョンソン、ミンディー・オーウェン…やけに精巧にできてはいたが、偽造されたものであることは明らかだった。

「これ、なにかしら?」

「ようやく本部の説得に成功した。君はもう、充分過ぎるほど働いてくれたからね…例の書類だよ、君の犯罪履歴を詳細に記載した。あれを始末した。まあ、トランキライトはかなり嫌な顔をしたけどね」

「ごめんなさい、まだちょっと事態が把握できないんだけど」

「もう、こんな危険な生活を続ける必要はないってことさ。君を任務から解放する。いままで無茶に付き合わせて、本当に…すまなかった」

 沈痛な面持ちで頭を下げるJJを見つめ、エラスティスはふたたび小切手の額面に目を通す。三万ドル。人生をやり直すための支度金としては、まあ充分な額だった。

 いままでJJからは、任務の合間に色々なことを教わっていた。狐魂としての力の使い方。狐魂としての力の隠し方。世の中について。殺人はいけないこと。盗みはいけないこと。騙したり、他人を傷つけたりするのは良くないということ。本当は、世界はもっと優しいんだということ。

 それらすべてが、このときのための布石だったというのだろうか?

 本来ならば手放しで喜んでいいはずだったが、なぜかエラスティスは素直に喜べないでいた。

 静かにこちらの動向を窺うJJに、エラスティスは訊ねる。

「それで、あなたはこれからどうするの?」

「さてね。もう少しだけこの辺にいるだろうけど、すぐに僕も今の任を解かれることになってるんだ。そしたら、まあ、本部に戻ってお茶汲みでもするかな」

「お茶汲み?あなたが?」

「こう見えてもコーヒーを淹れるのは得意なんだよ?カプチーノとかさ。ただ、本部にエスプレッソ・マシンなんかないだろうけど。残念なことに」

 そういう話をしているんじゃないが、とエラスティスはため息をつく。

 はぐらかしたということは、本当のことを言う気はないのだろう。一見柔和そうに見えて、このJJという男はけっこうな石頭なのだ。そのことを理解していたエラスティスは、これ以上突っ込んだ質問をすることを避けた。

 意外と早く訪れた別れ。

 気遣いに対する感謝。いままで散々に引っ張り回し、そのうえ勝手に手を切ろうとする身勝手さへの怒り。ずっと一緒にいて、一緒にいるのが当たり前だった男との別れに伴う寂しさ。言葉にできない複雑な感情をどう処理していいかわからず、エラスティスはただJJに背を向け、つぶやいた。

「貰えるものは頂いておくわ。ありがとう…さようなら」

 他に、どう言えばよかったのだろう?

 黙って見送るJJの視線を感じながら、エラスティスはその場凌ぎの活動拠点がわりに借りていたホテルの一室を後にした。

 ホテルのロビーを出てすぐにタクシーを呼び、空港へと向かうよう指示する。車が発進し、バックミラー越しにホテルがどんどん遠ざかっていったが、エラスティスは一度も振り返らなかった。

 そして、以後…エラスティスがJJに会うことは、二度となかった。

 

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 後で知ったことだが、高額の小切手や航空券、偽造身分証などは当然ながらFBIが用意したものではなく、また用意を許可したものでもなかった。

 原則としてJJは麻薬組織壊滅の際に押収した麻薬を本部に送っていたが、その一部をくすねていたのだ。高純度の麻薬は、少量でも高い値がつく。もちろん私服を肥やすためではない。自分で使うわけでもない。

 彼は違法に入手した麻薬や金品から得た現金を活動資金に充て、そして一部をエラスティスのために貯蓄していたのだ。偽造身分証は、JJ個人のつてを頼って職人の手で造られたものだった。無論、身分証の偽造にも多額の現金が支払われている。

 そもそも、エラスティスを解放すること自体がJJの独断だったのだ。たとえ協力者として活躍したにせよ、かつての凶悪犯罪者を社会に野放しにするほどFBIは甘くない。どちらかといえば本部側の人間だったトランキライトも、それについては同意見だったはずだ。

 それだっていうのに、どうしてここまでエラスティスに肩入れしたのか。

 すでに機上の人になっていたエラスティスは、ふと過去にJJから言われたことを思い出した。

『本当は、女の子はこんな危険な生き方をするべきじゃない』

 なにをいまさら…当時は一笑に伏して本気で取り合わなかったのだが、今にして思えば、あれは彼の本音だったのだろうか。

「…勝手な男」

 エラスティスのつぶやきに、隣席の乗客が怪訝な表情を向ける。しかしエラスティスはそれに気づかないフリをしたまま、窓の外へ視線を逸らした。

 別に私は、いまの生き方に不満があるとか、まして自分が不幸だなんて思ったこと、なかったのに。

 自分の尺度で勝手に他人の人生を不適切なものだと決めつけたJJに対して、思わずそんな言葉が漏れたが、それでも、JJの言うような「普通の生き方」というものに対して、まったく興味がないわけではなかった。

 そもそもエラスティスには、「暴力のない世界」などというものが本当にあるなどとはにわかに信じ難かったし、そんな世界で生きるというのがどういうことか、想像すらつかなかった。

 もちろん、実際にそういう世界で生きることになったとき、自分がどんな感情を抱くかなど、考えもしていなかった。

 

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 退屈だ、というのが最初の感想だった。ひどく退屈だ、と。

 適当な場所にアパートを借り(保証人を作るのは簡単だった。そのへんの貧乏人に100ドル札を掴ませればいい)、新しい社会に適応するための勉強をはじめ、あれこれ精力的に動いているうちに自然と知人や友人が増え、小切手の三万ドルがなくなる前に出版社の秘書という職を得ることができた。

 その過程でちょっとした詐術を使うことはあったが(出版社の秘書というのは、経歴の怪しい人間がそうそうなれるものではない)、そういう生活の基盤を固める以外に他人を騙したり、盗みを働いたり、人を殺したり、裏路地で客を取るような真似は一切しなかった。もちろん、狐魂としての正体を明かすことも。

 それは、JJとの約束を守るためでもあった。

「ひとまず普通の生活をしてみてくれ。最初の一年でいい…俺のために。そして、世の中のために」

 それはエラスティスに対する挑戦だった。JJ自身がどう考えていたのかは別にして。

 普通の人、その他大勢、そのへんにいる有象無象、そういう人間が当たり前のようにしていることを、君にできるか、JJはそう言ったのだ。これまで幾多の苦境を乗り越えてきたエラスティスにとって、それは侮辱以外の何物でもなかった。

「いいじゃない、やってやろうじゃない。普通の生き方とかいうやつを」

 おそらくは、エラスティスがそう考えることも、JJにとっては計算済みだったのだろう。そしてそのことは、エラスティスにもわかっていた。みすみす挑発に乗るようで癪だったが、それでも、それを試す価値はあると思ったのだ。

 しかし…週の八十時間を出版社で過ごし(拘束時間は長かったが、業務自体はのんびりしたものだった)、夕食はたいてい冷凍食品のディナーとブランデーで済ませ、寝る前にTVをつけっぱなしにしながら世界情勢や経済学について勉強し、裕福ではないにしろ見苦しくない程度の生活をしばらく送ったあと、エラスティスの精神に変化が訪れた。

 

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「どうしたの?」

 日曜日、図書館で知り合った女友達とカフェテリアで過ごしていたときのことだ。

 突然その場で飛び上がりかけたエラスティスに、女友達が声をかける。しばらく周囲を見回したあとで、エラスティスは冷や汗を浮かべながら、いかにも上の空といった表情で答えた。

「あ、いや…なんでもないよ?ちょっとびっくりしただけ」

「びっくりしたって、何に?」

「あー…えーと、その、なんて言えばいいのかな」

「ちょっと疲れてるんじゃない?働きすぎ、とか」

「そうかも」

 なんならあたしが今使ってるビタミン剤を試してみる?そんな話を振ってきた女友達に愛想笑いを向けながら、エラスティスはたったいま自分を襲った感覚について考えた。

 血の匂いがした、などとは、女友達には言えなかった。

 もちろん、今はそんな匂いはしない。別に誰かが怪我をしたとか、どこかで犬が事故に遭ったとか、そんなことはまったくなかったのだから。

 ただ、一瞬。それは、たしかにエラスティスに感じられたのだ。

 ここしばらく嗅いだことのなかった、非日常的な、そして、かつてエラスティスが当たり前のように身に纏わせていた匂いを。

 落ち着こう…深呼吸し、まばたきをし、目を閉じ、そして開けた、その瞬間。

 近くを走っていた車が、突然爆発を起こした。

 悲鳴が上がると同時に銃声が鳴り響き、アスファルトにどす黒い染みが広がっていく。

 目を焼く閃光と、鼻腔を覆う硝煙。耳を潰す爆音。かつて日常のように当たり前だったそれらの感覚を受け、しかしエラスティスは自分がどうしていいか、まったくわからなくなっていた。

 ただ、混乱する頭の中で、考えていたことは一つだけ。

 駄目なのに。

 この人たちは、死んじゃいけないのに。

 誰か、この光景を止めて…そう願ったとき、エラスティスの目の前で、女友達の頭部がはじけた。

 

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 もちろん…もちろん、それは現実に起きた出来事ではなかった。

 いきなり悲鳴を上げたエラスティスを、さっき頭が破裂したはずの女友達が介抱し、けっきょく、その日は早く帰宅したのだった。

「なにか悩みがあるなら相談するよ?一人で抱えこまないで」

「ありがとう。でも、まだ自分でもよくわからないのよ…なにがあったのか」

 心配そうな表情で見つめる女友達に、半ば憔悴した顔を向けながら、エラスティスは精一杯の空元気を出してそう言い、玄関の戸をパタリと締めた。

 あれは…なに?幻覚?

 馬鹿馬鹿しい、そう思いながらキッチンでコップに水を一杯汲んで飲み干し、無意識にテレビのスイッチを入れる。

 モニターに映し出されたのは、なんの変哲もないホームドラマだった。平和な家族生活、ときにトラブルに巻き込まれ、ときに仲違いしながらも、最終的には笑顔で結末を迎えることができる。そんな内容だった。

 かつて、それはエラスティスにとって非日常的な光景だった。ただの絵空事で、どこか遠い世界の話だった。しかし一般的な社会生活に自分を合わせ、諍いや犯罪とは無縁な生活が肌の一部のように身についてきたいま、フィクションで描かれる日常が自分にとっても「当たり前の日常」に感じられるようになったいま、エラスティスはかつての自分の生きかたに、はじめて疑問を抱いていた。

 自分がいままでしてきたことは、いったい、なんだったんだろう。

 自分はいままで、なにをしていたんだろう?

『この人たちは、死んじゃいけないのに』

 幻覚の中で、自分が考えたこと。でも、それじゃあ、自分がいままで殺してきた人は、あれは、死んでもいい人間だったのだろうか。

 銃の引き金をひくとき…エラスティスは、自分の行為が正しいのか、誤っているのかなど、考えたことがなかった。それは、エラスティスにとって殺人とは「日常的な行為の一つ」でしかなく、必要があれば当然そうすべきであり、他人という存在は、邪魔だと感じれば排除すべきものだったからだ。

 親しい人間など、一人もいなかった。

 殺したことを後悔した相手など、一人もいなかった。

 殺人に罪を感じたことなど、一度もなかった。

 人間などみんな同じで、代わりは幾らでもいるのだから。今日、自分の隣で寝ている人間が、昨日、自分の隣で寝ていた人間でなくとも、なんの不都合もないのだから。

 名前が違っても、顔が違っても、性格が多少違っても、エラスティスにとって他人はあくまで「他人という単一種」でしかなかった。それぞれに個性や異なる過去があることについて、意味や価値を見出そうとしたことなどなかった。

 しかし平和な世界で日常を過ごし、いままでに出会った人間をそれぞれ「単一の個人」として認識するようになったいま、過去を思い煩うこともなく、まして過去と現在の生きかたを照らし合わせようと思ったことすらなかった点に気づいたいま、エラスティスはひどく動揺していた。

 ひょっとして、自分はいままでひどく間違った生きかたをしてきたのではないか?

 だからといって、あの環境で、他にどういう生きかたをすれば良かったというのか?

 強くなければ生きられなかった。非情でなければ生きられなかった。でも、どうやってそれを正当化できる?

「理不尽だ…こんなの、理不尽だよ……」

 もし自分に普通の生きかたができたのなら、なぜ最初からそういう環境で生きることができなかったのだろう。

 そもそも、なぜこんな環境の違いが生まれてしまうのだろう?環境を作っているのは、みんな、おなじ人間なのに。

 なぜ、私は、人間ではないのだろう…

 TVのホームドラマが明るい曲とともにエンドロールを流す前で、エラスティスはがくりと膝をつき、目を閉じる。身体の震えを止めることができなかった。ちょっと銃を撃つのが上手くても、ちょっとばかり他人より賢しく立ち回るのが得意だったとしても、今は何の役にも立たなかった。

 

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 決して自分の素性や過去を明かせない生活が、精神的な重荷になっていたせいもあるかもしれない。あるいは、自分のいままでの人生、いままでやってきたことが、すべて否定されたように感じたせいかもしれない。

 深い後悔の念や罪悪感、のみならず日常的に幻覚を見るようになったことで、エラスティスは仕事を辞なければならなくなった。

「医者に診てもらったほうがいい。きっと気分が楽になれる」

 会社から出て行くとき、心配そうな顔で見送る社長の言葉を思い出し、エラスティスは嘲笑を浮かべた。

 当然ながら、エラスティスは医者にかかろうとはしなかった。きちんと治療するつもりなら、余さず本当のことを言う必要があるだろう。いままで山ほどの犯罪に手を染めて、いまさらそのことを後悔しているなどと医者が聞いて、律儀に守秘義務を履行するとは考えられなかった。

 失意のうちに酒に逃避することを覚えたエラスティスは、昼間から酒場でアルコール浸りになる日々をしばらく続けていた。それで症状が良くなるなどということはなく、より幻覚が酷くなる有り様だったが、そのときにはもう、エラスティスはまともな思考ができなくなっていた。

 事件が起きたのは、そんなときだった。

 平日の昼間から酒を飲む客というのは、堅気でない場合が多い。あるときエラスティスは数人のチンピラに絡まれ、激昂し、店をめちゃくちゃにしながらそいつらを叩きのめしたのである。

 やや身体が鈍っていたとはいえ、酒も手伝ってかつての動きを取り戻していたエラスティスは、寸でのところでチンピラを殺すところだった。叩き割った酒瓶の切っ先を首筋に喰い込ませようとしたとき、エラスティスはなけなしの理性を取り戻し、その場から逃げ出した。

「…なにやってんだろう…私…」

 髪も服も乱れ、アルコールの匂いを身体中に染みつかせたエラスティスを見た通行人が彼女を遠巻きに避けて歩いたが、そのことを気にする余裕はなかった。それよりも、ここままでは普通の生活に戻れないこと、まして、かつて犯罪者として過ごした過去を繰り返すことなど到底できないことを思い、まるで展望の見えない未来に対する絶望が心を支配していた。

 目的もなく町をぶらぶらと歩き、偶然電気店のショーウィンドウに飾られたTVに目をやったとき、エラスティスは驚くべきものを目にした。

 それは、狐魂の死体だった。全身に銃弾を浴び、ほとんど形を保っていなかったが、それはたしかに狐魂だった。

『…この光景こそが、二年前に起きた悲劇です。なにも私は、人間を怨もうと言うのではありません。ただ、悲しいのです。生命が失われることが悲しいのです。必然性のない死、それがいま世界中に満ち溢れています』

 場面は切り替わり、映し出されたのはやはり狐魂。それも、生きた。

 神秘性と神々しさを漂わせながら、その狐魂が両腕を伸ばす。すると、どこからともなく星屑のような光があたり一面に散らばった。

『この荒廃した世界に必要なのは、諍いでも、画一的な秩序でもありません。他者を思いやる心、罪を赦す心、愛。それこそが、人々の魂を救う唯一の理。この地上に愛が満ちるまで、私にできることは何でもしましょう』

 これは…モニターを見つめながら、エラスティスはかつてTVやネットで見覚えがあったその狐魂のことを思い出していた。

 たしか、愛狐教会とかいう新興宗教の教祖だったはずだ。二年前、アメリカで軍事利用されていた狐魂が護送中に襲撃を受け殺害された事件をきっかけに突如として表舞台に姿を現し、瞬く間に信者を増やしていったという。

 自分以外の狐魂という存在に興味を惹かれはしたものの、それ以上に教義の胡散臭さや題目の陳腐さに呆れ、関心を持つまでには至らなかったのだ、そのときは。

 しかし、自分の人生、自分という存在そのものに意義を見出せなくなったいま、エラスティスは無意識のうちに愛狐教会の門を叩いていた。

「はい、どうなさいましたか?」

 教会の扉が開いたとき、そこにいたのは二人のシスターだった。頭から耳を生やした。狐の顔をした。それが仮装ではないことはすぐにわかった。狐魂の嗅覚と、そして狐魂特有の「共振感覚」がそれを理解させたのだ。

 自分以外の狐魂を直に目にしたとき、狐魂であることを隠そうともしていない彼女たちの姿を見たとき、ついにエラスティスの理性がはじけ飛んだ。

「あ、あの…私…私、は…たくさん人を殺しました。いっぱい、人から盗みました。大勢、の、人を…騙しました…数え切れないほど…たくさんの、人を…傷つけました……」

 突然の告白に目を丸めて驚くシスターたちの目の前で、エラスティスは膝をつき、耳と尻尾を露わにして、子供のように大声で泣き出した。

 

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 愛狐教会はエラスティスの受け入れを拒否したりはしなかった。彼女の犯した罪について、その詳細を聞いたあとも。

 もちろん、狐魂を裁く法が存在していないせいもあるだろう。エラスティスが冗談めかしてそう言うと、懺悔室の中で対面していた神父は、穏やかな微笑を浮かべて答えた。

「もし法が貴方を赦さなくても、我々は、少なくとも、私は貴方を赦します」と。

 そのときの神父こそ、のちに愛狐教会から分離した過激派「ドミノ・シグナリア派」の教祖となる男なのだが、エラスティスがそれについて関わりを持つのは、もう少し後の話だ。

 エラスティスはかつての自分の生活の痕跡をすべて引き払うと、愛狐教会の修道院に身を寄せることになった。禁欲的な生活に慣れるには少し時間がかかったが、なにより罪の意識が強く残り、自らに何らかの罰が与えられることを潜在的に望んでいたエラスティスにとっては、それほど苦痛を伴うものではなかった。

 愛狐教会の修道院は狐魂を人間社会に適応させるための教育施設として機能している側面があり、場合によっては言語の習得や初歩的な情操教育から始めなければならないケースがあるため、最初から人間社会に適合して生きてきたエラスティスは早いうちに教育課程を終了し、シスターとして宣誓した。

 しかしシスターとして教会が掲げる平和的思想の啓蒙とボランティア活動に勤しみながらも、エラスティスの心が満たされることは決してなかった。狐魂に囲まれながらも、エラスティスはやはり自分の存在が周囲から浮いていることを発見したのである。

 それは、彼女の過去のせいだった。

 エラスティスの血生臭い過去は周知のことであり、誰も口にこそ出さないが、何かしら畏怖や侮蔑といった感情を彼女に抱いているのに気がつくのにそう時間はかからなかった。また、彼女の行動原理が教会への忠誠ではなく自らの贖罪である(エラスティスにその自覚はなかったが、周囲からはそう見られていた)ことも、差別意識を助長させる結果となっていた。

「あなたが人助けをするのは、自分のためでしょう」

 一度など、面と向かってそう言われたこともある。なんと浅ましい、教会の面汚しだ、と。

 エラスティスは反論せず、そういった仕打ちにも黙って耐えることを選んだ。これも、いままで自分が犯した罪への罰なのだと思うことで納得はできたが、それでも、ならば正しい信仰の形とは何か、自分と他のシスターたちの何が違うのかと考えると、満足のいく答えを出すことができなかった。

 転機が訪れたのは、彼女の逡巡が混迷を極めていた、そんなときだった。

 

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 穏やかな生活態度とは裏腹に、ほとんど自棄的になっていたエラスティスは、紛争地帯でのボランティア活動に自ら進んで志願した数少ない修道者の一人だった。人の役に立ちたい、自らの罪を癒されたい、あるいは、死に場所を探したい…そういう雑多な思いが纏まらないまま、無意識のうちに手を挙げていたのだ。

 派遣先は、ソマリア。

 2016年、ソマリア南部を拠点とするイスラム原理主義組織アル・シャバーブの訓練キャンプをアメリカとエチオピア・ケニアの合同軍が襲撃。そのまま戦争状態に突入し、状況は合同軍優勢のまま現在は小規模な戦闘が散発的に続く状況となっている。

 アメリカは積極的に介入したわけではなく、初期に特殊部隊を投入し主導権の掌握に成功して以来はほとんど軍を派遣していない。武装勢力への攻撃と治安維持は主にケニア軍が担当し、状況は沈静化しつつあるという。

 エラスティスたちが派遣されたのは、ケニアとの国境沿いにある都市ガーバハレ。空港のすぐ近くに難民キャンプがあり、愛狐教会は食料など物資の支援のみならず病院や教育施設の設置も手伝っていた。そして、エラスティスは学校の教師としてしばらく教鞭を執ることになったのである。

 しばらくしてエラスティスが驚いたのは、子供たちの何割かは少年兵として戦闘に参加経験があったということだった。

「かつて、ソマリアの少年兵はそれほど錬度の高いものではなかった。しかしアル・シャバーブがタリバン式の戦闘教育を施したことで、彼らは統率された兵士として我々の脅威となったのだ…こうして、生きたまま銃を捨てることができた子たちは幸運だよ。彼らは敵前逃亡や投降を許されない教育を叩き込まれているから、普通は死ぬまで戦うのをやめないんだ」

 そう言ったのは、ガーバハレの治安維持にあたるケニア軍の兵士だった。

 少年たちがどういった経緯でこの場所に辿り着き、そしていま、どんな心境でいるのか…エラスティスは興味を覚えたが、それと同時に、彼らに対して畏れを抱いてもいた。

 かつて慣れ親しんだ血と暴力の世界は、いまのエラスティスにとって耐え難い恐怖の対象となっていた。遠くで聞こえる銃声を耳にするたび、罪の意識が呼び覚まされるようで…誰にも見られていないとき、部屋の隅で震えながら涙を流すこともあった。そんな姿を、子供たちに見せることなど、到底できないが。

 ほとんど軽はずみとも言える衝動でこの場所に来たことを後悔するのにそれほど時間がかからなかったが、それでも普段は気丈な態度で子供に接していたエラスティスはある日、授業がはじまっても一人の少年の姿が見当たらないことに気がついた。

 たしか、かつて少年兵だった子だ。物静かな性格で、滅多にコミュニケーションを取ろうとしない内気な子、バシール・カリムという名だったろうか?たしか、そうだ…幸い名前を記憶するのが得意だったエラスティスは、耳慣れぬ子供たちの名前を正確に覚えていた。

 他の子供たちにカリムの行方を訊ねてみたが、誰も何も知らないようだった。探しに行くべきだろうか?

 エラスティスが行動をためらっていたそのとき、すぐ近くで銃声が響いた。

 

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「おい、おまえ」

 バシール・カリムが仮設学校に向かおうとしたとき、一人の兵士が彼を呼び止めた。

 とはいっても、はじめカリムはその声が自分に向けられたものだとは気づかなかった。兵士のすぐ横を通り過ぎようとしたとき、襟首を強引に掴まれ、兵士のすぐ正面に立たされた。

「無視するな。おまえに言ってるんだよ、くそちび」

 見たところ兵士はまだ若く(カリムほどではないが)、制服もやけに綺麗だ。新兵?いや、腰に拳銃を下げているところを見ると、士官だろうか?

 いったい、なんの用があるんだろう…そう思った直後、カリムは兵士に頭をひっぱたかれた。

「おまえ、少年兵だったんだってな。俺たちの仲間を殺したんだろう?よく平然とここで物乞いができるな、えぇ?」

 そう言ってまた、二度、三度と頭をはたかれる。やりたくてやったんじゃない、という言い訳は通用しなさそうだった。

 幼い頃に両親を失い、妹と二人で路地裏のごみ漁りをしていたところをアル・シャバーブに保護されたカリムは、文字や言葉を覚えるより先に人殺しの方法を身につけさせられた。

 倫理観を身につける前に効率的な殺人術を叩き込まれたカリムは、それでも妹に対しては深い愛情を抱いていた。

 大人たちの言うことを聞けば、より良い待遇を用意してもらえる。より多く人を殺せば、より多くの食べ物を分けてもらえる。それで妹が空き腹を抱えずに済むのなら、なんだってしてやる。

 どのみち、他に道はない…そう思っての行動だったが、しばらくして、カリムの兵士としての生活は突如として終わりを迎える。

 深夜、皆が寝静まったとき、突然キャンプが謎の部隊の襲撃を受けたのだ。

 いち早く応戦に乗り出した大人たちはすぐさま射殺され、施設はあっという間に制圧された。

『こちらガンマ・フォー、状況は終了。施設内に多数の子供たちが捕らえられています、すぐに収容を頼みます』

 カリムの目の前に現れた、漆黒のボディアーマーを纏った影。バイザーから紅い光を発し、狐のような耳と尻尾が不気味に揺れている。

 大人たちが死んだ以上、抵抗しても意味がないことはすぐに察することができた。ただ所在なく立ちすくむカリムの前で、漆黒の兵士が人差し指を立てて言った。

『大丈夫、なにも怖がる必要はないわ。もうすぐ安全な場所へ運んであげる、もう危険な目に遭うこともないから』

 その言葉とは裏腹に、漆黒の兵士は決して警戒を解いてはいなかった。すこし銃口を上げればカリムを捉えることができる位置に銃を下げており、その抜け目なさにカリムは脱帽した。こいつは、必要があれば子供の僕でも撃つつもりだ…そう、本能的に感じ取ったのだ。

 いまはただ、妹の行方が心配だった。部屋の入り口に目をやると、そこにはもう一人、窮屈そうに巨躯を折り曲げている兵士の姿が見えた。

『アンダーウッド隊長、指示をお願いします』

『ルイス、護送車が来るまで周囲の警戒をお願い。まあ、敵の応援が来るとは思えないけど…エデンにも狙撃ポジションから動かずに警戒を続けるよう言ってちょうだい』

『了解しました』

 そんなやり取りをしていただろうか。

 その後すぐに軍の装甲車に押し込められ、カリムはガーバハレの難民キャンプへと連れて来られた。妹とは難民キャンプで再会することができ、それはそれで安心だったが、いままで兵士としての教育しか受けてこなかった彼にとって、難民キャンプでの学校教育はいささか苦痛を伴った。

 殺人を是とする生き方をしてきたカリムにとって、愛と平和がどうのといった思想はひどく現実味を欠いた代物であり、またそういう思想を理解できる人間から、自分こそ異端な存在として認識されているであろうことも、彼の孤立感に拍車をかけた。

 そうやって、どこか虚無的な感情をひきずった生活を続けていた矢先、ケニア軍の兵士にちょっかいをかけられたのだった。

「おい、なんとか言えよ。いまここでぶっ殺してやってもいいんだぞ」

 殴ってもたいした反応を示さないカリムに業を煮やしたのか、兵士はライフルの銃口をまっすぐカリムに向けた。

 どうせ、撃ちはしないだろう…カリムはその点については確信があった。いくらなんでも、難民キャンプのど真ん中で子供を射殺して問題が起きないはずはない。なにより、ここで自分が抵抗したら妹の身に危険が及ぶかもしれない。

 いままで差別的な言葉を投げかけられたり、ときに暴力を振るわれても、黙って耐えていたのは妹の身を案じてのことだった。幸い、妹は自分と違って誰彼にちょっかいをかけられるような目には遭っていないようだった。

 しかし、兵士にライフルの銃口を顔にぐいぐいと押しつけられたとき…カリムの中で、忍耐の緒がはじけ飛んだ。

 カリムはライフルの銃身を掴むと、それを奪い取ろうと腕に力を込めた。しかし兵士と自分とでは体格に明らかな差があり、すぐ床に叩き伏せられてしまう。

「ようやく抵抗したな。怒ったのか?俺のことが気に入らないか?でもな、おい、ガキ。ここじゃあ人殺しのガキより、キャンプの安全を守る兵隊のほうが偉いんだぜ、もし俺に嫌がらせを受けたことを誰かに話したいなら、話せばいいさ。そのとき、みんなが俺とおまえのどっちを信頼してるか、嫌ってほど思い知るはずだからな」

 そう言って、若い兵士はふたたび銃でカリムを殴りつけてきた。

 地面に伏していたカリムは砂を掴んで兵士の目に投げつけ、彼がよろめいたところで腰のホルスターから拳銃を抜き取った。ほとんど本能的な動きで安全装置を外し、兵士の腹に二発銃弾を撃ちこむ。

 ああ、やってしまった……

 どこか他人事のようにそう考えながら、カリムは拳銃から弾倉を抜き取り、遊底を引いて薬室から銃弾をはじき飛ばす。拳銃を捨ててライフルを手に取り、その場から駆け出した。

 

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 カリムが兵士を撃った。

 その事実に、エラスティスは衝撃を受けた。幸い致命傷ではないらしいが、医療設備が不足しているここでは、充分な手当てができるかどうかはわからない。

 どうやらカリムは銃を乱射しながら教会に立て篭もったらしく、逃げ出した神父やシスターと引き替えに武装した兵士たちが周辺を包囲しているという。ただ教会は入り口が一つしかなく、迂闊に侵入を試みるとたちまち反撃されることから、軍は突入をためらっているらしい。

「私が説得します」

 判断に苦しむ軍の指揮官、怯えすくむ他の修道女たちが、エラスティスの言葉に驚きの表情を向ける。

 生徒が問題を起こしたのであれば、その責任は教師である自分が担うべき…そういう単純な思考からエラスティスは発言したのだが、まわりはそうは思わなかった。銃を持った狂人を相手に立ち向かうのは、ふつう、献身的自己犠牲と見做されるからだ。

 願ってもない提案…みんながそう思ったことが、エラスティスには「感じ」られた。そして、すぐに遠慮がちなためらいが「沸いた」ことも。

「危険です。説得は最後の瞬間まで、我々が」

 軍の指揮官は、そう言ってエラスティスを止めようとした。もちろん、それが本音ではないことは明白だったが。

 それに、カリムが軍人の説得に応じる理由は何一つない。それはエラスティスにも、そして軍の指揮官にもわかっていた。軍の指揮官が言う「最後の瞬間」が訪れるのは、そう遅くないだろうということも。

「危険すぎます。いくら生徒と教師の間柄とはいえ、それは短い時間でのこと。貴方がそこまで責任を感じる必要は…」

 愛狐教会の修道女も、たどたどしい口調でそう話しかけてくる。なんで自分がこんな目に、こんな危険な場所にいなければならないのか、という感情を「漂わせ」ながら。

 冗談じゃない、エラスティスは憤りを感じ、彼らを押しのけて教会へと向かう。

 これだけ安全な場所にいて、なにが危険なものか。射線が通らない場所に立っていて、なにが危険なものか。

 そこまで考えて、ああ、とエラスティスは理解した。

 自分と彼らとでは、「危険」というものに対する認識が根底から違うのだ。エラスティスが争いを恐れたのは、それが自分の罪の意識を呼び覚まさせる「呼び声」であったからで、生命の危機を感じたからではない。

 教会の入り口に近づいたところで、大口径ライフル弾がエラスティスの黒い修道服の裾を貫いた。

 運よく外れた、とは、エラスティスは思わなかった。これは狙い澄まされた冷静な一撃だ。儀礼的な威嚇射撃、ちょうどさっき軍の指揮官や愛狐教会が使い分けた口先の建て前と内心に秘めた本音、これはその建て前のほうだ。

 ざわつきながらも、誰もエラスティスの行動を止めようとはしない。万一にでも彼女が説得に成功すれば、それに越したことはないという「本音」、それを行動で示しているのだ。それと同じように、カリムも、いずれ命中弾を撃ち込んでくるだろう。教会の中から漂うどす黒い殺気を「見」て、エラスティスはそう確信した。

 本当は今すぐにでも頭に一発撃ち込みたくてたまらない。そうカリムが思ったのを、エラスティスは「感じ」た。

『どうせ、僕のことなんか誰も理解できない』

『何度も死にかけた』

『大勢殺した』

『それが正しいと言われたからやった』

『それが正しいと信じてやった』

『いまさら間違っていると言われて、納得なんか、できるわけ、ないじゃないか…!』

 激情のまま怒りをたぎらせるカリムの思考が、エラスティスの脳裏に「流れ込んで」くる。

 やがてエラスティスは、カリムと真っ向から向かい合うかたちで彼と対峙していた。やや対比の吊り合わないライフルを正確に構えたカリムの胸に、交差した弾倉ポーチがぶら下がっている。弾の余量は充分らしい。

「このまま篭城を続けても、殺されるだけよ。変わるとすれば、何人を道連れにできるか、というくらい」

 エラスティスは慎重に言葉を選びながら、そう発言した。直後、カリムが浮かべた侮蔑の感情がエラスティスの脳裏をちくりと刺す。

『それでいいんだよ』

『みんな殺してやる』

『もう生きていたくなんかない』

『敵意を向けられるのも、同情されるのも、もう、うんざりだ』

 ズダンッ!

 エラスティスの足元に銃弾が炸裂し、石畳の破片が頬をかすめる。エラスティスはわずかに顔をしかめたが、視線はまっすぐカリムに向いたままだった。カリムにはそれが少し意外なようだったが、彼の決意を揺らがせるほどの動揺には至らなかった。

『誰も、僕を同じ人間だとは思ってない』

『少年兵というタグを首にぶら下げた檻の中の動物、それが僕という存在のすべてだ』

『僕が生きることを望む人間なんか、ここにはいない』

『世の中のどこにも、そんな人間はいない』

『目の前にいる狐耳のバケモノだって、きっと同じだ』

『なら、それでいい』

 殺す。

 そのとき、カリムの感情から怒りがふっと抜けたのがエラスティスには「わかった」。そのかわり、今の彼に残ったのは純然たる殺意だった。

 あ、殺されるな…エラスティスは漠然と、そう直感する。

 しかしカリムは引き金をひく直前に少しだけためらいを見せ、心臓に向けた銃口を下げた。

 バツッ、グシャアッ!

「…… …… …あっ、がっっ……!」

 銃弾は、エラスティスの左膝を打ち砕いた。

 左脚の膝下が奇妙な方向に捻じ曲がり、エラスティスはぶざまな格好で床に倒れる。

『教師面して、愛だの平和だの』

『何も知りもしないくせして、偉そうに』

 殺す直前で情が沸いたのか、あるいは殺さずにいたぶろうとするサディズムがそうさせたのかはわからないが、カリムはエラスティスが虫のように地面に這いつくばる姿を見ても、すぐにとどめを刺そうとはしなかった。

「…ひっ……、ぅ…っぁぁ……」

 あまりの激痛にエラスティスは顔を歪め、頬に涙を溢れさせる。

 真っ向からまともに銃弾を受けたのは、随分とひさしぶりのことだ。おそらく、幼少期に一度か二度…以後は今に至るまで、銃弾でこれほどの傷を負ったことはない。いくら狐魂の治癒能力が人間を大きく上回るといっても、完全に破壊されちぎれかけた膝を治すには、かなりの時間を要するだろう。

 本来ならこれは負う必要のない傷であり、外敵になり得るはずもないエラスティスを攻撃したカリムに対して、非難や怒りを向けてもいいはずだった。あるいは今にも自分を殺そうとするカリムに、恐怖の眼差しを向けてもいいはずだった。

 だが、エラスティスはそのいずれも選ばなかった。

 エラスティスが彼に抱いたのは、途方もない「親近感」だった。

 突然ルールの異なる世界に連れてこられた戸惑い。いままでの自分の行為、自分の生き方が間違ったものであると一方的に指摘されたときの、理不尽に対する怒り。

 いま銃を手に目の前に立つカリムは、かつて社会に適合できず絶望に身を委ねたエラスティスの姿そのものだった。

「(あのとき…私が、彼のようになっていても、おかしくはなかった)」

 現実にはそうはならなかったわけだが、「有り得たかもしれない未来の自分」の象徴として佇むカリムに対し、エラスティスが彼に投げかけた言葉は、呪詛でも悲嘆でも、凶行の阻止でもなかった。

「…あなたは…なにも悪くない」

 苦痛にもがきながらも、どうにか一言、エラスティスはそう呟く。

 それに対してカリムが向けた「感情」は、当惑と怒りだった。

『なにも悪くない、だって?』

『そんなはずはない』

『人を撃ち、傷つけ、あまつさえ今まで大勢の人間を殺してきた自分が、何の罪もない、なんてことは有り得ない』

『こいつは口先だけの綺麗事を言って、僕を油断させようとしている』

『いかにも頭の沸いた聖職者がやりそうなことだ』

 そこまで考え…カリムはもう一度銃弾を撃ち込むかわりに銃を反転させ、振り下ろした台尻でエラスティスの左膝を叩きつけた。膝頭が砕け、間接がいかれた左膝を。

 ゴグチュッ、ガキッ。

 水っぽい破砕音とともに血が飛び散り、台尻と砕けた骨が石畳の上でこすれる音が響く。

「…~~~ッッ、っ…ぁ……っ!!」

 耐え難い激痛にエラスティスは声にならない叫びを上げ、気を失いかけながらも、どうにか意識を保ち続けようと歯を食いしばる。

『これでもまだ、綺麗事が言えるのか』

 冷めた目つきで見下ろすカリム。

 おびただしい量の血を流しながら、しかしエラスティスの決心が揺らぐことはなかった。

 あれは、私だ。

 あれは、私なんだ!

 救いを求めながらも、拒絶され、傷ついた私の魂そのものなんだ。

 だから、私が彼を助けなければならない。

 彼を助けることができるのは、彼の魂を救うことができるのは、私しかいない。

 それはほとんど本能的な衝動だった。エラスティスは決死の力を振り絞り、カリムに感情の「波」をぶつけた。

『これは綺麗事なんかじゃない』

『あなたは何も悪くない』

『だって、私にはあなたの気持ちがわかるから』

 キッ、気丈にも顔を上げ、じっと目を見つめてくるエラスティスに、カリムは思わずたじろぐ。

 エラスティスが元々備えており、かつてJJにその才能を指摘されながら、いままで無意識のうちに封じていた力…「精神感応能力」。感情の波を視覚化し、相手の心を読み、また、自らの思考を相手に送ることができる。しかし最も強力なのは、同調する感情を共鳴させ、増幅させる力だった。

 ほぼ無意識にエラスティスが発動させたこの力の影響下に置かれながら、そのことに気づかないカリムはなおも心の中で叫び続ける。

『同情なんかいらない、知ったふうな口をきかないでよ!なんでお前に、僕の気持ちなんかが』

『いままで正しいことをしてきたつもりで、でも、それが全部間違ってたとわかって』

『他人の一方的な都合で大勢殺させられて、それでいまさら大罪人のように言われて』

『どうすればよかったんだ』

『いったい、僕にどうしろっていうんだよ!』

 それまでは怒りに身を任せながらも銃を扱う手は正確だったカリムの身体は、感情の波に揺り動かされて大きく震えを起こしていた。あらゆる負の感情がないまぜになり、表情のなかった顔が大きく歪む。

 エラスティスは痛みに耐えながら、ゆっくりと前に這っていき、そして、カリムの足を掴んだ。

『どうしようもなかった』

『どうすることもできなかった。あなたには』

『私には』

 誰も、自分を救おうとはしなかった。ただの一人でもいい、自分のことを理解してくれる人が欲しかった。

 欺瞞でもいい。真実でなくてもいい。だた、あのとき、自分はこう言ってほしかったのだ。

「あなたは、なにも悪くないよ」

 そして。

 抱きしめてほしかった。

 血まみれのエラスティスに抱擁され、カリムの脳裏にエラスティスの記憶がフラッシュバックする。

 ゴミ溜めに生まれ、人並みの幸福を知ることすら叶わず、生きるために罪を重ね、背負わされた十字架の重さに気がついたときには何もかも手遅れになっていた、その人生はあまりにも自分が辿った足跡と近似しており。

 カリムは彼女の人生を理解したと同時に、また彼女も本当に自分のことを理解してくれていたのだと気がついた。

 ガチャン。

 銃が手から滑り落ち、石畳の上で跳ねて大きな音を立てる。

 必死の思いで自分を救おうとしたエラスティスの温もりを感じながら、カリムは大声で泣き出した。

 

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 事件後、カリムは愛狐教会の保護下に置かれ、エラスティスは帰国後に手術を受けたあと、愛狐教会の本部へ出頭していた。

 松葉杖をつきながら、エラスティスは自らの行為を反芻する。

 傷ついたカリムの魂を救うことは、おそらく、自分にしかできなかったことだ。

 そしてそれは、いままで「ただの過ち」としか考えていなかった過去があったからこそ、成し得たことだ。

 自分のいままでの人生は、決して無駄なんかじゃなかった。

 少なくともカリムの魂を救うことでそう自覚することのできたエラスティスは、いままでにない充足感で胸を膨らませていた。

 しかし愛狐教会の教祖は、そんな彼女を手放しで褒めるようなことはしなかった。

「困ったことをしてくれましたね」

 高位の信徒でさえ、滅多に対面の叶わぬ教祖との面談。

 そういった名誉に預かりながら、開口一番そう言われたエラスティスは戸惑いを隠せなかった。

「あの、それは…」

「たしかに貴女の行為そのものは賞賛されて然るべきです。危険を顧みず、大きな怪我を負いながらも他に怪我人や死者を出さず事態を収束させたことについては素直に褒めるべきでしょう。現にメディアは貴女の行為を大きく取り上げ、それによって当教会の評価を高めることに寄与したのですから」

 しかし、と、そこで愛狐教会の教祖は間を空けた。コホン、咳払いを一つ、そして言葉を続ける。

「しかし貴女はやりすぎたのです。今後、当教会の信徒たちには貴女が行なったような貢献が求められることになるでしょう。自らの命を顧みず、危険に身を投げ出す…私としては、大切な信徒をそのような試練に投げ出すことを好ましく思うことはできません」

 今後はもっと自重するように。

 穏やかながらも事務的な冷徹さが滲むその言葉を後に、エラスティスは退室した。

 …私は、正しいことをしたはずじゃなかったのだろうか。

 やはり、私は過ちを犯すことしかできないのだろうか?

 せっかく掴みかけた光明を閉ざされたような気持ちを引きずったまま、力なく松葉杖をつくエラスティスの背に、何者かが声をかけた。

「罪人にしか、赦すことのできない罪もある」

 振り向いたエラスティスの目に、柱にもたれかかった状態で様子を窺う男の姿が飛びこんでくる。

「あなたは…」

「彼女は…教祖様は偉大な方です。しかし、組織のトップとしての重責に早くも心が揺らぎはじめている。彼女にとっては、見知らぬ魂の救済よりも信徒の身の安全のほうが大事なのでしょう。世の中の平和よりも、教会を滞りなく運営するほうが大事なのです」

 それはかつて、愛狐教会に入ったばかりのエラスティスの罪の告白を聞き、そして彼女に赦しを与えた神父だった。

 いつも浮かべている穏やかな笑みではなく、皮肉交じりの冷笑を浮かべる彼に、エラスティスはとまどいを感じながら、その場に立ち尽くしてしまった。

 神父はそのまま言葉を続ける。

「誤解のないよう言っておきますが、私は彼女を悪く言うつもりはありません。実際、組織を纏めるリーダーとして有能なのは確かですし。しかし、彼女の姿勢はあまりに保守的すぎるのです。我々はまだ、何も成し遂げていないというのに…」

 そこまで言うと神父は柱から背を浮かせ、エラスティスに近づいて優しく抱きとめた。

「貴方が難民キャンプでしたことは、本当に素晴らしいことです。私は、貴方の行為を高く評価しています…私には、我々には、貴方のような存在が必要なのです」

「…なにが言いたいの?」

「近いうち、私は幾人かの信徒を引き連れてこの教会を離れるつもりでいます。そして、新たな派閥を立ち上げ独自に活動をはじめる計画が既に進んでいます」

「教会を裏切るの?」

「貴方にもわかるはずです…彼女のやりかたでは、世界を救うことなどできないと。世界の荒廃は加速度的に進んでいます、この期に及んで『平和を実現するのに手段を選んでなどいられない』。だから、我々には貴方のような人材が必要なのです。貴方ならわかってくれるはずだ」

 神父の腕の中で身をすくめながら、エラスティスは彼の放つ強大なオーラを見て言葉を失う。

 なんて強い、なんて強い意志なのだろう。嘘や打算のない、偽りのない感情。彼は、本当に世界を救おうとしている。世界を救いたいと願っている。

 それなのに…美しい理想を掲げながら、これほどまでに漆黒のオーラを放つなんて。悪意や邪悪さとも取れる、ドス黒い感情の奔流が、高潔な意思と反発することなく同居していられるなんて。

 堕天使、思わずそんな単語がエラスティスの脳裏をよぎる。それも、罪を見咎められ罰を与えられたのではない。神には成し得ない理想を遂げるため、自ら進んで地に堕ちた者の姿だ。誰に辱められたわけでもなく、何に強制させられたわけでもない。

 いったいどんな経験をすれば、これほどまでに屈折した人格が形成されるというのだろう?

 そう思いながらも、エラスティスは自分でも気づかぬうちに目の前の男に興味を…いや、好意を抱きはじめていた。

「闇を知り、闇に目を背けず直視できる者。それこそが、世界の救済に必要とされる資格なのです。この際、方法や過程は問題ではありません。結果として世界が救われさえすれば良いのです…善人には、善人を自認する者にはそれを理解することができない。ゆえに、善人にこの世界を救うことはできないのです。理想で人を救うことはできませんから」

 神父の言葉は、まるで寄生虫のようにすんなりとエラスティスの耳に入り込み、彼女の思想と同化していく。

 欺瞞でもいい。真実でなくてもいい。それでも救いたい、救われたい。

 カリムを救おうとしたときの自分の思考と、神父の掲げる理想が同調し、気分を昂ぶらせたエラスティスが無意識のうちに暴走させた精神感応能力が、二人の精神を一瞬だけ同化させる。

 わずかな時間だけ心が一つに溶けあったあと、エラスティスは恍惚とした快楽と、未知の感覚に対する恐怖を覚えながら、震える唇をそっと開いた。

「……あなたは…誰?」

「名乗るのが遅れましたね。セオと申します」

 神父…セオはそう言うと、エラスティスの唇をそっと塞いだ。

 

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「なにか考えごとでもしてるのかい?」

「ん?いえ…ちょっとね」

 あれがもう、五年ほど前の出来事になるだろうか。

 カーテン越しに差す日の光を見上げながら、シャワーを終えたエラスティスは身支度を整えながら、背広姿で煙草をふかす男に気のない生返事をした。

 愛狐教会を離れ、セオとともにドミノ・シグナリア派を創設してから、エラスティスは持ち前の知性を活かして上流階級に食い込み、世界中を飛び回りながら有力なシンパを作り続けてきた。

 政治家、企業重役、アラブの石油王…交流を深め、夜を共にした男の数は知れない。

 そうやって世界を動かす男たちを取り込みながら、ときには今回のように、たいした地位も財産もない男と一夜を過ごすこともある。

 地道な活動も大事にしているから?より多くの人間に救済を与えたいから、あるいは、単純に男と寝るのが好きだから?どれも間違いではない。夜を一人で過ごすことに寂しさを覚えるのも事実だ。

 だが、それは…

 エラスティスは腰のベルトを留め、ふと男のほうを振り向く。そこには男だけでなく、幾つもの影が佇んでいた。

 そこには男以外の人間がいるはずはなかったし、男も自分とエラスティス以外の存在を認識してはいなかった。しかし、エラスティスには彼らがはっきりと「見えて」いた。

 恨めしげにこちらに視線を向ける者たち。どれも見覚えのある面々だ。かつてメキシコで殺した罪のない村人、ギャングのメンバー、素性も知らない連中。いずれも、かつてエラスティスが手にかけた人間たちだ。

 自身の罪を自覚したときから見えはじめた幻覚、努めて意識しないようにしていたが、それは愛狐教会に身を置いてから現在に至るまで、片時も消えたことはなかった。

『なぜ、おまえがまだ生きている』

『おまえのような悪人が』

『大罪人が』

 亡霊が声を発することはなかったが、彼らがそのように思っていることが、エラスティスにはよくわかっていた。

 どれだけ人を救おうと、人を救うためにかつての経験が役立ったとしても、それで自身の罪が消えるわけではない。

 いまでも孤独な夜を過ごすとき、一人きりで彼らとともに取り残されることへの恐怖を感じることがある。エラスティスが惰眠を貪るとき、常に男が隣にいること、その理由の一つにそういった事情があることは否定できない。

 亡霊の姿をじっと見つめるエラスティスに、そうとは気づかず男が声をかけた。

「なぁ…その、俺たち、つきあえないか?恋人同士として」

「それはできないわ」

 一分の逡巡もなく否定され、男は当惑の表情を浮かべたまま苦笑する。

 おそらく男の言葉は、エラスティスには世界中に愛人がいることを理解したうえでの告白だったのだろう。そして、そのことを快く思わず、落ち着いた生活を送って欲しいという気遣い、その中に僅かに浮かぶ支配欲。

 しかしそれは、エラスティスにとってはまったくの余計なお世話だった。

 べつに、目の前の男に好意を抱いていないわけではない、だけど。

「私は誰のモノにもならないわ、個人の所有物にはね。たとえそれがあなたでも、ハリウッドスターでも、世界有数の大金持ちであったとしてもよ」

「しかし…」

「私は誰のモノにもならない。だから、会いたいと思ったとき、会いたい人に会うことができる。誰かが私に会いたくなったとき、会いに行くことができる。あなたが私に会いたいと思ったら、いつでも会うことができる。それでいいじゃない?」

「…俺が悪かったよ。わかった、引き止めはしない。だけど、また会えるんだよな?」

 なんてことを言い出すんだ、男は口の中で呟きながら、参ったとばかりに両手を上げる。

 エラスティスは優しさに少々の寂しさを混ぜた笑みを浮かべると、男と、そして自らに纏わりつく亡霊に背を向け、部屋をあとにした。

 

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 いつか。

 いつか、私の罪が裁かれるときがくるのだろう。

 それでも。

 それでも、それまでは…自分が信じた道を、自分が正しいと思った道を、歩んでいきたい。

 

 

 

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